古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

尾島雷電神社


        
              
・所在地 群馬県太田市尾島町1691
              
・ご祭神 大雷命(おほいかづちのみこと)(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 えびす講 1119日・20
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 阿久津稲荷神社のすぐ西側にある「尾島一丁目」交差点を右折すると、すぐ西側に雷電神社が見えてくる。互いに近距離に鎮座しているので、分かりやすい。
 駐車スペースも社の南側に「尾島一丁目会館」があり、そこの一角をお借りして、尾島雷電神社・阿久津稲荷神社両社を参拝した。
        
                             尾島雷電神社 二の鳥居正面
   実のところ、
一の鳥居は県道354号線に面していて、交通量も多く、結局撮影できず。
 一の鳥居から北方向に参道が続き、その先に二の鳥居がある。二の鳥居から先が境内となる。
 
   街中にありながら境内は比較的広い。   
境内参道の右側には「猿田彦大神」等の石碑がある。
     石碑の奥には嘗て巨木・大木があったのだろうか。その切株が残っている。
        
                                      拝 殿
 太田市・新田郡(につたごおり)尾島地区は人口約1万4千数百人ほどの小さな町であるが、自然や歴史・文化の香りが今でも残る地域でもある。
 町の南部を利根川が流れ、北には上毛三山の赤城・榛名・妙義の山々に囲まれている為、冬は上州名物空っ風が吹き、夏は雷が度々発生するという地形的な特徴がある。
 古くは12世紀に新田氏の始祖である義重の子義季がこの地を領有し、徳川姓を名乗ったことから「徳川氏発祥の地」と呼ばれ、時の徳川幕府の厚い庇護を受けて来た。その後、幕府の破滅により経済基盤を失い、地域自体は衰退するが、今なお往時を偲ばせる貴重な文化財や史跡等が町のあちこちに点在している。
 また江戸時代、津軽藩の飛び地がこの地域にあったことから、現在、友好都市である弘前市の協力のもと、毎年8月の1415日に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                    本殿覆堂
 
    絢爛豪華な本殿彫刻。どうやら彩色修復の作業が行われているようだ。

 雷電神社(らいでんじんじゃ)は、北関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。
 群馬県邑楽郡板倉町板倉には、旧社格は郷社で、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている板倉雷電神社が鎮座している。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。
 板倉雷電神社の影響を受けているかどうかは不明だが、本殿等の彫刻の豪華さはずば抜けているように感じるのは、筆者の思い過ごしだろうか。
 とはいえ、残念ながら尾島雷電神社の由緒等は不明。雷除けの神を祀っていて、本殿は寛政10年(1798)に建築されたものとのことというが、どのような経緯で、このような素晴らしい彫刻を施した社が建てられたか、知っている方がいたらお教え願いたい
 現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、毎年1119日・20日に「えびす講」なる祭事が行われるという。
        
                                   境内の一風景

 えびす講とは、年中行事としてえびすを祀る庶民信仰であり、神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、豊作や大漁あるいは商売繁盛を祈願する出雲系関連の祭事である。当社では釣竿の飾り、「お宝」の頒布や、熊手、福笹の頒布などを行っているという。


参考資料「
太田市観光物産協会HP」「旧尾島町HP」「冠稲荷神社HP」「Wikipedia」
 


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阿久津稲荷神社

 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50108
       合併に伴い、平成17328日に改めて新市の文化財として指定されました。
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
 この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています。

                                     太田市HPより引用
        
               
・所在地 群馬県太田市阿久津町1021
               ・ご祭神 稲倉魂命 八意思兼命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 「阿久津の獅子舞」11月18日・19日
      地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 堀口賀茂神社から一旦埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線に合流し、旧尾島町市街地方向に北上する。県道142号綿貫篠塚線との交点にある「尾島一丁目」交差点を右折するとすぐ左側に阿久津稲荷神社が見えてくる。
 県道沿いに鎮座する社で、交通量も多く、更に鳥居が道路並びにあるため、アングル的に県道に入って撮影しなければ、正面撮影はできないため、そこは断念した。
 東隣には、新四国88ヵ所霊場の第1番札所である正光寺があり、そこの駐車スペースを利用して参拝を開始した。
              
