古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

坂戸神社

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川が南西から東へ流れている。
 昔から交通の要衝に位置し、江戸時代には八王子から日光に至る街道の宿場町として繁栄していた。その後、肥沃な土地を活かした農業が盛んとなり、明治2912月に町制が施行された。昭和297月には、坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村の5町村が合併して新生坂戸町となり、この後、人口は安定的に推移し、農業中心の町として順調な発展を遂げてきた。昭和40年代の後半には、都心から45キロメートル圏という利便性から、大規模な住宅団地などの相次ぐ開発で人口増加は著しくなり、昭和50年から昭和55年までの人口の伸びは、市の中で全国一となる。
 そして、昭和5191日に埼玉県で39番目、全国で644番目の市として坂戸市が誕生した。市制施行時55,000人であった人口は、都市化とともに増加し、平成1810月には、10万人都市の仲間入りをした。
        
            
・所在地 埼玉県坂戸市日の出町726
            ・ご祭神 
白髪武広国押稚日和根子天皇(清寧天皇)
            
・社 格 旧坂戸村鎮守 旧村社
            
・例祭等 例祭 415日 天王様 715日を中心とした土・日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9592817,139.3900288,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折、1㎞程先の「日の出町」交差点を左折し200m程進むと、進行方向右側に坂戸神社の鳥居や境内が見えてくる。地図を確認すると、東武東上線坂戸駅(北口)や、市役所などもすぐ近くにあり、市の中心部に鎮座しているようだ。駐車場は神社の敷地内にあるのだが、程々に交通量もあり、駐車場での出入りの際には周囲の道路状況を確認する等の注意が必要だ。
        
                    坂戸神社正面
「坂戸」地名由来として『新編武蔵風土記稿 坂戸村条』では、「勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のことを據(よりどころ)とすべき記録なければ、今よりは考べからず」「常泉寺 薬師堂 本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺許の薬師を納り、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年に此處へ安置せしとのみ傳へて、この外のことは詳ならず」「常泉寺蹟 村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばゝ兵火の為に烏有となりし後は廢寺となる」との記載がある。
 
     鳥居の右側に建つ社号標柱            鳥居上部の社号額
        
             社号標の近くに設置されている社の由来書

 ご祭神である白髪武広国押稚日本根子天皇は、22代清寧天皇である。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来「白髪」という身体的な特徴であったため父帝・雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。但し白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。
 雄略天皇238月に大泊瀬天皇は崩御する。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させ、(星川皇子の乱)翌年正月に即位する。
 即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とし、即位5年正月に崩御する。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳といい、陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)という。
 実際に行政を行った記録は全く無く、存在感の大変薄い天皇でもあるが、生来の「白髪」という身体的な特徴であるがため、多くの伝説が後代尾ひれをつけて伝承された人物でもあろう。
        
                            独特の形状をした石製の二の鳥居
 白髪神社は調べると大きく3系統の由来があり、またそれぞれ「白鬚」「白髭」「白髪」等記載も微妙に違っている。詳しくは「上原白髭神社」を参照。

「坂戸神社御由緒略記」によると、以前は「白髪社」と称し、元坂戸に鎮座していた。創建に関して、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられている。
 また『風土記稿』には「村名の起りを尋ねるに康平の頃、坂戸教明といへる人住せしより始れる」とあり、更に「教明の生国は河内国坂門原(坂戸原)で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」という。
        
