古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上野国一社八幡八幡宮

「一国一社」という称号は、浅学な筆者にはあまり聞きなれない名称である。隣国である下野國(現栃木県)には同名の「下野國一社八幡宮」があるが、それによると「下野国第一の八幡宮という意味で下野國一社八幡宮あるいは一國一社八幡宮」とも称されてきたとされているが、この「上野国一社八幡八幡宮」も上野国の中で第一の八幡宮、という意味となるのであろうか
Wikipedia」で検索すると、最初に「国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)」と出る。この宮は、令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮であり、「府中八幡宮」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。また単に「八幡宮」「八幡神社」と称したり、地名を冠する神社もある
 国府八幡宮には神社によって、国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く、両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから、各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから、後に総社の機能を持つようになったものもある。
 必然と「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」「総社八幡宮」と称する八幡宮も、国府八幡宮に由来するものとされるが、例外もある。例として、武蔵国では総社八幡宮として磐井神社が、国府八幡宮として武蔵国府八幡宮が鎮座しており、また国分寺市西元町の八幡神社が国分寺の鎮守であったとする説もあり、分立している。また、上野国は国府比定地に近い前橋八幡宮が国府八幡宮とする説があるが、国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮として上野國一社八幡宮が鎮座している場合もあるという。
 どちらにしても一国一社八幡宮の定義はどうも曖昧で結論は出そうにない。
        
             
・所在地 群馬県高崎市八幡町655
             
・ご祭神 (主)品陀和気命 (並)息長足姫命 玉依姫命
             
・社 格 旧郷社
             
・例祭等 新年大祭 1月第二土曜日 宵祭 44日(夜)
                  春祭 
45日 秋祭 113日 二年参り 1231日(夜)
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3396691,138.9495097,16z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線の交点、及び国道354号線の起点でもある「君が代橋東交差点」で、碓氷川に沿って走る国道18号線に入り、4㎞程西方向に進む。「八幡大門」交差点を右折すると、すぐ正面には上野国一社八幡八幡宮の大鳥居が見え、そのまま道なりに進むと、社の神門が正面に見えてくる。
 神門付近はY字路となっていて、そこを左方向に進む。上り坂の道の先は右カーブ方向に折れ曲がり、その起点付近右側に専用駐車場に入る路地があるので、そこに進行し、駐車後参拝に臨んだ。因みに「八幡大門」交差点先にある大鳥居の撮影は出来なかった。
        
                            
上野国一社八幡八幡宮正面神門
 神門は弘化2年(1845年)に竣工。この門には神仏習合の名残りがあり、元は「仁王門」と云い、今でも門の両側には仁王様が睨みを効かせている。
 13世紀世紀中頃のものと思われる正月三〇日付関東御教書写(「榊葉集」所収)によると、板鼻別宮すなわち当社の預所は上野国守護安達景盛であった。当社の鎮座地は板鼻庄に含まれ、また東隣の大聖護国(だいしようごこく)寺が別当寺であったらしく、「板鼻庄八幡宮大聖護国寺」(天正一八年八月三日「徳川家康制札写」成就院文書)などと記されている。
 
神門を過ぎて石段を登った先に二の鳥居がある。        二の鳥居
 天正一九年(一五九一)由緒書写(矢口文書)および文政六年(一八二三)由来書上(清水文書)によれば、天徳元年(九五七)村上天皇の勅命により山城国石清水八幡宮を勧請したもので、永承年中(一〇四六―五三)源義家が奥州遠征の途中当社へ祈願、凱陣後の康平六年(一〇六三)、拝殿から末社までを造営し義家の鎧・兜・弓矢や神器を奉納した。
 旗竿で源氏の長久を祈願したところ一夜で根葉が出て目白の神竹となり、以来源家の崇敬する社となった。源頼朝も木曾義仲追討の節当社に祈願し、大功を遂げて神殿を残らず造営した。新田義重も格別に信仰し社殿を再興したという。
        
                       宝永5年(1708年)の竣工と推定される随神
「随神」とは、ご社殿や神社社地などを守る神様を指す。その神様は、随神門などに安置されていて、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもある。
 左右二神共、弓と矢を携え、剣を帯びているが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿で、彼らは「随身(ずいしん)」と呼ばれていた。その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったという。
 この随神門は市指定文化財。
             
            随神門の先で左側にある市指定文化財の鐘楼
      入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年(1978)に鋳造の釣鐘。
        
