古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原郷愛宕神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市原郷2031
              
・ご祭神 火産霊神
              
・社 格 旧原ノ郷村木之本鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 415日(*大里郡神社誌には43日)              
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1943039,139.3012449,18z?hl=ja&entry=ttu
 旧郷社・熊野大神社一の鳥居が立つ場所から旧中山道を西方向に750m程進むと、進行方向右側に原郷愛宕神社が見えてくる。社の西側隣で道を挟み「幡羅中学校」があり、「ヤオコー深谷国済寺店」が斜め向かい側にあるので、経路としては分かりやすい場所といえる。
        
                            旧中山道から正面鳥居を撮影
 深谷市・原郷地域は、嘗て「原之郷」とも称した。この地域は櫛挽台地北端、北流する唐沢川右岸に位置し、東は東方村、西は西島村、北は明戸村。村の南端を中山道が通り、北部を丈方川(福川)が流れる。深谷領に所属(風土記稿)。「和名抄」にみえる幡羅(はら)郡幡羅郷の遺称地とされ、幡羅郡衙の所在地とする説もある。
 別符系図(静岡県別符潔氏蔵)は藤原道宗が堀河院の時代に初めて東国に下向して幡羅太郎と称したと記し、道宗は成田助高(成田氏の祖)の父で、助高は成田大夫と称したとしている。地内に幡羅太郎館跡があり、平安末から鎌倉期にかけて当地一帯を幡羅氏が支配したといわれている。
『新編武蔵風土記稿 原ノ鄕条』
「當村は郡名幡羅の本鄕にて、【和名鈔】鄕名の部に載たる幡羅なり、【同書】郡の部に幡羅を訓して原と記せり、此唱へによりて中古文字をも原と書せしは郡中村々に藏する水帳、原郷と記せしにても知べし」

 
      正面にある鳥居と社号標柱      社叢林に囲まれている中、開放感もある境内
        
                     拝 殿
 愛宕神社
 楡山神社の摂社であり、同一の氏子によって護持されてゐる。旧中山道に面し、江戸時代までは八町八反の広大な社叢をもち、火防などの信仰がある。
 例祭は4月15日。
 鎮座地の小字 木之本は、大字原郷東部の台地地帯である。この台地の北辺には、西は楡山神社付近から東隣の大字東方(ひがしがた)一帯にかけて市内最大の古墳群である木之本古墳群が分布してゐる。その中心地域が木之本であり、今も比較的古墳の保存状態が良い地域である。古墳の古語の城()から「きのもと」の地名となったといふ人もあるが、明治末の氏子区域図によっても、この地は愛宕林のほか、民家を包むように広大な樹林が広がる地域であり、木の豊かな里であったと言へる。  愛宕林と呼ばれた八町八反の社叢は、明治以後は、上地-裁判-敗訴-買戻-資金返済のための開墾-一部に兵器工場の設置-農地解放-一部に新制中学校設立-新興宅地化といふ経緯をたどった。
                                   「楡山神社HP」より引用
*現在は楡山神社の総代・奉賛会が原郷愛宕神社の運営を兼ねているという。
       
             拝殿の左右にある社号標柱(写真左・右)
 拝殿右側の社号標柱に「火之神」とあるように、この社は火防の神として信仰されていて、ご祭神は「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている。この地区は、「木ノ本」と呼ばれているが、江戸時代まで「愛宕林」と呼ばれていて、当社の広大な社叢があったことに由来しているという。
『大里郡神社誌 愛宕神社』にも、その境内の規模に関して以下の記載がある。
幡羅郡原ノ鄕村字木の本に鎭座し給ふ創立年代詳かならざれども一に仝所字八日市に鎭座せる大鎭守延喜式楡山神社の攝社に座坐し小鎭守として奉祀せるものなりと云傳ふ、元祿十一年寅十一月村方書上帳に愛宕宮一ヶ所氏子持除地林六町とありて往古は境域廣大なりしとおもはる」
        