                     拝 殿
 坂戸神社御由緒略記  お拾神(とかみ)の宮
 主祭神 清寧天皇(白髪武広国押稚日和根子天皇)・猿田彦命
 合祀神 神祖熊野大神櫛御気野命・建御名方命・菅原道真公・大山咋命・菊理姫命
     須佐之男命・倉稲魂命・誉田別命
 鎮座地 埼玉県坂戸市日の出町七の二六(坂戸字日枝前)
 交 通 東武東上線:坂戸駅(北口)より徒歩五分
 例 祭 四月十五日
 由 緒
 当神社は、高麗川・越辺川右岸の台地部分にあたる市街地中心部に鎮座します。
 社伝によると、ご創建の来由は第七十代後冷泉天皇の御代、朝廷軍である鎮守府将軍、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられています。
 白髪社創祀のことは、『新編武蔵風土記稿』に「村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる」とあり、「教明の生国は河内国坂戸原で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」と記載され、平安時代末期の康平年間(一〇五八〜一〇六五)と伝えています。
 創建当時、白髪社は元坂戸に鎮座し、古来より郷人たちの尊崇に篤き一村の鎮守であることから、明治五年(一八七二)には太政官布告の社格制定により、村社に列せられました。

 また、同一七年(一八八四)には、坂戸駅付近の導願山に遷座して清寧天皇(白髪明神)・猿田彦命(白髭明神)の二神を主祭神とし、同時に稲荷前の熊野社、堀ノ内の諏訪社、天神前の天神社の三社を合祀し、五社様と尊称され、氏子区域も広がり盛大に祭祀を営みました。更に、同四十年(一九〇七)には日枝前の日枝・白山社、八坂社、これに加え、粟生田の稲荷社、上吉田の諏訪社・天神八幡社を合祀し、現在の鎮座地である字日枝前に遷座し、氏子区域は広大となり、祭祀も更に増え、厳粛・盛大に執行されました。本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎します。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)です。そして、同年には社号も「白髪社」から現在の「坂戸神社」に改められ、境内も一段と整備されました。(中略)
                              「坂戸神社御由緒略記」より引用

        
                拝殿左側手前にある神楽殿
 
         社殿の奥には数多くの山車屋台格納庫が並ぶ(写真左・右)。
 坂戸神社では毎年7月15日を中心とした土曜日・日曜日に「天王様」と呼ばれる祭礼が執り行われている。山車を引き廻し、神輿がねり歩く。指定は一丁目から四丁目に分かれている。一丁目の囃子は日の出町・本町で、昭和23年(1948年)夏、消防団員を中心とした一心会が結成された。越生町本町から伝授された神田囃子大橋流。二丁目の囃子は仲町で、昭和24年(1949年)越生町黒岩から伝授された。三丁目の囃子も仲町で、昭和23年(1948年)川島町から伝授され、翌年「三若会」が組織された。四丁目の囃子は昭和3年(1928年)に塚越から伝授された。昭和12年に戦争のため解散、昭和21年に再組織した。
 坂戸市無形民俗文化財 指定年月日 昭和49211日。
        
     
拝殿手前で、参道右側には手水舎と共に「重軽石(おもかるいし)」がある。
         石を持ち上げて思ったより軽く感じると願いが叶うといわれているとの事だ。
        
                     本 殿
 本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎している。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)である。
        
                      社殿左側隅にひっそりと鎮座する「皇国神社」
 
        参道右側にある手水舎奥に聳え立つご神木(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板・御由緒略記」等

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坂戸八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市山田町585
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧片柳新田村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9585773,139.3998195,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折し、その後コンビニエンスのある丁字路を右折すると、すぐ正面左側に坂戸八幡神社の鳥居が見えてくる。
 
鳥居の左隣には参拝者専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                街中に鎮座する坂戸八幡神社
『日本歴史地名大系』 「片柳新田」の解説
片柳村の南にあり、西は坂戸村。享保期(一七一六―三六)代官川崎平右衛門の計画で片柳村民によって開墾された。名主役は片柳村名主が兼帯した(風土記稿)。開墾後は幕府領。明和九年(一七七二)検地が行われている。化政期の家数二〇(同書)。文政四年(一八二一)の小前名寄帳(関口家文書)によると高四四石余・反別三五町一反余
新編武蔵風土記稿 片柳新田村条』
片柳新田は元原野にして東西十町餘、南北も大抵同じ程の地なるを、享保年中川崎平右衛門計ひにて、片柳村の民新開して一村と成り」  
        
