古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

両園部氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町北園部636
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 49日 天王様 725
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9964052,139.4503338,16z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川島・川越方面に進み、「南園部」交差点を右折すると、すぐに進行方向正面で、道路に対して右側にこんもりとした両園部氷川神社の社叢林が見えてくる。
 但し周辺には適当な駐車スペースはないため、交差点手前にある「IA川島直売所」の駐車場をお借りしてから参拝を開始する。あたり周辺は見渡す限りの農村地帯で、その中にポツンと直売所が設置されているが、それでも交通量が多いせいか、平日にもかかわらず駐車場には多くの車両が駐車しており、買い物に、またはひと時の休憩場所に活用している方々がいるようであった。
        
                             
両園部氷川神社正面
   埼玉県道74号日高川島線沿いであるが、県道に対して一段低い位置に鎮座している。
 
 境内は決して広くはないが、こじんまりと纏まっていて、社としての形態は整っている(写真左・右)。
 後になって知ったことだが、『新編武蔵風土記稿』では、嘗て北・南園部地域は「園部村」として一地域であったが、後年(江戸時代・元禄年間中)南北二村に分かれたという。『埼玉の神社』には両園部氷川神社の所在地は「北園部636」となっていて、解説にも「北園部村の西南万の飛び地」があったようだが、現在その飛び地は無くなり、所在地も「南園部636」となっている。
       
 境内全体社叢林の覆われているが、その中でも参道途中左側に聳え立つ巨木に目が留まり、思わずシャッターを切ってしまった(写真左・右)。ご神木かどうかは不明だが、かなり威圧感ある巨木である。
        
                                      拝 殿
 氷川神社 川島町北園部六三六(北園部字安藤町)
 かつて北園部村の西南万の飛び地に「安藤沼」と呼ばれる大きな沼があった。この沼の南側の杜に祀られていたのが当社である。
 当地の開発は、天正年間(一五七三-九二)に但馬重兼なる者が土着して行われたと伝え、その祖先の郷里である丹波国園部郷の地名を採って園部と定めたという。下って、慶長七年(一六〇二)に村人一同が協議の上、足立郡大宮宿の氷川神社を勧請し、村の鎮守とした。
 当時、氷川神社が武蔵国一の宮として広く名が知られていたことが鎮守として選定されるに至った理由である。また、本社である氷川神社は、正保期(一六四四-四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って安藤沼のほとりに奉斎されたことは想像するに難くない。
『風土記稿』は「氷川社南北園部村の鎮守なり、北園部村医音寺持」と載せている。一方、『明細帳』によると、明治四年に村社となり、同四十年には無格社四社を合祀した。ただし、実際に合祀が行われたのは、字江ノ島町の神明社の一社だけで、ほかの三社はそのまま残された。なお、当社の神域であった安藤沼は、大正期から昭和初期にかけて埋め立てられた。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「但馬重兼」なる人物を調べてみると、元々は藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫で、由緒正しい人物であったようだ。『比企郡神社誌』には以下の記載がある。

「大字園部村字安藤、氷川神社由緒。藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫二十代に図書重清あり、応仁元年西国の乱に発向し、丹波国園部郷に住す。重清の弟但馬重成天文十二年越後国首城郡春日野に住す、長尾謙信に仕へ同所に死す。其の子図書重政永禄四年信州川中島の合戦に供奉す。其の子但馬重兼天正元年関東に発向し、武蔵国松山領惣名川島開発場有之爰に住居す。重兼兄弟三人あり、元丹波国園部郷をとり、園部と定む。以来友人来り元禄三年迄に戸数三十戸となる。慶長七年足立郡氷川神社より万札をなし鎮守氷川神社を安置し、藤原家先導したるため地名を安藤と称す」