                     本 殿
       
         社殿右側にひときわ目立つクスノキの巨木(写真左・右)
          巨木と書いたが、ご神木といっても良いくらいの威容。
    特に根元部が異様に張り出し、社殿を囲っている垣根に亀裂が走っている(写真左)。
 大いなる自然の力の前には、如何に現代の技術によって発展した我々人類も敵うわけはないのだ。
 
   境内右手にある社務所らしき建物         境内東側に祀られているお地蔵様
 
 旧中山道沿いで鳥居の近郊にある「芭蕉句碑」    正面鳥居の左側に祀られている石祠
                              詳細不明
        
                              旧中山道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」大里郡神社誌」「楡山神社HP」等

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西島稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市田所町222
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧西島村鎮守 旧無格社
              
・例祭等 祈年祭 二月初午日 例祭 113日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1924874,139.2758131,18z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線深谷駅南口のすぐ南側に瀧宮神社が鎮座しているが、その社に沿って上唐沢川沿いの遊歩道を西へ300m程歩いて行くと、進行方向正面左側の小高い丘上に西島稲荷神社が鎮座している。
        
                                  
西島稲荷神社正面
 西島稲荷神社は櫛引台地の北端部に位置する。鎮座地のある西島は、『新編武蔵風土記稿 西島村条』に「元深谷宿の内なりしが、正保(一六四四-四八)の改以前に別村となれり」とあるように深谷宿から分離して成立している。
 また、当社の社地は、西島のうち古くは新田町と呼ぶ所にあり、この新田町について、『新編武蔵風土記稿』では「一は深谷宿の内新田町、一は稲荷町の鎮守なり、共に村持」と記載され、また『深谷古来鑑』は「新田町元来畑の所、同年(慶安四年・一六五一)割替り申候」と、当所が嘗て畑地であったことを記している。
        
                  西島稲荷神社参道
 参道沿いに立ち並ぶ奉納された朱塗りの幟(のぼり)旗が印象的。これら多くは地域の信者の寄進によるものだろう。このような幟は、日本では独自の心理的効果を上げる目的で神社仏閣、宗教施設などに多く設置されている。
        
                   鳥居の右側に設置されている「
稲荷神社誌」の石碑
        
                     拝 殿
 稲荷神社誌
 當社は深谷町西島元西に鎮座し祭神は畏くも倉稲魂命であらせられ、神體は唐櫃入神鏡一面と金幣一體とである。其の創立の年代は詳でないが、大里郡神社誌に依れば舊來氏子に岸井友衛門といえる武士ありて壽永年間岡部六彌太忠澄に随身し一の谷に戦死したといい、當社はこの岸井氏の祖先の勧請にかかり山城国伏見稲荷の御分祀であると傳えられている。尚、社側に聳ゆる御神木の欅に徴し又町内随一の形勝ともいうべき臺地の杉林中に建てられたことや、古来村鎮守とか西島稲荷大明神などと稱え來ったことから推して、其の創造が如何に久しきかを知ることが出来る。恒例の祭日は例祭十一月三日、祈念祭二月初午日、新嘗祭十一月二十八日、小祭は四月三日である。當社の社殿より階段に連なる鳥居や御神燈は霊験のあらたかさと信者の赤誠とを物語っている。又昭和七年唐澤堤から設けられ、ついで氏子の奉仕による境内の新装成り。何人も遥に赤城の霊峯を仰ぎつつ、春は長堤の櫻花に英気を養い、夏は由緒深き聖境に心身を浄化し、普く神徳に浴することを得るに至った。殊に昭和九年より開かれた参道は、昭和八年竣功を遂げた元宮橋と相俟って参詣者にこよなき利便を與えている。實に神威は無窮である。
                              「
稲荷神社誌」の石碑文より引用
 
 拝殿に掲げてある「西島稲荷神社」の扁額           本 殿
       
               本殿右側で、上唐澤川沿いに屹立するご神木(写真左・右)
        