                        随神門の先で右側にある神楽殿
        
                       「上野国一社 八幡宮大大御神楽」の案内板
 上野国一社 八幡宮大大御神楽
 当八幡宮の御神楽は、現社殿の造営(江戸中期の宝暦七年・一七五七年)に当たり、それまで中断していたのを、京都神祇官領に出願し、宝暦四年(一七五四年)に伝授されて復興したものです。
 能様式をとり入れた荘重・優雅な趣があって、他に見られない特徴となっています。座数は三十七座、お囃子は下り破(さがりは)・出羽・かまくら・しようでん等の十六種目、舞は住吉・天狐(てんこ)・外道・戸隠・中切・醜女・招福・神剣・松堂・大蛇・三神和合・猿田彦の十二種目でこれらが今日全部保存されており、近年巫女舞も復活されました。
 県下でも有数の御神楽で、平成元年三月八日に高崎市の重要無形民俗文化財第一号に指定されました。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 上野国一社八幡八幡宮
 上野國一社八幡八幡宮は、群馬県高崎市八幡町にある神社である。旧社格は郷社。元々は碓氷八幡宮・板鼻八幡宮と呼ばれていたと言われる。現在は一般的に八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)と通称されるほか、「やわたのはちまんさま」と呼ばれている。
 上野國一社八幡八幡宮は、天徳元年(957年)に源満仲の3男・河内源氏の祖である源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建されたという。当初、八幡宮は一国一社の建立だった為、上野国一社八幡宮とも称されていて、その後、 源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。主祭神は品陀和気命、併せて息長足姫命、玉依姫命が祭祀されている。
 当社は江戸時代から神仏混合になったとされ、境内には旧護摩堂(現在の拝殿)、旧仁王門(神門:三間一戸、八脚単層門、切妻、銅板葺、仁王像は失われている)や旧本地堂(天満宮:木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、間口2間、正面1間唐破風向拝付)、鐘楼(入母屋、鉄板葺、袴腰、上層部外壁は吹き放し、昭和53年:1978年に鋳造の釣鐘。)などがあり当時の名残が見られる。明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院だった神徳寺が廃され郷社に列した。
 境内敷地は約9,000坪。現在の社殿(隋身門、拝殿、本殿)は文化11年(1750年)ないし宝暦7年(1757年)の再建とされる。本殿は天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮である。本殿・幣殿・拝殿は高崎市指定重要文化財。
                                  「Wikipedia
」より引用
        
        
          精巧な彫刻や極彩色、金箔等豪華な仕上げである本殿
 現在の上野国一社八幡宮社殿は宝暦7年(1757)に建立されたもので、拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺、平入、正面千鳥破風、桁行8間、張間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り)、幣殿(両下造、銅板葺、桁行3間、張間2間、花頭窓付)、本殿(三間社入母屋造、銅板葺、平入)が一体となる権現造り。精巧な彫刻や極彩色、金箔など豪華な仕上げで、江戸時代中期の社殿建築の遺構で優れた意匠を有する貴重な存在である事から平成10年(1998)に高崎市指定重要文化財に指定されている。
     
        境内社・日枝社(山王宮)       境内社・地主稲荷社
 
       本殿奥には
摂社二十二社         摂社二十二社の並びに
                          境内社・東照宮(疫斎神)

 上野国一社八幡八幡宮は創建から1,000年の歴史があり、多くの建物等の文化財が指定を受けている。全てを解説するのは無理があるので、以下の説明に留めたい。
 社殿(拝殿、幣殿、本殿)天地権現造り-宝暦7-高崎市指定重要文化財。
算額(三面)-天明7年・天保5年・安政7年-群馬県指定重要文化財。
大大御神楽-宝暦4年復興-高崎市指定無形民俗文化財。
胴丸2領-南北朝時代(室町時代)-高崎市指定重要文化財。
唐銅燈籠-慶応3年-野澤屋惣兵衛奉納-高崎市指定重要文化財。
八幡宮社頭造営図高崎市指定重要文化財。
境内森林-群馬県及高崎市緑地保全地区。
       
                                拝殿から境内を撮影
 上野国一社八幡八幡宮の建物結構はいわゆる神仏混淆色で、仏殿様式の建物が残る由緒深いものという。例えば元本地堂の天満宮、元仁王門の神門、鐘楼、拝殿内の護摩堂など。境内は約八千坪(2.7ha)で県・市指定緑地地区になっている。


参考資料「日本歴史地名大系」東京都神社庁HP高崎市公式HP」「上野国一社八幡八幡宮公式HP
    「群馬県:歴史・観光・見所」「ぐんラボ」「Wikipedia」「境内案内板」等 

            

       

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