 
この「但馬重兼」の本来の姓は「藤原」だが、この地に居を構えたところから「園部」と名乗った可能性は高い。『比企郡神社誌』が記している「元丹波国園部郷をとり、園部と名付ける」というのは本質的におかしな話ではなかろうか。元々この地の地域名は「園部」だった為、「元丹波国園部郷」出身の但馬重兼がこの地に移住したというのが真相であろう
「移住しようとする人物・集団」が何の目的・目標もなしに移動することはあり得ず、その「最終目的地」がきっとあるわけであり、その「一候補地」は間違いなく「移住先の地域名」となるに違いない。
 このように考えると地域名(地名)は同じ血縁集団が、どんなに離れていても、どんなに時代が過ぎようとも、最終的には同じ場所にたどり着けるように導く「灯台」であり「暗号」のようなものだったかもしれない。
 また嘗て北園部村の西南万の飛び地にあった沼の名前は「安藤沼」というが、その安藤沼の名称由来も、「藤原」氏がこの地に氷川神社を「安置」したことで、「安」+「藤」沼となったことも解説されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「比企郡神社誌」「埼玉の神社」等


        

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長楽氷川神社


        
             ・所在地 埼玉県比企郡川島町長楽255
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祈祷 412日 天王様 722
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0044846,139.4261932,17z?hl=ja&entry=ttu

 戸守氷川神社から西方向約1㎞先の長楽地域に鎮座する長楽氷川神社。因みに「長楽」と書いて「ながらく」と読む。社の東側には南北方向に沿って通じる農道があり、そこから境内に入る入口があり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
 境内は決して広くはないが、社に隣接して西側には「長楽集落センター」が、また境内南側には児童用の遊具もあり、地域住民の方々の憩いの場所にもなっているのであろう。境内も参拝日当日雨交じりの天候故に人気はなかったが、日々の手入れもしっかりとしているようで、心静かな面持ちで参拝をすることができた。
             
                入口の設置されている社号標柱
       
                              
長楽氷川神社正面
 長楽氷川神社はほぼ東西に流れている長楽用水(ながらくようすい)の南側に鎮座している。この用水は、埼玉県比企郡川島町を流れる用水路で、川島町長楽の都幾川に設けられた長楽堰から取水する。途中で幾つかに枝分かれし、川島町北部を灌漑し、南部には安藤川に水を流し灌漑していて、最終的には市野川に排水される。流路延長は15.4 km、灌漑面積は762 haである。水路は素掘りで周囲は主に農地となっている。
『新編武蔵風土記稿』において「圦樋 村の西の方都幾川に設く、川嶋領二十五村組合用水の分水口なり」と記されていて、江戸時代元禄年間には用水路として整備された記録があり、1450年代の室町時代に開削された伝承が残るように、それ以前から用水路は開削されていたとみられている。
        
                                    境内の様子
 1967年(昭和42年)に長楽頭首工および長楽用水樋管の改修が行なわれ、1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)にかけて県の灌漑排水事業としての整備が周辺の排水路と共に行なわれた。また2012年度に埼玉県による「水辺再生100プラン」の対象となり、河岸が整備された親しみやすい川へ向けた事業が行われ、遊歩道の新設や、護岸の整備などが実施されたという。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町長楽二五五(長楽字柳原)
 鎮座地である長楽という地名は、長いものの意で、河川を表す古名である。当地においては、都幾川並びに越辺川を示すのであろう。殊に中世、長楽は、都幾川からの用水取り入れ口に当たり、ここから近隣の戸守郷・尾美野郷・八林郷などに通水を行っていた。
 社伝によると、天文から天正年間にかけて、当地は北条氏代官の宇津木兵庫進が支配した。しかし、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡したため武門を退き、榎本四郎左衛門なる者と共に帰農した。
 慶長二年(一五九七)八月一日、両氏は、産土神として社殿を建立し、治水安泰の神として民衆に知られていた武蔵国一の宮氷川神社を勧請した。その後、貞享元年(一六八四)、次いで享和元年(一八〇一)に社殿の再建を行い、文化二年(一八〇六)には拝殿を造営している。
『風土記稿』によると、「村の鎮守なり、宝蔵寺持」とある。宝蔵寺は天台宗で、明治初年の神仏分離令発令まで、当社の祭祀法楽を司っていたと伝えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年二月には字権現堂無格社東照神社を合祀している。昭和四年四月に、覆屋・幣殿・拝殿を改築し、更に同二十三年四月には、社務所を建設している。なお、この社務所は平成二年に集落センターとして再建され現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側奥に祀られている境内社と石碑
   境内社の由緒は不明。石祠には「秋葉権現 熊野権現 東照権現」と刻印されている。