                 鳥居の傍に立つ社号標柱
 鎮座地名は「阿久津」。この阿久津という地名を調べてみると、川沿いなどの「低湿地」を古代日本語では「あくつ」と呼び地名になったとされ、地形が大きく関連していると云われる。川沿いの場所は低い地なので、川が洪水を引き起こすと”あくつ”に豊富な水が供給されるため、作物の栽培に適地とされたため、集落が形成されたとされる
 この「あくつ」は漢字に代えると「悪+戸」⇒「悪+津」⇒「阿久津」に時代が下るにつれて変換される地域が多いが、「圷」の一文字で「あくつ」と表記され、現在も残されている地域(茨城県を中心に多く存在)もある。この「悪戸」は洪水が起きやすい「悪い土地」という意味が語源とされ、実際悪戸という地名が嘗てあった地は、蛇行する川の周辺を指す地域がほぼ全てである。
 関東地方の北部では、窪地のことを「あくつ」といい、これに由来する名字で、「阿久津」「安久津」「圷」「堆」などと書かれる場合もある。
 
街中に鎮座しているためか、境内の規模は決して   短い参道の左側に設置された石碑等。
大きくはなく、鳥居を越えるとすぐ拝殿が見える。
        
                     拝 殿
        
           境内に設置されている「阿久津の獅子舞」の案内板
 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日   昭和50108
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。
 夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています(以下略)。
                                      案内板より引用

        
               拝殿部の彫刻は「明治の左甚五郎」と称された高澤改之助のもの。
            逆光の為、上手く撮影できなかったのが残念。
 
                 「向拝木鼻」の龍(写真左・右)
 
                     精巧に彫刻された「海老虹梁」部位(写真左・右)
        
                     本 殿
                本殿彫師は「武州玉井村」出身の小林丑五郎正路、他三名。
 残念ながら筆者は江戸時代における寺社の彫刻技術に関してあまり詳しくないが、目の前の現物を実見すると、やはりすごい迫力と技術力の高さを感じる。
 日本人は昔から箸を使ったり、漢字を書いたり、生活の中で手先を使う等が多く、その生活スタイルが日々定着しているからこそ、他の民族より手先が器用で繊細な作業もできると云われてきた。
 日本は「ものつくり大国・技術大国」といわれている。この世界に誇る日本の技術は一朝一夕に築かれたものではない。蓄積された日本人の持つ美意識、忍耐力、手先の器用さ、そしてきめ細やかな配慮等、長い歴史の中で育んできた国民性があるからこそ成し得た最高の技術は、日本の強みでありアイデンティティでもあると思う。
 この素晴らしい彫刻技術を見ていると、世界の趨勢が「AIロボット」が作り出す超合理化された社会に変革しようとする流れに対して、それでも変えてはいけないものもある!と無言で語り掛けてくるようにも思えた。
        
