常泉御嶽神社
・所在地 埼玉県加須市常泉31-1
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 少彦名命
・社 格 旧常泉村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1062419,139.6049173,18z?hl=ja&entry=ttu
加須市常泉(つねいずみ)地域の見竹耕地に鎮座する。「常泉」という地名は、当地に村を潤す豊かな泉があり、常の文字が永久不変を表すところから、涸れることなく湧き出す泉を称え名付けられたという。
土地の人々は、この豊かな泉をもたらす遥かなる山々に神威を感じ、当村開発に当たり、水の神として当社を祀ったと伝えている。これが御嶽社で、「見竹(みたけ)」の地名は当社に因むものであるという。創建年代等は不詳。
この社は、耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかったという。
常泉御嶽神社正面
下高柳八坂社から一旦「下高柳集会所」先の埼玉県道149号加須菖蒲線へ合流し、そこを左折する。新川用水(騎西領用水)を越えた「常泉」交差点を左折すると、すぐ左側に常泉御嶽神社の鳥居が見えてくる。
専用駐車場や社務所等もない。道路の向かいにコンビニエンスがあり、そこで買い物を済ませてから急ぎ参拝を行う。
鳥居の社号額 北方向に伸びる参道の先に拝殿が見える。
『日本歴史地名大系』による 「常泉村」の解説によれば、この村は、北は新川用水路を境とし、東は油井(ゆい)ヶ島村・小浜村。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高一〇七石余・畑高五四石余、川越藩領、ほかに大英寺(現騎西町)領三〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三〇五石余、反別は田方一七町四反余・畑方一二町八反余、ほかに新開高一二二石余、田方六町九反余・畑方四町八反余。元禄九年(一六九六)の旗本米倉氏領知目録(米倉家文書)に村名がみえ、高四二八石余。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本小笠原領。同帳には枝郷として油井ヶ島村が載る、との記載がある。
常泉御嶽神社はこの地域の最北端に位置し、新川用水(騎西領用水)から里人を守るように鎮座している。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 常泉村条』
常泉村
御嶽社 神明社 「以上二社、村の鎮守にて、圓福寺持」
圓福寺
「新義眞言宗、根古屋村金剛院末、御嶽山と號す、本尊地蔵を安ぜり、開山末長寛文十三年三月七日寂す」
境内にある「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
「御嶽社社殿増改築竣工記念碑」
常泉、見竹の地は水清き緑豊かな平坦な地であり、先人達はそこに御嶽社を勧請し村の鎮守としてきた。
御嶽社は、本殿に大山祇命、大己貴命、少彦名命を祭神として祀り、古来より常泉地区の氏神として人々から厚く敬われてきた。また明治三十二年には神明社を合祀し、祭神として更に大日孁命が祀られた。毎年四月十五日には枠灯籠を飾って春祭りを行い、この行事は今日まで継承されている。
当社は特に耳の病を治す神として、五寸ほどの小さな塩俵を三俵作り神前に供えて祈願した。その功徳は広く知られ、近隣はもとより遠方からも詣でる人が後を断たなかった。
昭和八年本殿改築が行われたが、拝殿、幣殿の老朽化が著しく進み、雨漏り等が始まり、平成八年、氏子一同に計り改修資金の浄財を集め、積み立てを行い、平成十四年建設委員会を設立した。同年四月四日、仮殿遷座祭を行うとともに建設委員総出の奉仕により、社殿の解体、土盛り、境内樹木の伐採等に汗を流した。本殿を一時移転し、基礎完了後、元に戻して改修し、幣殿、拝殿の新築を行った。
斯くして六月十一日に上棟祭、十月二十日に本殿遷座祭、十一月三日に奉祝祭を挙行して社殿の完成を祝った。ここに、長年に亘る神々の御神徳に感謝すると共に、更なる恩恵を氏子、崇敬者一同の上に給わらん事を祈念して、この碑を建立した(以下略)
記念碑文より引用
拝殿手前、参道の両側に鎮座する石碑二基(写真左・右)
共に(御嶽)大明神と刻印されているように見える。
静かに鎮座する社
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑」等