 川島町には「宇津木」苗字が何気に多い。「埼玉の神社」に記されている「宇津木兵庫進」に関わりのある末裔がこの地に居住しているからなのだろうか。
 調べてみるとこの宇津木氏の出自は
かなりややこしいので、かいつまんで説明する。この宇津木兵庫進」の先祖は、豊後の戦国大名として、北九州一帯をその勢力圏とした「大友氏」という。この大友氏は鎌倉時代初期に相模国大友郷を所領していて、その土地の名をとって大友氏を名乗っていたからだといわれている。
 大友家乗によれば、建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国に守護兼鎮西奉行として入った大友能直という人物が豊後・大友氏の始祖と云われ、大友能直の三男である大友時景(景直)は、大野郡一萬田村を領して一萬田の俗姓を名のり、一萬田氏の家祖となったという。
        
                                       
境内の風景
『比企郡神社誌』
「大字長楽氷川神社は、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へ代官として此の地を支配す。男孫十に至り小田原落城に及びし故武門を退きて旧領地に来り住す。此の時、榎本四郎左衛門・又来り土地開拓に協力す。此の両氏発起し慶長二年八月氷川神社を勧請す」
『宇津木家留書(宇津木和夫文書)』
一万田藤原親氏嫡親良、兄関東下而依勘気、親直を以て家苗為相続、子親良関東下而宇津木と改苗罷在処、北条氏政武州川越一戦後比企郡長楽村御囲屋敷壱軒御同人より親良に給ふ、天正九年御囲屋敷へ引移り代々居住す」

 宇津木家留書では、藤原北家・秀郷流で、大友氏の支流である「一万田藤原親氏嫡親良」が何かしらの理由(勘気)で関東へ下向し、この地に移住した際に「宇津木」氏と称し、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へて代官として此の地を支配したという。筆者も「一万田藤原親氏嫡親良」という人物を書籍やインターネット等で調べてみたが、これ以外の情報はなく、全く分からなかった。この
宇津木氏に関して詳しい情報を知っている方がいたらどうかご享受願いたいと思う。
        
                       
境内南側の片隅みにある「庚申塔」「馬頭観音」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「宇津木家留書(宇津木和夫文書)」
    「埼玉の神社」「
Wikipedia」等


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戸守氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町戸守1121
             ・ご祭神 素盞嗚命
             ・社 格 旧戸守郷鎮守
             ・例 祭 不詳
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0026627,139.4367356,16z?hl=ja&entry=ttu
 正直日枝神社から「長楽用水」沿いの農道を700m程西行すると、進行方向右側に戸守氷川神社の鳥居が道路沿いからはやや奥に入った場所に見えてくる。この二つの社はお互いに用水に関連する社ともいえ、近距離に存在する。
 戸守氷川神社は、戸守地域にあるとはいえ、地域の中心街にあるのではなく、北側の飛び地ともいえる場所に鎮座する。「埼玉の神社」には嘗てこの地域には「戸守郷」が存在し、その郷の中央である中郷に鎮座していると記されていて、当時の「戸守郷」の広さを伺わせる位置関係となっているともいえる。
        
                  戸守氷川神社正面
 残念ながら周辺には駐車場等はない。但し道路に面して鳥居までに少なからず駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから急ぎ参拝を開始する。
 周辺には民家も立ち並ぶ場所でありながら、社周辺には社叢林に囲まれた、物寂しい雰囲気を醸し出している。
        
                       鳥居は道路から少し奥に位置し建てられている。
 嘗てはもっと伸びた参道があったのではなかろうか。そのような思いがふと過る配置である。
 
鳥居の右側で、社号標柱周辺には、「鳥居建立記念碑」や幾多の庚申塔が設置されている(写真左・右)
        