                          県道沿いに鎮座する
阿久津稲荷神社


参考資料「太田市HP」「太田市観光協会HP」「Wikipedia」等

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堀口賀茂神社

 堀口氏(ほりぐちし)は、上野国新田郡堀口郷を本貫地とした武家。本姓は源氏。家系は河内源氏・源義家の三男である源義国の子、源義重を祖とする新田氏の支流の一族。
 上野国新田郡堀口郷(現在の群馬県太田市堀口)、武蔵国(現在の埼玉県ときがわ町)の豪族として活躍した。新田氏
4代当主の新田政義の三男・堀口家貞(孫次郎家員)が新田荘堀口郷を分割拝領し、堀口氏を興したのが始まりとされる。
 家貞の嫡男貞義が堀口郷を相続し、庶子の貞政が一井郷(太田市新田市野井)を相続し、一井氏(いちのいし)と称した。一井貞政の姉は江戸泰重の正室で、江戸長門の生母となった。貞義の養女が新田義貞の生母との説もある。家貞の末子の貞昭は矢島氏(尾島氏)と称したという。貞義の生母は評定衆も務めた伊具流北条有時の娘といわれており、本宗家が失脚した後に何らかの伝手を掴んだと思われる。その甲斐があり、新田本宗家が無位無官であるのに対して貞義は従四位下美濃守にまで昇進している。
元弘
3年(1333年)、貞義の嫡子貞満は、本宗家の義貞(親族系譜では一世代下だが同年代)の挙兵にも参加し、鎌倉攻略で活躍している。戦後の論功で貞満は父と同じ美濃守に補任された。その後も一貫して義貞の重臣として活躍し、延元元年(1336年)に、後醍醐天皇一向が比叡山で足利尊氏に包囲され、義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとした。その時、貞満は強引に後醍醐帝の輿を止めて「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と直訴した話は『太平記』で有名な一節である。その後、義貞に従って、次子の貞祐らとともに越前及び美濃各地で戦い、延元3/建武5年(1338年)に美濃郡上郡尾根徳山から越前に進軍中に没した。貞満亡き後堀口家は貞祐が家督を継ぎ、北朝方との戦いを継続したが、次第にその勢力は弱まり弱体化していったという。
 それでも現在では、群馬県太田市付近から旧鎌倉街道沿いの埼玉県熊谷市、ときがわ町(旧たまがわ村)、東松山市付近にその子孫が居住し、地元の名士等となっているという。
 群馬県太田市堀口町地域には、堀口館跡があり、それを示す木柱が早川の堤防脇に立てられている。堀口賀茂神社のすぐ西側にその館跡はある。
        
              
・所在地 群馬県太田市堀口町甲111
              
・ご祭神 賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋季大祭 111415

         地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2501948,139.3269856,16z?hl=ja&entry=ttu
 前小屋菅原神社から北東方向に進む農道を道なりに900m程進路をとる。早川に架かる「不動橋」を越えた最初の信号のある変則的な十字路を右折、群馬県道275号新堀尾島線に合流し、早川の土手沿いに500m程進んだT字路を左折する。すると「おじま史跡めぐりコース 賀茂神社」と表示された看板が見えるのでそこを左方向に進路を変え、暫くその同じ看板がもう一カ所あるのでそこを看板通りに進むと堀口賀茂神社に到着できる。
        
                  堀口賀茂神社正面
 堀口町地域の集落内に鎮座しているが、同時に利根川支流・早川の土手もすぐ近くにあり、街中も至って静かな地域である。新田氏族である堀口氏が居を構えた「堀口館跡」もすぐ近郊に所在する歴史的にも古く由緒ある地でもある。
        
                     拝 殿
 境内に設置されている案内板によると、賀茂神社の祭神は別雷命で、新田義重が久安年中(1150年頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられている。また「堀口館跡」にある案内板でも『上野国史によれば「堀口村、大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」とし、村内に貞氏の居館があったことを示している。貞氏については、それを家貞とし、大舘宗氏の叔父とする別説もあるが、いずれも貞満をその孫としている点では一致している。
堀口郷は新田義兼が鎌倉幕府から元久2(1205)に地頭職として所領を安堵された、新田庄内12か郷の一つであり。のち建保3(1215)義兼後家により、その孫岩松時兼に譲られた上堀口郷を除いては、代々新田宗家に伝えられ、貞氏(家貞)がここに居住して堀口氏の祖となった』と記されている。
 この地域に賀茂神社を勧請すること自体、新田氏にとっても特別な地であったのではなかろうか。
 
