皆野椋神社
町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238
・ご祭神 猿田彦大神 八意思兼命 大己貴命
・社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
・例祭等 祈年祭 4月7・8日 八坂神社例祭 7月18日
例大祭 10月7・8日 他
皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
皆野椋神社 一の大鳥居
社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
木製の両部鳥居である二の鳥居
二の鳥居の左脇には 皆野椋神社の案内板もあり。
猿田彦大神の名が刻まれた石祠等を祀る。
椋神社 御由緒 皆野町皆野二三八
◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
案内板より引用
拝 殿
拝殿に掲げてある扁額 拝殿内部
境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板
埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
案内板より引用
本 殿
神楽殿
本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。
祖霊社 八坂大神 正一位伏見稲荷大神 太宰府天満宮 4社合殿(産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神)6社合殿(山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神)
社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。
本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。
高良玉垂大神・天児屋根神社・斎主大神・神明大神・菊理姫大神・事解男大神
雷電大神、善女龍王大神・句々馳智大神・河菜姫大神・埴山姫大神
境内にある「宝物殿」 境内に設置されている由来碑
椋神社の主祭神猿田彦命は貞観13年従5位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡2座とある内の1社と伝えられている。椋神社は郡下に同名社5社をかぞえ、明治政府はいずれも式内社と称することを許したという。その中で平将平、平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近には古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある。
当社の草創をたずねれば景行天皇41年皇子日本武尊が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる。
新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている。
爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和62年10月19日伊勢本宮参拝を果たし、永代御祈祷御神符拝受を畏み、今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える。
ところで、皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7咫(あた)、背の高さ7尺(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。
専用駐車場から見える武甲山
皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。