                風情ある境内。参道の先には拝殿がひっそりと鎮座している。
        
                                         拝 殿
『新編武蔵風土記稿 戸守村条』
 戸守村は土袋庄川島領と云、古くは戸森と書しなり、家數七十七、東は南薗部村に隣り、西は長楽村に並び、南は中山村、北は正直村なり、東西の徑り十三町、南北十二町もあるべし、【小田原役帳】に太田豊後守が知行三十一貫九百丈、比企郡戸森乙卯検見と載す、是弘治元年の改なるべし、又八ッ林村道祖土氏文書の内、丁卯九月晦日小田原北條氏の文章に、三尾谷戸森右當郷代官職之事、如源五郎時無相違被仰付畢云云とあり、岩槻の城主源五郎氏資は、永禄九年丙寅戦死せしなれば、丁卯は永禄十年なるべし、されば弘治・永禄の頃は、太田氏の領知となりしこと明けし(以下略)

 氷川神社 川島町戸守一一二一(戸守字中郷)
 当地は、中世の史料に登場する「戸守郷」に比定されている。当社はこの戸守郷の惣鎮守であったと伝えられており、郷中の中央である中郷に鎮座している。
 郷名の初見は、正平七年(一三五二)の足利尊氏袖判下文で、尊氏は戸守郷を高師業に安堵している。下って至徳三年(一三八六)に鎌倉公方足利氏満は、戸守郷を下野国足利の鑁阿寺に寄進し、以後、室町後期まで同寺の寺領となった。享徳二年(一四五三)、享徳二年(一四五三)寺領代官の報告によれば、戸守郷と近隣の尾美野郷・八林郷は用水争論を起こしている。
 中世、各郷における権力者は、地生の「おとな」と呼ばれる者たちで、これらは、郷中間の用水談合、代官に対する年貢減免要求など、郷中経営ばかりでなく、「郷の惣鎮守」である当社の祭祀にも深く関与していたと思われる。当時から当社の神は、治水神、五穀豊穣の神とされていたことから、郷民の寄せる祈りは厚いものがあった。
 下って、江戸期の享保十八年(一七三三)、棟札によると社殿を造営している。これには、八幡大明神、稲荷大明神の二神が記されている。また、江戸後期に活躍した神祇伯の白川資延は、当社氷川大明神と、ほか二神に正一位の神位を授与している。別当については『風土記稿』に、薬師寺持ちとあり、同寺は明治初年に廃寺となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

「戸守郷」は別称で戸森郷とも書く。現川島町戸守を遺称地とし、同所を含む越辺(おつぺ)川左岸一帯に比定される。正平七年(一三五二)二月六日の足利尊氏袖判下文(高文書)に「戸森郷」とあり、当郷は下野国足利庄内大窪(おおくぼ)郷(現栃木県足利市)等と供に常陸国馴馬(なれうま)郷(現茨城県龍ケ崎市)などの替地として、高師業に宛行われている。なお年未詳八月一四日の足利尊氏書状(同文書)によると、尊氏は師業の訴えを受け当郷の領有を再確認している。しかし貞治四年(一三六五)一〇月日の高坂重家陳状案(同文書)によれば、当郷は重家の亡父専阿が正平七年(一三五二)一二月一二日に勲功の賞として拝領した地といい、重家と師業(常珍)代行俊との間で相論が起こっている。行俊の主張は、正平七年に師業が当郷を拝領したにもかかわらず重家が押領したというものであった。この争いは鎌倉府の裁決では重家が勝訴したようで、応安元年(一三六八)七月一二日の足利金王丸寄進状写(諸州古文書)によれば、「高坂左京亮跡」たる当郷が四季大般若経転読料所として下野国鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進され、同日、関東管領上杉憲顕がその旨を施行している。
        