         拝殿の扁額           拝殿の左側に聳え立つ巨木。
                         ご神木のようにも見える。
        
                      巨木の幹付近に設置されている案内板
 太田市指定重要無形文化財 堀口の獅子舞
 指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 所在地   太田市堀口町甲一一一番地
 賀茂神社の祭神は別雷命で、新田義重が久安年中(1150年頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられている。堀口の獅子舞の起源は不明であるが、太鼓の胴内部の墨書銘に、「元禄七年(1694)獅子舞がしばらく中断されていたが再興する」という意味のことが記されていることから、江戸時代初期の頃より伝承されていたものと考えられる。
 近年に至っては、昭和二十一年秋の奉納舞を最後に三十年間とだえていたが、昭和五十二年秋関係者によって復活された。村では、永くこれを伝承するために獅子舞保存会をつくり、町指定重要文化財として後世に伝えることになった。
 獅子舞は、「牡獅子」「牝獅子」「ほうがん」の三頭であり、三頭が一組になって舞う。舞の種目は、「ひらにわ」「ぼんでん」「牝獅子がくし」である。
 舞の奉納は、毎年十一月十四日夜、賀茂神社の社前で行われる。赤々と庭燎(にわび)がたかれ、多数の観衆に囲まれ、笛の音に合わせ、紺地白ぬきの三角ちらし模様のたっつけ袴、白足袋姿の獅子っ子が、腰太鼓を打ちながら五穀豊穣、悪疫退散など、村人の願いをこめて舞う姿は勇壮で神秘的であり、村祭りの伝統を守る貴重な民族遺産である。
                                      案内板より引用

 
 
 本殿右面には風雪除けなのか板壁が設置されていて、外側からは内部は撮影が難しいため、左側からの撮影となる。但し左側のみの撮影ながら本殿の彫刻は精巧で精密に拵えられている。彫刻の墨書銘には「上野国勢多郡田面村 彫刻師深澤軍八規武門人大塚三郎次」とあり、大工は林兵庫正清一派の石原長八、彫刻は深澤軍八規武(初代石原吟八門人)の一派によるものと分かるようだ。
 調べてみると彫刻師・深澤軍八則武は初代・石原吟八郎義武の門人の一人で、関口文治郎・前原藤次郎・石原常八雅詖らと並ぶ主要門人でありながら、この人物の墨書や刻銘が残された彫刻は非常に少ないため、謎多き幻の名工とも呼ばれる人物といわれている。
 
 社殿奥には多くの境内社等が祀られている。    本殿裏に並ぶ末社群。石碑には道祖神や、
        詳細は不明。        大杉大明神と水神宮と表記されているものもある。
        
 境内道路沿いには、「庚申塔」「御嶽山・八海山・三笠山」「二十二夜塔」等が並んでいる。


参考資料「太田市HP」「太田市観光協会HP」「Wikipedia」等



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前小屋菅原神社


        
             
・所在地 群馬県太田市前小屋町1937-1
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2457939,139.3109235,16z?hl=ja&entry=ttu

 大館八幡宮から北上し、一旦群馬県道298号平塚亀岡線に合流後、進路を東方向にとる。2㎞程進んだ「亀岡町」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道275号由良深谷線を南下し、早川を越えると南東方向に進む農道があり、そこを左折し、道なりに進むと正面に前小屋菅原神社が見えてくる。早川を越えて農道に入るとそこは一面農地が広がる中、社の社叢林がポツンと見えてくるので、ある意味目印となり間違えることはほぼない。
 残念なことに大館八幡宮同様、適当な駐車スペースがないため、適度な路肩に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                                   前小屋菅原神社正面
 菅原神社のある前小屋町地域は、古来利根川の乱流地域にあって、度重なる洪水に苦しめられていた。そこで、村人たちは水難をよけるために京都北野天満宮を勧請し、菅原神社を村の鎮守として奉祀したと伝えられている。
 地形を見ても、東西にゆったりと流れる大河・利根川と、その支流である早川が蛇行しながら南東方向に流れ合流するその合流地点の西側に前小屋町地域はある。地域全体の標高も33m34m程しかなく、利根川の乱流地域であったことは頷ける地形だ。
        