                             こじんまりと纏まっている境内
 坂戸八幡神社は、江戸時代・享保年中に新田開発された片柳新田の鎮守として八幡社と号して建立、別当は片柳村の日蓮宗休臺寺が務めた。明治5年には村社となったが、昭和15年旧陸軍による坂戸飛行場建設のため、当地へ遷座したという。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市坂戸八一八
 当社の鎮座する片柳新田は、越辺川右岸の台地上に位置する。地内には縄文から平安期にかけての遺跡が確認されており、古くから人が居住した地域であると思われる。しかし、村が成立し、行政的に一村をなしたのは江戸期の新田開発からで、それまでは原野であった。これを開いたのが川崎平右衛門を中心とする片柳村の人たちであったため、片柳新田の名が付けられた。
このことから当社の創立は享保のころと考えられ、村人が鎮守として社を建立したものであろう。また、新田開発の地であることから作神としての信仰もあったといわれる。
 祭神は、誉田別尊で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 別当は神仏分離まで片柳村の日蓮宗休臺寺が務め、明治五年には長く村鎮守であったことから村社となった。
 下って太平洋戦争開戦の前年である昭和一五年二月五日には、当社は政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。これは坂戸飛行場建設のためで、当時、境内地約六反を一千五百円で買収された。このため現在の神社地を坂戸市本町に住む井上とよから譲り受け、氏子二〇戸は移転のために勤労奉仕をした。村人たちは長く祭りを続けた社の敷地から戦闘機が舞いあがるのをみて、武運長久を祈ったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿左側奥に祀られている境内社・山王神社    
拝殿右側奥に祀られている境内社・稲荷神社

 坂戸八幡神社は江戸時代の享保年間に新田開発された新しい村の鎮守様として創建、社の管理は江戸時代を通じて片柳村鎮守・片柳飯盛神社と共に「片柳村の日蓮宗休臺寺」が務めたという。

 休臺寺は戦国乱世も真っただ中の天正8年(1580)に長柳山妙慶寺として開山された古刹であり、江戸時代に横田次郎兵衛述松(のぶとし)という人物が中興開基したという。
「日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云」
 ところで横田次郎兵衛の先祖は、武田二十四将にも名を連ねた猛将横田(備中)高松である。
『寛政呈譜』
「横田備中守高松(武田信玄につかへ、天文十五年信濃国戸石合戦討死す)―十郎兵衛綱松(信玄・勝頼につかへ、天正三年長篠の役に戦死)―甚右衛門尹松(武田家没落後、天正十年家康に仕へ、武蔵国高麗、比企、入間郡等五千石知行、寛永十二年死す、法名道本)―次郎兵衛述松(法名日台、入間郡片柳村日蓮宗休台寺に葬る、のち代々葬地とす)―由松(法名日松)―清松(法名日翁)―準松(九千五百石、法名日能)―以松(法名日通)。家紋、四目結、釘抜、矢羽車」
        
                          街中にありながら静かに佇むお社

 横田高松(たかとし)は、戦国時代の武将で甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人として有名な人物である。武田信虎、晴信(信玄)2代に仕え、信虎の代では足軽大将、信玄の代では敵の動きを察知し、戦術を先読みする軍師的な重鎮であったようだ。しかし天文1999日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。享年64歳。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。
 共に信玄の重鎮であった原虎胤の長男・康景(綱松)は高松の婿養子となってその跡を継ぐ。
武田信玄の没後は勝頼に仕えたが、天正
3年(1575年)521日、長篠の戦いで戦死した。享年51。
 横田氏は康景(綱松)の子・尹松の時に江戸幕府の旗本となり、5000石を領し、述松、由松(側衆・従五位下備中守)、栄松と続き、準松(のりとし、側衆・従五位下筑後守)の時、加増され9500石を領し、旗本最高位となっている。


参考資料「寛政呈譜」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」 
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料Wikipedia」等



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新田大根神社


           
            
・所在地 群馬県太田市新田大根町407
            
・ご祭神 宇迦之御魂神
            
・社 格 旧大根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭 43日 秋祭(大祭) 1118
                *参拝日 2023726
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3168428,139.2795175,16z?hl=ja&entry=ttu