                   拝殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内石碑文」等

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熊井毛呂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1742
             
・ご祭神 大己貴命 天之穂日命
             
・社 格 旧熊井村産土神 旧村社
             
・例祭等 例大祭(熊井毛呂神社屋台囃子)7月第3土・日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803065,139.32176,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢山町役場西側にある通称「椎ノ木通り」を800m程北西方向に進むと、丘陵地斜面上に熊井毛呂神社の鳥居が見えてくる。大豆戸三島神社からは北西方向で直線距離にして1㎞程しか離れていない。熊井地域の集落から離れた丘陵地の外れにひっそりと鎮座していて、まさに地域の産土神の如き社。
 駐車用専用スペースは周囲にはなく、鳥居のすぐ東側に1台分駐車可能な路肩があるのみ。そこに停めてから参拝を行う。
        
                  熊井毛呂神社正面
 熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定される。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀している。
              
                                                                    社号標柱 

              鳥居前で一礼してから参拝スタート。 舗装された参道を登るように進む。 
 参道は当所南方向に進むが(写真左)、途中から右方向に曲がるように進路が変わる(同右)。何か地形上の関係で参道の方向が変わるのか、とも考えたが、より深く考えてみると、参道正面延長線上に社殿を配置すると北向きとなるので、一旦参道を右方向に変えることにより、東向きにしたのではなかろうか。あくまでも筆者独自の憶測の域ではあるが。
        
                                     境内の様子
 下熊井の産土神的な社。参道の周囲が鬱蒼とした森を進む中、しっとりとした雰囲気の中、社殿に近づくにつれて、自ずと厳粛な気持ちが湧き上がるのを五感で感じる取ることができる。
        
                奥ゆかしい雰囲気のある拝殿
 毛呂神社 鳩山町熊井一七四二
 当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
 当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
 明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用


 鳩山町周辺には、小鷹(オダカ)姓が現在でも多く存在しているという。由緒によると、「小鷹玄播」なる人物が松山城落城後に帰農して当地を開拓し、出雲伊波比神社を勧請して創建したとされているが、元々この地域出身の土豪と解釈すれば、他地方出身者として、わざわざ苦労して幾多の候補地からこの地域を選び、開拓をする心身的な苦悩をする必要はない。

    拝殿の手前で左側にある神楽殿        「毛呂神社屋台囃子」の案内板
 町指定無形文化財 毛呂神社屋台囃子
 年代は詳らかではないが、この屋台囃子は悪魔退散、無病息災を願い創始されたと云われ、群馬県世良田より八坂神社の分身を勧請したのが始まりとされる。七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願し、囃子が奉納される。雅子は、「太鼓」「あたり鉦」「笛」、踊りには、「仁羽」「屋台」「数え唄」「子守唄」「祇園囃子」「鎌倉」「昇殿」「四丁目」などがある。現在、保存会を結成し伝統芸能の継承に努めている。
 昭和五二年五月一八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
  
             本 殿                       拝殿左側に鎮座する境内社          
                      左側から稲荷社・天神宮。一番右側の石祠は不明 

    拝殿右側にも境内社が鎮座しているが(写真左・右)、どちらも詳細は不明だ。
       「埼玉の神社」では、明治404月に、日枝神社と山神社を合祀したという。
             これらの二社はそれらどちらかであろうか。

       
                 参道から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等        
  
 
 

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深谷市・唐沢川の桜堤を楽しみました。

 411日 深谷市 唐澤川沿いの桜見物に行きました
 この「唐沢川の桜堤」は、深谷一番の桜の名所で知られています。
 JR高崎線・深谷駅沿いの唐澤川沿いに約3㎞も続く両岸の桜並木は、一見の価値があります。実父の月命日を終えた後に桜見学に行った為、夕方の散策となり、さすがに3㎞の桜並木全てを見ることは出来ませんでしたが、瀧宮神社周辺の桜見物を家族で楽しみました。
        