                               参道正面に神明系の鳥居あり。
    よく見ると鳥居に掛けられた額は、珍しいことに丸型で、初めて見る形式である。
        
                     拝 殿
        
           境内に掲げてある「前小屋菅原神社の絵馬」の案内板
 指定重要有形民俗文化財
 前小屋菅原神社の絵馬   指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 菅原神社の祭神は、菅原道真公で、京都の北野天満宮を勧請したものである。指定の絵馬は四十一面ある。絵馬は、祈願または報謝のために社寺に奉納する額で、古くは馬を献じていたが次第に木馬、紙馬などに代用され、平安時代から馬を描いた額に代り、のちには馬以外の絵も描くようになった。
当 社の絵馬は、寛保二年(一七四二)奉納のものが一番古く、寛保が二面、延享・宝暦・安永・天明・文化が各一、文政五、天保十、元治一、慶応二、明治以後大正までが十六面となっている。
 画題は、菅原道真に関するものが十九面で、他は「宇治川の先陣争い」「頼光の酒呑童子退治」「韓信股くぐり」など教訓的なものがある。
 いずれも願主の願いが強くこめられており、天神様にふさわしい画材が多くみられる。
 奉納者は個人が一番多く、次いで連名のもの、また惣村中・下島(前小屋の小字名)中など、地域を単位としたものもある。村内関係のものばかりでなく、山田郡大間々町在住者のものもある。
 画家については、不明のものが多いが、岩松満次郎道純(太田市下田島)、金井烏州(境町島村)、島山盧景(押切)、江森天渕・天寿父子(深谷市)、倉上黒渓(前小屋)などの名が見られる。
 大型のものが多く、最大のものは縦一八三㎝・横一八三㎝で、一辺が一〇〇㎝以上のものいが十二面ある。一社にこれほど多数の絵馬が保存されていることはまれであり、民間信仰のあらわれを示すものとして貴重な民俗資料である。昭和五十五年三月
                                      案内板より引用


 案内板に記されている「岩松満次郎道純」「金井烏州」「江森天渕・天寿父子」に関して、調べてみた。
岩松満次郎道純 寛政9年(1798130日)~嘉永7年(1854813日)
 江戸時代後期の交代寄合旗本。岩松氏の当主。幼名は左男寿丸、通称は岩松満次郎、兵部、主税。上野国新田郡下田嶋領主・岩松徳純の長男。
 
上野新田郡(現 群馬県太田市細谷町)の冠稲荷神社に道純が描いた墨絵が残されている。
金井烏州(かない うじゅう)寛政8年(1796年)~安政4年(185728日)
 江戸時代後期の画家で勤皇家でもある。毎年のように萬古を訪ねた春木南湖に画の手解きを受け、江戸に出てからは谷文晁に師事した。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。江戸南画壇の一人として名を成し、障壁画の製作にも携る。
江森天淵(えもりてんえん) 1857(安政4)年―1921(大正10)年
 榛沢郡用土村(現在の寄居町用土)に朝比奈錦香(あさひなきんこう)の次男として、生まれる。家業の医学には関心がなく、幼い頃から父に絵を学び、山水画を得意とする福島柳圃(ふくしまりゅうほ)を師事する。師の柳圃の流れを継ぐ、山水画と花鳥画を得意とし、濃墨で険しい深山の風景を描く一方で、軽妙な筆で民衆の暮らしを伝える作品も描いている。明治431910)年、日本美術協会から多年にわたる優作出品により、功労者として表彰されている。
江森天壽(えもりてんじゅ)1887(明治20)年―1925(大正14)年
 幼少の頃から父の手ほどきを受け、絵手本の模写を通して日本画を学び、画才を発揮する。天壽は目に映る自然の全てに対し、何も逃すまいとする視線を投げ掛け、その描線はまるでおのずと動く筆に身を委ねることを楽しんでいるかのような画風であるという。大正131924)年、皇太子殿下(昭和天皇)のご慶事に際しては、埼玉県の委嘱を受けて『菊花(きくか)』、『桐(きり)』を制作し、埼玉県大里郡教育会から宮中に献上される栄誉を与えられた。大正141925)年218日、天壽はこれから円熟期に向かって大きく期待されていた矢先に、39歳の若さで亡くなる。
島山盧景と倉上黒渓の二人は調べたが分からなかった。
 