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占めている。因みに「大根」と書いて「おおね」と読む。この大根という地名由来としては、中世・新田庄に属していた頃は「嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「あふねの郷 田三町二反四十五たい 畠八反 在家一う」、西迎(さいごう)寺(現長野県下水内郡豊田村)の延慶三年(一三一〇)四月二〇日の阿弥陀仏像背銘には「上野国新田庄青根郷 大檀那義季・見阿」とあり、当時は「青根」「あふね」「相根」等表記されていたようだ。
 また「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に記す宇治川の合戦で負傷した上野武士の一人に青根三郎の名がみえる。
        
 新田上江田勝神社の東側に群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通っているが、「やすらぎ団地」交差点を左折し、上記県道沿いを暫く北上する。1.5㎞程先の丁字路を左折すると進行方向左手に「ほたるの里公園」が見えるが、その公園を直進した400m程先に新田大根神社の境内が見えてくる。
       
           拝殿前に真っ直ぐに伸びる欅のご神木(写真左・右)
        
              境内に設置されているご神木の案内板
 大根神社の大欅の由来
 大根神社の大欅は神社本殿に向かって左前に在り、樹齢は定かではないが、古老の口述に依ると、三十年以前にこの大欅を買いつけに来た業者の説によれば、当時でも推定三百年は経過しているとのことであった。
 現在、根回り八・五メートル、目通り五・五メートル、主幹は真っ直ぐに伸び、太い枝は三、四本であったが、一本は落雷によって落下したしたものの樹勢は益々旺盛で、春の芽吹きの頃、幹に耳をつけると大量の水を吸い上げる音が聴きとれるとの言い伝えもあります。
 大根神社は、大根、大の六〇〇戸の住民の守り本尊としての氏神であり、その社の御神木である 大欅は戦時中、大欅の長寿に肖りたいとの思いから、召集され戦地に赴く兵士が秘かに欅の皮を剥がし、軍服に忍ばせて出征したとの話題も伝えられています。
 平成十七年 三月 新田町観光協会
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 
  境内に並んで設置されている「
皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」(写真左)と、「大根神社改築記念碑」(同右)。皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」記念碑によるこの社の由来としては、創立は不詳ではあるが、創建は古く秋葉様又は稲荷神社と称して、新田公一族である綿打太郎為氏以下氏義氏頼等の崇敬厚いお宮であると伝えられ、新田氏衰退後も大根村の鎮守様として地域の住民を始め多くの人々の崇敬をうけてきたという。
 明治四十一年十月二十六日、許可を得て本社境内の末社秋葉社及び字矢太神の無格社、矢神社、字一丁畑無格社雷電神社同境内末社稲荷神社、諏訪神社、字大宮村社、赤城神社を合併して村社大根神社と改称した。
 大正四年八月二十四日更に許可を得て同村大字大上ノ町村社赤城神社、境内末社秋葉社、大山祇社を合併して大根、大、両地区の鎮守となる。
 大正七年十月十八日(明治三十九年勅令第九十六号)神饌幣帛料供進神社として指定されている。

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占める。その扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ、矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っている。
 現在、周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点が、またこの湧水点の南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)がある。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができ、この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な紅藻類が生息している。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の姿になったと考えられていろという。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができる。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれている。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に石田川の水が利用されたことが分かる。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたことを証明する貴重な史跡である。
 矢太神水源は平成12111日国の指定史跡[遺跡地]に指定されている。


参考資料「
日本歴史地名大系」「太田市公式HP」「おおた観光サイト」「境内案内板・碑文」等
 

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赤堀町八幡宮


        
              
・所在地 群馬県太田市新田赤堀町341
              
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭1015日 中祭1115日 小祭415
                  (15日に一番近い日曜日とする)
                  *参拝日 2023年7月23日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2907735,139.2926919,17z?entry=ttu 