                 
まずは瀧宮神社の参拝。
        
             相変わらず見事に社は整えられています。

           瀧宮神社参拝後、唐澤川沿いの桜見物に行きました。
        
        
        
 当日はあいにくの曇り空で、平日でしたが、桜見物の人が思った以上にいまして、桜を見ながら散歩を楽しまれているようでした。
 残念ながら満開の時期は過ぎて、所々に新緑が芽吹いている桜もありまして、来年こそは満開の時期で、「ふかや桜まつり」が開催される日に参加して桜見物を楽しみたいと思います。




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赤沼氷川神社

 鳩山窯跡群は鳩山町全域に散在する古代の窯跡群で、比企南丘陵の東西約5㎞・南北約4㎞に分布する律令制期東国屈指の大窯跡群である「南比企窯跡群」の東側の一画を占める。
 当窯跡群は所在する大字名を冠した大橋・赤沼・泉井・奥田・熊井等の幾つかの支群に分けられている。
 赤沼古代瓦窯跡は、7世紀に使われた窯の跡で、埼玉県内でも最古の部類に入る窯だと言われていて、埼玉県の史跡に指定されている。当初は武蔵国分寺の建立の為の窯だと考えられていたが、ここから出土した瓦との照合により、坂戸市にある勝呂廃寺の建立のために造られた瓦窯であることが分かっている。さらに、生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給されたようだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町赤沼894
             
・ご祭神 建速須佐之男命 迦具土之神 大雷神
             
・社 格 旧赤沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9760478,139.3438963,17z?hl=ja&entry=ttu
 鳩山町役場から東南東方向で、鳩川左岸に鎮座する。直線距離で大体1.2㎞程。今宿八坂神社から一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に東行し、その後「今宿交差点」を右折する。
 同県道343号岩殿岩井線を500m進んだ十字路を左折し、鳩川に架かる「亀甲橋」を渡り、「花見堂通り」に沿って進路をとると、赤沼氷川神社の登り旗ポールが右側に見えてくるので、そこを右折し、直進すると正面に社の鳥居が見えてくる。
        
                  赤沼氷川神社遠景
      社の周辺は豊かな自然が残り、所謂「里山」の景観を成しているようだ。
『日本歴史地名大系』 「赤沼村」の解説を紹介
 [現在地名]鳩山町赤沼
 石坂村の西、越辺川の左岸に位置し、村内を南東方に流れる同川支流鳩川の流域に耕地が広がる。北は大橋村、西は大豆戸村など、越辺川対岸南東方は入間郡長岡村(現坂戸市)など。永正一四年(一五一七)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、入西郡出戸より上の支配を「赤治(沼カ)之今蔵坊」などに返還することを証している。田園簿によれば田高二一四石余・畑高一七七石余、幕府領。ただし、この高には南方今宿村分も含まれていたと考えられる。
 元禄郷帳作成時までに同村は分村し、元禄郷帳では高二六六石余、国立史料館本元禄郷帳では米津氏など旗本三家の相給。

『新編武蔵風土記稿 赤沼村条』
氷川社 村内の鎮守なり、實蔵院持、
雷電社 密蔵院持、
八幡社 朝日八幡と號す、村民持、
愛宕社 實蔵院持、
稲荷社 櫻木稲荷と云、村民持、
實蔵院 新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、氷川山と號す、本尊不動を安ず、開山は本寺十七世權大僧都秀長、寛文七年九月廿五日寂す、
密蔵院 同宗同末なり、赤沼山と號す、本尊大日を安ず、開山權大僧都榮瑜、延寳九年八月十八日示寂す、
「村
の四隣、東は石坂村に隣り、南は今宿及び越辺川を隔てゝ、入間郡北浅羽村に境ひ、西は大豆戸村、北は今宿の條にいへる、七ヶ村入会の秣場に接せり」