           本 殿               社殿左側裏手に末社殿が鎮座
 末社殿の内部には何基もの神様の名が明記された木札がある。中央に天照皇大神宮が祀られ、左から稲荷神社・蚕影神社・天照皇大神宮・六社神社・大杉神社等の名前も見える。
        
      社の南側は一面平地が広がり、その先には利根川がゆったりと流れている。
        
                   社の遠景を撮影


参考資料「太田市HP」「深谷市HP・広報ふかや20162月号」「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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大舘八幡宮

 新田氏は、清和源氏の一流河内源氏の源義家の孫新田義重を祖とし、上野国新田荘を本貫地とした。
 開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男といわれる源義国で、義国は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、異母兄の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承し、また義国と義重は渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(現在の群馬県太田市周辺)を開発した。
 保元2年(1157年)平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。その後義重は周囲の藤姓足利氏や秩父党、源義賢と対立するが、甥である足利義兼や源義朝と連携し、それらに対抗する。特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に清和源氏嫡宗家と関係を強めている。しかし、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近、平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられた。本貫地の新田荘も旧新田郡全域(現在の太田市南西部を含む)に広げ、源義国以来の八幡荘と新田荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固めた。
 治承・寿永の乱となり、頼朝が鎌倉を本拠にすると一族の中には、甥・足利義兼や、子である山名義範、孫の里見義成など、参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。その参陣の遅さから、頼朝の勘気を被ったと伝えられている。鎌倉時代を通して新田家は冷遇され、弱体化することになる。
 このような新田家にとっては逆境のさなか4代目当主の新田政義の次男である新田家氏は、「大舘郷」に居住し、自ら「大舘二郎家氏」と称した。これが大舘氏の始まりである。
        
              
・所在地 群馬県太田市大舘町1078
              
・ご祭神 誉田別命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527463,139.2932815,16z?hl=ja&entry=ttu

 徳川町東照宮から一旦群馬県道298号平塚亀岡線まで戻り、県道を1.2㎞程東行する。進行方向右手に東揚寺が見えるので、南方向へ向うと早川左岸の北側に大舘八幡宮の鬱蒼とした社叢林が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、対向車両の迷惑にならない場所に路駐して急ぎ参拝を開始した。
 因みに新田一族の大舘氏は群馬県の地名(新田荘の郷名)に由来するため、秋田県の大館(おおだて)とは関係がない。そのため、姓の読み方も、「オオタチ・オオダチ」と読むのが正しいそうだ。
        
                   大舘八幡宮正面
 
大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記し、部首を「舌」ではなく「」と書く場合もある。また「おおだて」と読む場合もある
 新田政義の次男大舘家氏を祖とし、本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。4代の新田政義は上野国新田郡(新田荘)大舘郷(おおたちごう)に住み大舘二郎(次郎)を名乗った。家紋は大中黒、酢漿草(かたばみ)が基本であるが、このほかに、二引両や三巴、笹竜胆などを使う家系もある。
        
                                     二の鳥居
     洪水対策の為か、鳥居の基礎部分にはコンクリートの補強がなされている。

 南北朝時代には、家氏の子宗氏が元弘3年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めに右軍大将として子の氏明・幸氏・氏兼らと参加した。しかし宗氏は極楽寺坂で戦死している(東勝寺合戦)。現在、鎌倉稲村ヶ崎に大舘宗氏主従11人塚が建立され、その事績を残している。
 
嫡系を継いだ氏明は建武3年(1336年)525日の湊川の戦いにおいても脇屋義助とともに和田岬(兵庫県神戸市兵庫区)に布陣して戦う。その後は義貞の元を離れ一時足利方に降伏していたが、逃れて南朝方として活動し伊予国守護となる。134293日に北朝方の細川頼春の攻勢のため世田城で自害した。
        