 中江田町矢抜神社から一旦南下し、群馬県道312号太田境東線に合流後左折する。この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれ、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことであり、その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。街道は西国の諸大名の日光参拝にも利用され、賑わうこととなったという。
 県道合流後、暫く東行し、「新田木崎町」交差点を左折する。同県道311号新田上江田尾島線を道沿いに北西方向に1.4㎞程進んだ丁字路を右折すると、ほぼ正面に赤堀町八幡宮の社号標柱が見えてくる。
        
                  赤堀町八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「赤堀村」の解説
 木崎台地の北東部を占め、西は上江田(かみえだ)村、南は中江田村、南東は木崎村、北東は反町(そりまち)村。北西から南東に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山(あかがね)街道が走る。
 中世には新田庄下江田村に属し、新田世良田家から岩松家に相伝された。正和二年(一三一三)一二月二一日付の妙阿売券(新田氏根本史料)によると、「新田庄下江田村赤堀」内の在家一宇・田三町四反小が一七〇貫文で、江田頼有の孫岩松政経の妻妙阿の手から由良景長妻紀氏に売却されている。売却された田・在家には同月日付の坪付注文(同書)が残されており、「木崎境 きさきさかい」「つかた」「ふけた」「はらつくり」等がみえる。この地は、のちに紀氏の父で娘の名字を借りて買得したという大谷道海によって、長楽寺(現尾島町)の三尊・本尊に寄進された(嘉暦三年一一月八日「大谷道海寄進状案」長楽寺文書)。
        
        道路沿いにある社号標に対して左方向に向いている鳥居、及び参道
 現在の群馬県道311号新田上江田尾島線は、江戸時代『銅山街道(あかがねかいどう)』と呼称されていた。この街道は、下野国(栃木県)足尾銅山から渡良瀬川沿いの渓谷を下り、上野国(群馬県)笠懸野(大間々扇状地)を経て、利根川沿いの河岸までを結ぶ街道である。
 道筋は現在の国道122号・群馬県道69号大間々世良田線・群馬県道311号新田上江田尾島線に相当しており、水沼(黒保根町水沼)で根利道(群馬県道62号沼田大間々線・群馬県道257号根利八木原大間々線)と、深沢(大間々町上神梅)で大胡道(群馬県道333号上神梅大胡線)と、木崎(新田木崎町)で日光例幣使街道(群馬県道312号太田境東線)と接続していた。
 幕府直営の足尾銅山で精錬された御用銅を江戸へ運ぶために整備された街道である。慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見、幕府直轄機関である「銅山奉行」を設け、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わり、延宝・天和年間(1673年〜1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれたという。
        