 赤沼村には、周囲七村共同の「秣場(まぐさば)」があったという。この秣場とは、山野の採草地であり、ここで刈り取られる草は、近世農業にとって主要な肥料源であった。また同時に牛馬の飼料でもあった。
 これらの秣場は、数カ村の入会地(いりあいち)となっている場合が多く、秣場利用をめぐっての争論はしばしば起こっている。また千葉周辺での新田開発は、おもに秣場として利用されていた原野を開発するかたちで進められたために秣場を必要とする村々にとって、秣場面積の減少は、生活にかかわる大問題であった。このために争論も多かったという。
千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」より引用
 この秣場を巡る騒動は、江戸時代の正徳5年(1715年)、武蔵国多摩郡府中領(現・東京都府中市および小金井市付近)において発生した府中秣場騒動(ふちゅうまぐさばそうどう)を初めとして、伊豆国加茂郡・田方郡、上総国市原郡、武蔵国都筑郡、常陸国多河郡、下総国香取郡といった関東一帯で、秣場や入会をめぐる争いがあったことが、享保5年から14年までの評定所の記録「裁許留」で確認されている。
 それを受けて、享保8年(1723年)5月、町奉行所は武蔵野地域に宛てた触で、武蔵野周辺やその他の芝地・空地での農民たちの勝手な秣採取を戒めている。
 そして、元文元年(1736年)に、大岡忠相の主導で行われた武蔵野新田の検地により、周辺の住民が秣を採取する入会地であった武蔵野は、村別所持、個人別所持へと分割され、新たな地域秩序が形成されたという。
        
                 赤沼氷川神社正面鳥居 
 赤沼氷川神社は鳩川左岸の高地に鎮座する。この鳩川(はとかわ)は、埼玉県比企郡鳩山町を流れる荒川水系の一級河川で、鳩山町大字高野倉の岩殿丘陵にある通称「笹沼」(正式名称「新沼」)に源を発し、鳩山町役場など鳩山町の中心部を東西に流れ、鳩山町大字石坂で越辺川に合流する。
 元々は農業用排水路として整備された河川であるため、蛇行は少ない。1974年(昭和49年)9月の台風被害が契機となり、河川改修事業が行なわれた。
 鳩川の名前は近年の河川改修の際に名付けられ、当時の鳩山村の「鳩」の字に因む。それまでの旧名は「赤沼川」であったという。
       
                                    境内の様子
       
                境内に設置されている案内板
 御社名  氷川神社
 御鎮座地 鳩山町大字赤沼宮山台八九四
 御祭神  建速須佐之男命
         迦具土之神
           大雷神
 御由緒
 至徳元年(一三八三)甲子八月十八日関東管領上杉安房守憲方創建して村内八十余戸の鎮守社と称す。
 貞享元年(一六八四)幕府より除地明神免として畑二反一畝二十五歩(二一六一、五平方メートル)を寄附せられる。
 明治四年(一八七一)奉還する。
 明治四十一年(一九〇八)五月九日字内峰愛宕神社を、同免山大雷神社を合祀する。
 火防の神として崇敬篤し。
 境内末社
 菅原神社・稲荷神社・三浦神社 (他二社不詳)
 比企郡神社誌より

 案内板に記載されている「上杉 憲方(うえすぎ のりまさ/のりかた)」は、南北朝・室町時代の武将。関東管領。安房守。
 父憲顕に従って成長し、その死後は兄弟の能憲・憲春と共に公方足利氏満を補佐。康暦
1/天授5(1379)年に憲春の跡を継いで関東管領となり、武蔵・上野・伊豆の守護を兼ねる。翌年には下野の小山義政討伐の大将として出陣し、永徳2/弘和2(1382)年にこれを滅ぼした。一時期辞任していたこともあるが、結局15年の長きにわたって管領の職にあり、鎌倉府の政務を主導した。鎌倉北辺の山内に住んでいたといい、憲方の流れを山内上杉氏と呼ぶが、この家の基礎は憲方の代に固まったという
       
                     拝 殿
 
          本 殿              本殿奥に祀られている石祠群
        
                              拝殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」「境内案内板」等
        

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