古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

両神薄諏訪大明神

「両神薄」は「りょうがみすすき」と読む。変わった地名だが、この「薄」は「スズキ(鈴木)」の別名で、「薄」の佳字ともいう。薄(うす、うず)は渦(うず、うづ)の佳字にて、ススキに転訛し、最終的に「スズキ(鈴木)」に変わったという。
 この薄(すすき⇒うす)は、渦(うず、うづ)、巴(うず、うづ)の意味で、海洋民の集団を指していて、海岸部に多く、本来内陸部に少ない苗字だ。
『新編武蔵風土記稿』薄村条には「古へ薄(ススキ)多く茂れる村なれば、唱へしと云う」とも記載され、ススキが多く茂る風景を地名由来としている。
 秩父地方の神流川流域の児玉地方を本拠地とした武蔵七党の一つである「丹党」。第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称する武士団である。諏訪神社は全国規模で祀られているが、嘗て秩父の地の多くは中村氏、薄氏等、丹党一族の氏神として祀られた。鎌倉時代以前から室町時代後期の間、小鹿野町にある国民宿舎「両神庄」(秩父郡小鹿野町両神小森707)の地には、丹党薄氏の館があったと云い、備前国に移住した後は須々木に変えた。
=Wikipedia参照=
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄8240向い
            ・
ご祭神 建御名方神
            ・社 格 不明
            ・例 祭 不明
 両神薄諏訪大明神は小鹿野町両神薄地区に鎮座する。途中までの経路は小鹿神社を参照。小鹿神社からは國道299号を西方向に進み、「黒海土バイパス」交差点を左折し、埼玉県道37号皆野両神荒川線に合流し、暫く進む。赤平川等河川が合流する地点で右折し、埼玉県道279号両神小鹿野線を5㎞程進むと「両神薄ダリア園」が左側にあるが、その県道の反対側にひっそりと鎮座している。                                 
            
             道路沿いに鎮座している両神薄諏訪大明神
        
                                  拝 殿
 丹党薄氏は秩父郡薄村より起こっている。
 ・武蔵七党系図には「武経(領秩父郡)―武時―二大夫武平(又曰武峰、天慶年中、故ありて、武州に配流され、秩父郡、加美郡、一井、加世等を押領す。後免されて上洛)―薄二郎長房―四二郎能房―能行、能房の弟織原丹五郎泰房―薄小二郎能直―薄弥二郎能国―小五郎行貞(弟に四郎時国、五郎有能)―弥二郎行有、弟彦二郎宗行」
 ・秩父神社文書に「延慶四年三月三日、名字書立、井戸惣領弥九郎、薄四郎次郎、支恒惣領吉田五郎次郎、久永惣領小畠平太跡」
        
                         拝殿前に聳え立つ「夫婦杉」
 諏訪大明神の夫婦杉
 諏訪社(祭神・タケミナタカ)は、「狩猟の神」「農耕の神」「武の神」と言われ、全国に沢山あるが、秩父地方の多くは、中村氏、薄氏など、丹党一族の氏神として祀られた。
 鎌倉時代以前から室町時代後期にかけて、現在の国民宿舎両神荘の地には、丹党薄氏の館があった。日影地区も薄氏の勢力下にあり、この諏訪大明神もその関係で建立されたものと思われる。
 丹党·薄氏は、西暦一五二〇年頃にはこの地から転出するが、諏訪大明神や社殿前の夫婦杉(めおとすぎ)は、後継の一族や地域から大事にされ、今日に至っている。
 夫婦杉の樹高は、三六mと三一・五m。 胸高周囲は、四・三六mと三・四〇mであり、樹齢は五〇〇年を超えると推定される。
諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用
 
      拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
                        本殿や境内社が並列して祀られている。

 拝殿内部の「再建寄附」奉納板を確認すると、氏子名で「黒沢・黒澤」姓が目立つ。
 黒沢・黒澤(くろさわ)
 現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中国磐井郡黒沢村が起源と謂われている説や、平姓・葛西氏流、安倍氏、清和源氏等の流派もある。関東では武蔵国秩父郡・上野国甘楽多野郡・信濃国佐久郡の三国の国境地帯及び常陸国にも多く、この両神地区にも多く存在する。
・新編武蔵風土記稿薄村
「旧家蔵之助、黒沢を氏とす。先祖を黒沢馬之助と云ふ、是れも鉢形の臣なるべし。古くより此の村に居ると云ふ。今多比良勘解由が屋敷は住居の地なりとぞ、彼が先祖丹波が為に居を今の所に移すと云へり。近き年まで文書などありしと云へど、丙丁の災に憚りしと云ふ」
謙信公御代御書集
「永禄十二年十一月二十九日、氏邦は、黒沢右馬助を代官として越後へ送り、輝虎に柳酒三十と五種を進献す」
寄居村正龍寺文書
「七月二十九日、明日朔日御出馬治定候、黒沢右馬助殿、氏邦花押」