                          境内の様子。参道右手にある「赤堀会館」
 
境内左手に設置されている「赤堀獅子舞」案内板       拝殿左手に鎮座する
                            境内社・
八坂神社、菅原神社
 新田町指定重要無形文化財 赤堀獅子舞
 指定  平成九年三月三十一日
 所在地 新田町赤堀三四二
 赤堀獅子舞は、およそ三百年前の元禄年間に成立したと伝えられている。法眼(ほうがん)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)と呼ばれる三頭の獅子が笛と唄に合わせて勇壮に舞う姿は、本物の獅子の動きを思わせるものである。昔から塗り替えることをいましめられている三体の獅子頭は、それぞれ異なった表情に作られている。
「法眼」は長(おさ)としての風格を持ち、「雌獅子」は優しさ、気品を、「雄獅子」は雄としての荒々しさを持っている。この特徴は舞の中でも表現され、おそれ、おののきや雌をいたわる優しい仕草も見られる。これは他の獅子舞には見られない特徴であり、専門家の間でも高く評価されている。
 毎年、十月中旬の秋祭に赤堀八幡宮で実施されている。
平成十二年三月 新田町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                          社殿右側に設置されている案内板
赤堀八幡宮
一、御祭神 品陀和気命(応神天皇)
  南無八幡大菩薩とも呼ばれる源氏の神。武家の崇敬弓矢の神
一、御神徳 五穀豊穣 天下泰平 四海静穏 家内安全等
一、例 祭 大祭十月十五日、中祭十一月十五日、小祭四月十五日
      (各十五日に一番近い日曜日とする)
御由緒
建久年中(一一九〇~一一九八年)京都の石清水八幡宮より、新田義貞が勧請した。
別当瑠璃山大方坊薬王寺(大方坊四三九番地に二反壱畝廿九歩の土地を保有、現在は上江田分)は、新田氏族江田兵部大輔行義公(一三三〇年代活躍。鎌倉攻めに参戦している)江田郷(赤堀は江田郷の内)に住し、これを管理する新田氏累代の崇敬社となった。本村の乾の方向(北西)にあったが、安永年間(一七七二~一七八〇年)の間に廃絶し、その後現在の地に建立された。天明四年(一七八四年)名主
役場で火災が発生し一社の記録が焼失したが、獅子頭のみ焼失をまぬがれた。(中略)
木崎の村々の出現と変遷
嘉暦三年(一三二八年大谷道海寄進状)長楽寺三尊本尊に寄進の中に(下江田村内赤堀在家壱間等)新田義貞根本資料のなかに正和二年(一三一三年)の売券があるが、ここでは年号の下限が参考になるので省略した。ここでは赤堀は村として独立していない。日記の中では村になっている何時頃からか。   「長楽寺永禄日記」より
旧別当瑠璃山大方坊薬王寺と末社八社
行義公は赤堀本郷地区を中心として村づくりをするための礎として建立した。南無八幡大菩薩(仏に救われたいと言う願いをかける)武運長久、息災延命、天長、地久、安穏等を願い新田氏族江田、赤堀領民が神仏を信仰することにより、救われたいという願いをかけるとともに領主領民が一体となってこの地の繁栄、無事で長続きするよう願い建立したのではないか。
                              平成二十六年十月吉日 宮田晃和
                                      案内板より引用
   
         
           本 殿                                 社殿右手に鎮座する           
                             境内社・塞神社・神明宮・石神社
        
                                社殿から見た境内の一風景


参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「境内案内板」等

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上江田町勝神社

「江田郷」は新田庄内の郷の一で、現在の上江田・中江田・下江田一帯の南北に長い地域であった。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子の義季の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。
新田義季(にったよしすえ)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言い、父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる。
 世良田郷を支配する新田氏流世良田氏の一族に江田行義を輩出する。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされている。
 上江田地域には、鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)が住んでいた「江田館跡」があり、昭和22年に県史跡第1号として指定、さらに平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されていて、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡という。この江田館跡」の北側近くに旧村社である上江田町勝神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田上江田町1070
             
・ご祭神 (主)長佐男命 
                  (配)火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神 

                     
建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
                     ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
                          *追伸 参拝日 2023年7月26日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2988606,139.2872972,17z?entry=ttu

 中江田町矢抜神社の西側には群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通り、その県道を2.2㎞程北上する。「やすらぎ団地」交差点の一本手前の丁字路を左折して、350m程道なりに直進すると進行方向右手に上江田町勝神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「勝」と書いて「すぐる」と読む。変わった社名だ。
 社の西側隣には「すぐる公園」があり、駐車スペースもしっかりと完備されているので、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                 上江田町勝神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「上江田村」の解説
 [現在地名]新田町上江田
木崎台地の北端部とその周囲の沖積地にあり、西境を石田川が南流する。北は金井村、東は赤堀村、南は中江田村・高尾村、西は上田中村。銅山(あかがね)街道が南北に走り、当村中央で東南へ折れ木崎宿方向へ向かう。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真っすぐ南下しており、両経路の分岐点には、承応年間(一六五二―五五)頃とみられる安山岩製三面六臂の青面金剛像の庚申塔が立つ。
仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一として「えたかみしも」とみえ、庶子らいわう(義季)の母に譲られている。建治三年(一二七七)一二月二三日の尼浄院寄進状案(同文書)には「上江た」とみえる。新田義重の根本私領の一つで、世良田家流に伝領されていった(→江田郷)。世良田頼氏の一子満氏、世良田義有の子行義はともに江田氏を名乗った。
 *一九ヵ郷…「上江田・下江田・田中・小角(こすみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(高尾・たこう)」等。
        