        社殿の奥に祀られている「御嶽山〇王大権現」と石碑・庚申塔等。
              中には板碑まで埋め込まれている。

 享徳二年(一四五三)四月十日、鏤阿寺代官十郎三郎の注進状によれば、十郎三郎は戸守郷に隣接する尾美野(おみの)(川島町上小見野・下小見野)・ハ林郷の両郷と用水をめぐる争いを起した。この用水は、都幾川(ときがわ)の水を川島町長楽(ながらく)で取水する通称「長楽用水(ながらくようすい)」と呼ばれているもので、尾美野・八林両郷も利用していたが、堰は戸守郷内にあり、それを勝手に止めてしまったというものであった。
「埼玉の神社」でも記されているが、
従来このような用水問題があった場合には、戸守・尾美野・八林の三郷の代表である「老者(おとな)」と呼ばれる有力農民らの話合いによって解決が図られるのが普通であった。しかし今回の場合は、尾美野の「老者」が同意の証判をすえなかったため武蔵国府へ調停を依頼した。尾美野・八林両郷ともに武蔵国守護上杉氏との関係があり(八林郷は上杉氏の所領であった)、上杉氏が実権を握る国府に訴え、用水問題を有利に解決しようとする尾美野・八林側の狙いがあったものと考えられる。
 それに対して戸守郷の有力農民らは領主である鍰阿寺側に年貢減免要求を起こし、結局農民らが一致団結して耕作を放棄しても減免を勝ち取ろうとする。時代は15世紀、上杉禅秀の乱→関東府の滅亡→結城合戦→古河公方の成立というように関東の政界を二分するような内乱が相次ぎ、それに伴い権力側の支配力が弱体・低下し、各地で農民らによる反領主的行動が表面化する。
 最終的には武力などの強制力がなく、間接的に支配していた鏤阿寺側としては打つ手がなく、寺側がその主張をやめ農民側の減免要求が通ったというものである。
 その後、武力を背景として、農民支配の徹底化をめざした戦国時代には、このような農民側の動きは見えなくなったという。
 室町時代のある限定的とはいえ、農民らがこのような年貢の減免を要求するなどの農民運動を起していた時代もあったということだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブズ」
    「埼玉の神社」等
              

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正直日枝神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町正直1
              ・ご祭神 大山咋神
              ・社 格 旧正直村鎮守
              ・例 祭 春祭り 45日 例祭 95日 新嘗祭 1213
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.00111,139.4449608,16z?hl=ja&entry=ttu
 川島町正直地域、「正直」と書いてそのまま「しょうじき」と読む。東松山市古凍地域の南側にあり、国道254号線を川島町方向に進む。古凍鷲神社からは、埼玉県道345号小八林久保田青鳥線に入ってから西方向に進み、「古凍」交差点を左折、国道254号線を川島町方向に進路をとる。荒川低地地帯特有の一面の田園風景が続く中、2.5㎞程進んだコンビニエンスが見える交差点を右折し、300m先の十字路を左方向に進むと、横一面に広がる森の中央、進行方向正面に正直日枝神社の鳥居が見えてくる。
 但し正面鳥居は直接社殿に続く脇の鳥居のようなので、左折して正面方向に回り込むように進む。幸い正面鳥居周辺には、駐車スペースも数台停められる広い場所が確保されているので、路駐する心配もなく、ゆっくりと参拝できる。
        
                                         正直日枝神社参道入口
 直ぐ脇を小さな用水が東西に流れている。「長楽用水」というようだ。この用水路は見た目素掘りと思う位、昔の雰囲気をよく残している。参拝当日は小雨交じりの天候で、これが却ってこの社周辺のビジュアルにもよく合い、とてもしっとりとして穏やかな空気の漂う神社である。
 社はこの用水に沿って横に広がっているので、参道は比較的長めだ。社叢林が社を覆っていて、全体的にほの暗い境内が印象的な社。
              
          鳥居の脇にある社号標柱。「村社」と表記されている。
『新編武蔵風土記稿 正直村条』には「東の方は梅之木・北薗部の二村に接し、西は今泉村に境ひ、北は古氷村なり、東西の径り十三町、南北三町(中略)用水は長樂村地内に堰を設て、都幾川の末流を引そゝぐといえり」と記されている。
 十三町=1417m 南北三町=327mで、現在の行政上の区域とは、若干違いがあるが、南北に比べて東西の距離が極端に長いのは現在も同じで、東西に流れる長楽用水が南の境と成している。
 
   社は長楽用水に沿って東西幅が長く、      参道の右側には直接社殿に通じる
       その参道の先に拝殿が見える。           側面側の鳥居がある。
       
