池田守神神社
・所在地 埼玉県児玉郡神川町池田849
・ご祭神 素盞鳴尊
・社 格 旧池田村総鎮守 旧村社
・例祭等 歳旦祭 1月15日 春祭り 4月15日 秋祭り10月19日
新嘗祭 11月29日
『日本歴史地名大系 』には「池田村」の解説がある。
[現在地名]神川町池田
萩平(はぎだいら)村の西に位置し、北は賀美郡小浜(こばま)村。永禄11年(1568)松本左京が開発したと伝える(風土記稿)。集落南の山際近くで池田館跡(別称卜部屋敷)が確認されている。東西約90m・南北約100m、堀と土塁が周囲をめぐっていたようで、現在もその一部が認められ、宝篋印塔の笠部が表面採集されている。地内の曹洞宗泉徳(せんとく)寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという(児玉郡誌)。のち甲斐武田氏旧臣の松本左京がこの地を開拓して居を定め、館跡の南にある鎮守守神(もりがみ)神社は、松本氏の守護神として勧請されたものという(神川町誌)。
旧池田村鎮守守神神社正面
神川町は南北に長い町で、町域の地形は全体として南が高く、北に向かって低い。南部は秩父山地の北縁にあたり,一帯は上武県立自然公園に属し,群馬県境の三波石峡は国の名勝・天然記念物に指定されている。そこから北部に移るにつれ、高度は低くなり、御嶽(みたけ)山(三四三・四メートル)の北へ続く山稜は池田地域にある「神川げんきプラザ」付近までであり、これに続いて小高い青柳丘陵が続く。
南部丘陵地には縄文時代の遺跡が多くみられ、「神川げんきプラザ」地内の池田遺跡は縄文時代早・中・後・晩期の遺跡として知られ、かなり早い時期から開発の進んだ地域ともいえる。
池田守神神社は新宿八幡神社の南東方向に位置する。単なる偶然と思われるが、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線沿いの「峯岸集会所」東側にあるY字路が合流する信号地点を挟んでこの2社は同距離であるのも面白い。
境内は決して規模が大きい社ではない。が、不思議とコンパクトに纏まっていて、手入れも行き届いている。また境内には多くの案内板が掲示され、更に数多くの石祠や石碑が祀られていて、この地域の歴史の深さを感じるものが多い。
鳥居の左側に設置されている案内板
守神神社 御由緒 神川町池田八四九
□御縁起(歴史)
当地は、神流川の右岸に位置する。 集落南の山際近くで、東西約九〇メートル、南北約一〇〇メートルの規模で堀と土塁が周囲を巡っていた中世の館跡が確認されている。 地内の曹洞宗泉徳寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという。また『風土記稿』などによると、永禄十一年(一五六八)に甲斐武田氏旧臣松本左京がこの地を開拓して居を定めたという。
当社は、松本左京が同家の守護神として、館の南に祀ったと伝えられている。同家の後裔である松本昭平家には、飯島大学・関口門蔵・井上又左衛門の三名が、永禄十二年に松本左京に宛てた文書が残されている。その内容は、松本家の地元に「当所氏神」として社を建立したが、諸事世話は松本家に頼み、修復の際には四名で相談して行うというものである。これによれば、当社は松本家の氏神であると同時に、村鎮守としての性格も創建当初から合わせ持っていたことが知られる。
『風土記稿』池田村の項に「守神明神社 村鎮守なり、村民持」と載る。この村民が松本家であるが、直接の管理は当社南にあった本山修験常学院が行っていたともいわれる。『風土記稿』によれば、常学院は、慶長十二年(一六〇七) に忠尊が草創し、本尊は不動であったが、明治初年の神仏分離により廃寺となったらしく、『郡村誌』には既にその記載がなく、詳らかではない。
□御祭神
・素盞鳴尊…災難除け、安産、家内安全(以下略)
案内板より引用
『風土記稿池田村条』には「宗栄山泉徳寺の開基は、当村を開墾せる松本左京にて元和八年十月朔日卒す、法名宗山泉徳禅定門、この人を大檀越とす。子孫七郎右衛門、又修理を加えて当寺を中興す、この人は寛文四年正月八日卒す、法名花庭宗栄。子孫今に至て連綿たり」と記されていて、風土記稿の内容が確かであれば、この松本左京という人物は、少なくとも永禄11年(1568)~元和8年(1622)までの54年間もこの地に生存していたことになり、かなり長命の人物となる。
拝 殿
拝殿正面上部に掲げてある「神社由緒書」
神社由緒書
埼玉県児玉郡青柳村大字池田八四九番地鎮座
守神神社
祭神 素盞鳴尊
由緒
當社ハ池田ノ総鎮守トシテ往時ヨリ勧請シ村民深ク崇敬シタリト云フ 享保年間正一位ノ神階ヲ授ケラルル 當社ニハ天和三年社殿再建ノ棟札明和元年御屋根葺替寄進文寛政七年御祭禮獅子踊役割附等ノ古文書ヲ傳来セリ 又一説ニハ當社ハ元和年間土地ノ旧家松本左京ノ屋敷ノ守護神トシテ勧請セシ社ナリトモ云フ 大正四年社殿ヲ修理シタリ 大正十一年無格社稲荷神社ヲ當社境内ニ移轉セリ
大正十四年十二月本県ヨリ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル 昭和二十一年二月二日神社制度改革ニヨリ社格ヲ喪失ス 神社本庁ヨリ例祭ニ幣帛料ヲ供進セラル
大祭日
祈年祭 三月十九日
例祭 十月十九日
新嘗祭 十一月二十九日
案内板より引用
拝殿手前右側には境内社・池田稲荷が鎮座 池田稲荷の向かいには「池田の獅子舞」の
案内板が設置されている。
池田の獅子舞
昭和六十二年三月十日 町指定民俗資料
池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から、三〇〇年程前に伝授されたと伝えられ、すべて長男にやらせる仕きたりであったが、今では制限されていない。
獅子舞は、守神神社や泉徳寺等で十月十九日におこなわれる。金鑚神社の例祭(四月十五日)にも古くから奉納している。これにでる時は、池田から笛を吹きながら金鑚神社まで行進する。
獅子は、先獅子・女獅子・男獅子の三頭で、その外に、花笠・カンカチ・笛方・歌方・鬼面・猿面・万灯持ちの役割がある。
また、曲目には、剣の舞・三拍子・ぼんでん掛かりその外がある。
昭和六十三年三月 神川町教育委員会
案内板より引用
*神川町HPには「池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から300年ほど前に伝授されたといわれています。秋祭に地区内各所で舞った後、守神神社に奉納されます。金鑚神社の春の例祭に奉納されることもありました」とも記されている。
社殿奥に祀られている石祠群 池田稲荷の隣に祀られている石祠・石碑群
社殿右側に直立に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「神川町HP」
「境内案内板」等