                二の鳥居の社号額には手の込んだ精密な彫刻が施してある。

 南北朝時代以降、本貫の地の上野新田荘は足利氏の支配下にあり、父系が足利・母系が新田の岩松氏が直接支配することになる。しかし、それ以降もこの系統の大舘氏は16世紀初頭にいたるまで、新田荘の大舘郷を所領としている。現在、新田荘の大舘氏の居館跡は大舘館跡として城碑が立つ。ただし遺構はほぼ消滅している。
 室町幕府滅亡とともに大舘氏も没落した。ただし足利義昭に仕えた大舘晴忠(晴光の甥)は同じ奉公衆の大草公重の娘を正室としており、公重に男子が無かったため、晴忠と公重の娘との間の子たる公継・公信・高正は、大草氏を継いで旗本として江戸幕府に仕えた。このため血筋は江戸時代も続いている。
 
 二の鳥居を過ぎてからは社叢林に囲まれた参道を暫く進む(写真左・右)。薄暗い参道を進むと、一対の灯篭が2基見える。どちらも洪水対策で基礎部分がコンクリート製でかなり補強されている。
        
                                  拝殿付近の様子
        
                            拝殿の手前に設置されている案内板
 大舘八幡宮
 大舘字吹上に鎮座、創建年代は不明であるが、大舘は平安時代末期からの文書に出てくる古い地名であり、新田義貞の曾祖父、政氏の弟にあたる、大舘家氏がこの地に勧請したと伝えられる。
祭神は誉田別命(応神天皇)で、源氏の守護神とされ、新田荘各地に勧請されたが、現在は地名などとしてのこるものが多く社として現存するのは郡内でも数社である。
 瓦葺の覆屋がかけてあり、本殿は軒唐破風檜皮葺の荘重なものである。
 文禄三年(1594)から大舘村外七ヶ村、二千石の上州の飛地を領した弘前藩の記録によると、弘前より分家した黒石二代、津軽信敏が天和二年(1682)に、上州大舘に八幡の祠を建つとある。また村内には、八幡の神像を軸装としたものが伝えられており、その記銘に「天和三歴(1683)癸亥八月十五日、領主津軽藤原朝臣信敏、上州新田荘大舘八幡宮奉再興」とあることからして、三百年の星霜をたどることができるとすれば、本殿は信敏再建のものと思われる。
                                      案内板より引用


 案内板で登場する「津軽信敏」は、陸奥国弘前藩4代藩主である「津軽信政」の後見役でもあり、弘前藩の分家である陸奥国黒石領5000石の初代当主である英邁で名高い津軽信英の長男である。父信英の死後寛文3年(1663年)1月、15歳で家督を継ぎ2代当主となる(当時の黒石領主は交代寄合の旗本)。
 津軽信英が津軽藩から分れ、5000石が与えられたが、「津軽黒石周辺で2000石、平内周辺に1000石、津軽家の上野国飛び地領2000石」という内訳で、この「上野国飛び地領2000石」が上州大館である。
        
                          拝殿向拝部等の細やかな彫刻。
 極彩色の施された神獣の彫刻。今はかなりくすんでしまっているが、嘗ては綺麗に彩られていたのであろう。彩色はそれ程昔に施されたものではないだろう。というのも以前社の彩色等に詳しい人から聞いたことがあるが、囲い等ない状態で数十年も経過すると彩色はほぼ落ちてなくなるという。
 
 社殿の左側奥に小高い塚がある。古墳らしい。    塚の周辺に祀られている石祠と
   その頂に石尊大権現等の石碑がある。        弁財天と刻印された石碑
        
                       本殿裏に祀られている石祠群
    
「大舘御前(おおたちごぜん)」は石田三成の三女で、名は辰姫(たつひめ)、あるいは辰子(たつこ)。荘厳院(しょうごんいん)という。豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父・三成が徳川家康に敗れる。その直後に豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたという。
 慶長15年(1610年)ごろ、信枚に嫁ぐ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に家康は養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された。その後も、信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)11日、信枚の長男・平蔵(のちの信義)が誕生する。

 因みに辰姫が大舘の地で信義を産んだ縁により、群馬県尾島町(現在の太田市)では昭和61年(1986年)の尾島まつりに津軽特産のねぷたが登場。現在は毎年8月に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。


参考資料「太田市HP」「太田市観光物産協会HP」「Wikipedia」「現地案内板」等

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