                     拝 殿
 日枝神社 川島町正直一
 当社は、都幾川の水を長楽樋管から引く八ツ保用水の北側に鎮座している。境内地は、東西に細長く、杉並木が美しい。
 創建は、口碑に、当地一帯を領した太田持資の家臣、深谷将監正直が、寛正一五年(一四六〇)に近江国坂本村鎮座の山主権現社を勧請したことに始まる。
 造営史料については明らかにできないが、口碑に、江戸初期まで小規模ながら壮麗な権現造りの社殿があったという。このため、現在、東松山に鎮座する箭弓稲荷神社の本殿造営にかかわった名工たちは、当社に日参してそれを模したと伝える。
 武蔵国一の宮氷川神社社家の『東角井家日記』の文政九年(一八二六)二月二十七日の条には、「川嶋領正直村山王社ニ太々神楽有之、岩井氏隠居罷越、先キ箱鐘持以下等同勢三四拾人ニて罷越衣冠ニて神事勤之侯由」とある。氷川神社神主岩井氏が供を連れ、当社で神事並びに神楽を奉奏している。正直でも氷川講を結成していたのであろう。
『風土記稿』によると、別当は地内の天台宗、直雄山医王院普門寺が務めた。ちなみに普門寺は、眼病治癒の利益のある薬師を本尊としている。本寺は、下青鳥村(東松山)の浄光寺である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
              しっかりと石垣で補強された本殿。
 幣殿も下部は風水口が設けられ、突然の水害等でも対応できるように拵えられている造りとなっているようだ。近代社格制度に洩れている可能性大の社で、これ程の拵えをもつ規模の社を筆者はあまり見ない。
        
                      本殿の後方に祀られている「山王1号墳」
   周辺の開発等で、だいぶ改変されていると思われ、円墳である以外は詳細不明な古墳。
            10m程の直径×高さ1m~2m程の規模だろうか。

 翻って参拝前に感じたこの社全体から感じた幻想的な雰囲気は、当日の雨交じりの曇りという天候や境内中に広がる社叢林、歴史を重ねた重厚な趣のある社殿等あったであろうが、その奥に眠る古墳の力もあったのだろうかと、ふと頭をよぎった次第だ。
        
                      正直日枝神社の鳥居の斜め前にある庚申塔群
 右端の庚申塔は 右側面に「文化十二年 乙亥」(1815)左側面に「三月吉日」と刻まれている。
 
             参道に沿って流れる長楽用水(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
         

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伊草神社

 川島町は埼玉県の中部に位置し、比企郡に属する町で、北は都幾川・市野川を境として東松山市・吉見町に、東は荒川を境として北本市・桶川市・上尾市に、南は入間川を境として川越市に、西は越辺川を境として坂戸市に接している。
「川島」という名は、四方を荒川(東)、越辺川・都幾川(西)、入間川(南)、市野川(北)と5本の河川に囲まれた“島”状の土地であるという地形的特徴から付けられたと言われている。
面積は41.63km2で、東西間11km・南北間8km、平均標高は14.5mで、高低差はほとんどなく、嘗ては見渡す限り水田地帯であった。
 この地域に集落を形成して生活を営むようになったのは奈良時代の少し前ごろからとみられており、町内にはそのころの様子がうかがえる「塚」や「塚の跡」が残っている。
 時代が下り、江戸時代になると川越藩の支配の中で農業生産が高まったが、反面、荒川の流れを現在の場所に変えたことで、たびたび水害に悩まされるようになった。その後、時代が進むにつれ、河川改修や堤防の築造によって徐々に水害を克服してきた。
 昭和29年(1954年)、川島領と呼ばれる中山・伊草・三保谷・出丸・八ツ保・小見野の6か村が合併し、川島村が誕生。以後は中学校の統合や上水道の敷設など、積極的な村づくりを進め、昭和47年(1972年)11月に町制を施行した。
 現在、首都圏中央連絡自動車道川島インターチェンジの開通に伴い、インター周辺開発が進み、町は変革のときを迎えているという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町伊草182
             