                 南北に長い舗装されていない参道 
              参道の両側には桜の木々が数多く並ぶ。 
 上江田町勝神社の南側には「江田館跡」があり、「太田市HP・新田荘の成立と発展」には以下の記載がある。
 木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡で、昭和22年に県史跡第1号として指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。 堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二ヵ所では堀が切れ、虎口(こぐち)が造られています。堀の東辺と西辺には、「折れ」があります。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる曲輪があり、戦国時代に城郭化されたと推定されます。築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されています。鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)の館であったと伝えられ、その後戦国時代には金山城主横瀬(よこぜ)氏の家来・矢内四郎左衛門(やないしろうざえもん)が館を拡張して住んだと伝えられています。北側の土塁には、「義貞(ぎていさま)様」と呼ばれるお宮があります。この時代の平城は通常堀が埋められたり、中に建物が入ったりして形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。 
        
    参道途中右手の林に隠れて「村社勝神社合併」及び「新築落成記念碑」がある。
        
                                       拝 殿 
        
                  拝殿に掲げてある「勝神社の由来」と記してある案内板
 勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
 記
 伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
 当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
 今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。(以下略)。
                                      案内板より引用

 案内板に登場する「河野通信」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将で、伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち、その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)の奥州合戦に従軍、正治1(1199)の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)伊予への帰国に際し、守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。
 更に北条時政の婿となり、幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され、配所で没したという。
 
      境内社・柊稲荷神社             境内社・八坂神社
        
            柊稲荷神社の並びに祀られている石祠群等。中央の石塔は「大山祇神」 

「勝神社の由来」に新田家と直接関係のない河野通信の事を記しているのであろう。確かに新田義重と河野通信は同じ年代に生きた者同士ではあるが、四国・伊予国と関東・武蔵国とはかけ離れた場所に位置し、両者の関わったエピソード等も筆者が調べた限りにおいて皆無だった。
 だからといって新田家と伊予国には、特別な関係が存在することも確かであったようだ。
 元弘の乱において北条家が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が3年程で挫折し、足利尊氏を中心とする「武家方・北朝」と、天皇新政を維持しようとする「宮方・吉野朝」が60年間、熾烈を極める戦いを各地で行う南北朝時代初期、宮方の中心人物の一人であった新田義貞の元には伊予国・河野一族から土居通増・得能通綱が共に摂津等の各地で足利の大軍と戦っている。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 新田義貞戦死後、新田家は弟義助を中心として一時的に越前国を掌握したが、其の後室町幕府軍に敗れて越前から退いた。吉野の後村上天皇の行宮に参内した後、中国・四国方面の総大将に任命されて伊予国に赴く。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様で、義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、新田氏族である大館氏明を前衛として、伊予の土居氏・得能氏を指導する。一時は勢力をふるい、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとした直後、伊予国府で突如発病し、志半ばで病没した。
 義助か亡くなると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ1342(興国3)年9月、氏明は戦死をとげた。
        
                                  社殿からの風景
 新田義助の子義治は、里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようになるが、その後の詳しい消息は不明である。伝承では山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したともいい、義治を祀った「新田神社」もあるそうだ。

 南北朝時代、多くの新田氏族は北は青森、南は九州鹿児島と、日本各地に赴き、転戦を重ねていた。筆者の勝手な推測ではあるが、その一族のだれかが伊予国で河野氏との接点を持ち、故郷の新田庄に帰還した際にその話を持ち込み、武士としても縁起の良い「勝」を冠した社を建てたのではなかろうか。

 因みに新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。 


参考資料「日本歴史地名大系」愛媛県生涯学習センター 双海町誌」「Wikipedia」
    「太田市HP・新田荘の成立と発展」「境内案内板」等
   

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