・ご祭神 大山咋命 素盞嗚尊 譽田別尊 倉稲魂命 迦具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 217日 例大祭 43日 夏祭 715
                  
十五夜獅子舞祭 915日 新嘗祭 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.967479,139.465931,18z?hl=ja&entry=ttu
 伊草神社は東松山市の南西部に位置する川島町伊草地域で越辺川右岸に鎮座する。途中までの経路は古凍鷲神社を参照。国道254号を南東方向に6㎞程進行し、「圏央道・川島インターチェンジ」先の「上伊草」交差点を右斜め方向に進む。暫く道なりに進むと「伊草小学校」に到着するが、その小学校の西側奥の像路沿いに伊草神社は鎮座している。
        
              道路沿いに設置されている社号標柱
 社号標柱をよく見ると「村社 伊草神」しか見えず「社」の文字が土中に埋まっているようだ。
 思うに、この地域のすぐ西側近郊には「越辺川」が国政方向から南東方向に蛇行しながら流れている。過去どのような流路を辿っていたかは不明なれど、この地域は古くからの水害の常襲地帯であったのだろう。社入り口に立っている社号標柱は嘗て度々あった水害等の災害を証明する物言わぬ「歴史の生き証人」でもあろう。
        
                    鳥居正面
 旧街道沿いの道路から「川島町立伊草公民館」と「川島町消防団第二分団」との間にある社号標柱手前を左折すると、砂利道ながら駐車スペースがある空間があり、そこに停めてから参拝を開始する。当日は雨交じりの曇り空ながら、参拝するのに支障があるほどではない。
 
 鳥居の手前には「石碑・弁財天像蛇身人頭像」の案内板(写真左)があり、その左側奥には弁財天像が寄進・設置されている(同右)。
 この案内板には、伊草神社の由来が最初に記されていて、次にはこの弁財天が設置されている場所が年代・目的等はっきりとわからないが「地区年長者の話によると、石碑の処は、古くは水質の良い噴水井戸があり、手水処、又は近所の過程飲料水として利用されていた」という。
 この弁財天は「水神」として田の神・五穀豊穣の神・財宝を恵む福神、更に水害・自然災害から守る水の神として、当地住民の安寧を祈念するために建立されたという。
        
              鳥居を過ぎると静かな境内が広がる。
 伊草神社から約400m北西方向には「道場橋(どうじょうばし)」がある。この橋は現在埼玉県坂戸市大字横沼と、同県比企郡川島町大字上伊草の間を流れる越辺川に架かる埼玉県道269号上伊草坂戸線の道路橋である。
 明治時代初期頃にはこの場所に橋は架けられず、いつから存在していたかは定かではないが、江戸時代より「道場の渡し」と称される渡船場が設けられていて入間郡横沼村と比企郡上伊草村を結んでいた。渡船場の「道場」の名の由来は、この渡しは大川道場の大川平兵衛が川越城下へ赴く通り道であり、又、川越藩士が大川道場に通う際の渡し場であったので、いつの間にか道場の渡しと呼ばれるようになった。
 橋の右岸側は水田地帯となっており、民家などは皆無である。左岸側は越辺川が作り出した自然堤防が川沿いにあり、その上を川越松山往還が通り、伊草宿由来の古くからの集落があり、民家などが立ち並ぶ。
 古くからの水害の常襲地帯であり、橋は抜水橋であるため洪水時でも通行可能だが、1982年(昭和57年)の台風18号や、2019年(令和元年)の台風19号などによる大水害の際には右岸側一帯は湖のようになったという。

 また道場橋の付近だけでなく、南側に流れる入間川と越辺川との合流地点である「落合橋」付近にも渡しがあり、伊草の渡(または落合の渡)という。伊草の渡は河岸場も兼ねていて、往時は舟運と荷降しで賑わったそうだ。伊草地域は嘗て「伊草宿」と言われる宿場町が形成されていて、伊草宿の面影は旧道(川越松山往還)に現在も僅かに残っている。
 伊草神社の参道付近には、伊草渡と記された木製の道標(道しるべ)が今も建てられているという。
        
      参道沿いにある「川島町指定無形民俗文化財 伊草獅子舞」の案内板

 川島町指定無形民俗文化財 伊草獅子舞  所在地 比企郡川島町伊草二二五‐二
 伊草の獅子舞は、「ささら獅子舞」、「豊作獅子」とも呼び、毎年九月十五日、伊草神社の祭礼の日に行われる。起源は江戸時代中期、明和二年(一七六七)ころと伝えられ、家内安全、商売繁昌、五穀豊穣を祈願する民俗芸能である。
 この獅子舞は、風流獅子の系統の一人立三頭一組で舞うものである。猿若、雌獅子、中獅子、雄獅子、ささら(花笠)、笛方、歌方等の役割があり、舞は「昔」と「今」があるが、現在は「今」を主に舞っている。
 祭礼の日には、「鎮守御祭礼」の幟をたてた下の善性寺で一庭舞い、約七百メートルほど上の伊 草神社までの宿の街道を、行列をつくって道太鼓を奏しながら進む。神社に到着すると社前で三庭舞い、さらに隣りの大聖寺へ行き一庭舞って終る。
 獅子舞は洪水や戦争のおり幾度か中断したが、第二次世界大戦後復興した。獅子方役者は古くから若衆によってきたが、後継者不足のため昭和三十八年一時中止になった。幸いにも、四十四年に至り小学生をもって復興することができた。翌四十五年伊草獅子舞保存会を結成し、今日に至 っている。
 昭和四十六年三月二十六日、川島町指定無形民俗文化財に指定した(以下略)
                                      案内板より引用

        
 社殿の左側手前には亜鉛葺入母家造の建物が目を引く。「伊草神社畧記」に記されている神楽殿だろうか。
       
                     拝 殿
「伊草神社畧記」
 御由結
 当社は慶長年中近江国坂本村鎮座日吉神社より勧請すと云ふ。文化五年三月建立の石燈籠あり嘉永四年玄年八月十一日造立す。明治四年村社に列せらる。大正二年一月二十八日一村一社の合祀並びに社名改称の許可を得て大字上伊草字三島氷川神社、同字元宿氷川神社、同字宮前氷川神社、大字下伊草本村氷川神社、大字角和泉字宮田八幡神社、大字安塚屋敷附稲荷神社、大字飯島字内土腐稲荷神社、の七社を大字伊草下宿並日枝神社に合祀し伊草神社と改称す。大正十三年四月三十日神饌幣帛供進神社に指定せらる。大正十三年一月本殿、昭和三十年四月三日幣殿、拜殿を鋼板葺に。昭和五十年十月神楽殿を亜鉛葺に改修す。
                                      案内板より引用
        
                                    本 殿
「埼玉の神社」による社の由来は、「
慶長年中(一五九六-一六一五)に近江国坂本から勧請したと伝えられる山王社」であり、「嘗て徳川将軍家が狩りに際し、休息に使った御茶屋があった場所で、御茶屋が廃止された後、その地が穢れないように鎮守社を移した」と記されている。
 またこの伊草の地は、川越と東松山を結ぶ街道の宿場として中世の末期には形を整えていたらしく、一・七の日には市も立ち、岩槻城主太田氏の庇護も受けて次第に発展していった。その結果、家並みが街道に沿って細長く続く形になり、俗に「伊草の宿は長い宿」と歌われるようになったのである。
江戸時代、庶民の生活が活発になると、この渡し場は一層栄えた。雨季を除き乾季となり水量が安定すると、人馬の通れる程の簡単な木橋が架設された。
        
                                 社殿からの一風景

 江戸時代中期以降になり、商品流通が盛んになると、商品の取引き・年貢米の輸送などで入間川も舟運が行われるようになり、ここにも河岸場ができた。当時、新河岸川が舟運で栄えていたが、それを脅かすというので訴訟も起きた。ここの伊草河岸には富士見屋という河岸問屋があり、昭和の初めごろまで舟を扱った。川を下る荷は農作物・薪などで、川を上る荷は江戸の下肥等肥料・塩・雑貨などが多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「川島町HP」「Wikipedia」「社内案内板」等

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