 両神薄諏訪大明神のすぐ西側には「日影集会所」があるが、その右側には「青石板碑」と案内板に表記された石碑群が存在する。
        
                                 「青石板碑」石碑群
        
                                  「青石板碑」案内板 
 青石板碑(室町・南北朝時代)
 青石とは緑泥変岩のことである。
 板碑は中世特有の信仰・文化遺産であり、重要な文献資料でもある。 鎌倉時代初期から室町時代末期まで全国的に建立された。
 秩父産の青石板碑は、丹党・岩田氏の所領であった現在の長瀞町野上地区で生産・加工・搬出された。
 一三三六年、楠木正成らは、湊川の戦いで足利尊氏に敗れ、後醍醐天皇は吉野に南朝政権を開く。正成の一族には、両神薄へ落ちのびたものがおり、黒沢姓を名乗った。やがて、藤差(ふじさす)地区に移り住むが、家名を復活させるのは、ずっと後のことである。
 この板碑(塔婆・とうば)には、貞治五年(北朝の年号で一三六六年)と阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれている。
 日影地区に建立されたこの青石板碑に込められた思いは何か。それについては、様々な推察が出来よう。諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用


 楠(楠木・以後は楠木氏で統一)氏は謎が多い一族である。通説では河内国を中心に、南北朝時代に活躍した南朝方の武家であり、正成・正行親子は「大楠公・小楠公」とも尊称され、戦前の教科書では忠義の臣として明治
13年(1880年)には正一位を追贈された。また2人共に湊川神社の祭神(主祭神・配祭神)となっている。
 しかし冷静に考察すると楠木氏は日本各地に存在する苗字である事も確かで、珍しい名ではない。
 調べてみると、クスノキ(楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。別名クス。暖地に生え、古くから各地の神社などにも植えられて巨木になる個体が多い。材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材に使われた。台湾、中国、朝鮮の済州島、ベトナムといった暖地に分布し、それらの地域から日本に進出し、日本では、主に関東地方南部以西から本州の太平洋側、四国、九州・沖縄に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
 楠の材そのものに防虫作用があり、タンスを作ると防虫性が高いともいう。古代の丸木船の中には楠を使ったものがあるという。大型の丸木船を作るために大木が必要であったことと、腐りにくいことがあったのかも知れない。
 楠木という苗字はこの常緑高木である「クスノキ」と無関係ではあるまい。
        
                             両神薄諏訪大明神 遠景

 楠木正成は日本では大変著名な人物であるにも関わらず、出自不詳で、加えて自称は橘氏後裔という。通説では『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたというが、氏族として先祖代々からその地に住み着いていたかどうか、その文面を見る限り判明はしない。
 一説によれば、楠木氏は元々武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)であり、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったともいう。『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。
 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に「くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされる。
 はっきり言うと、これらの文献資料に登場している「楠木氏」が正成と同一氏族であるとする根拠はどこにも無いのだ。

 武蔵国郡村誌にも、「楠木氏は元黒沢氏を名乗り北条氏邦に仕えていた武士であったが、鉢形落城の時本村に移り天明のころ楠と改姓した。」と記載されているが、この楠木正成の子孫の話だかどうかの記述はなく、真相は不明だ。

 両神薄地区にある「青石板碑」に記載されている「楠木氏」は、正成の一族かどうかは分からない。ただ「楠木」姓の関東地区にいた御家人はかなりいたことも確かなようだ。
さて真相は如何に。
 

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下日野澤大神社

 阿左美(あさみ)氏は、浅見・浅海・朝見・阿佐美・阿佐見・阿左見と表記の仕方は違うが、東国の、特に相模国・武蔵国・上野国3国に多くある苗字で、他の国にはあまり存在しない。特に埼玉県特有の苗字で、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布していて、秩父地方では「あざみ」と読む所もあるらしい。
 通説での浅見氏は、児玉党浅見(阿佐見)氏が児玉郡浅見村より起り、武蔵国の各地に広がった。武蔵七党系図には、児玉庄太夫家弘―庄五郎弘方(阿佐美)―実高と続き、この実高は武蔵国児玉御庄、上野国高山御庄、同吾妻郡小中山村、越後国荏保、又横曽根保、又大積、加賀国島田村領と所領を与えられ、仁治二年正月に亡くなっている。
 更に桓武平氏 秩父氏流渋谷氏族である莇(あざみ)氏と同族とも云い、「目黒区大観」に、莇(あざみ)家から分かれた浅海家に「武州渋谷之莇氏伝」という旧記録があり、“あざみ”の漢字・莇から浅見(浅海・阿佐美)に変わったと記載されている。
 下日野沢地区には古代から阿左美氏が多く存在する地域である。この地域の阿左美氏はどの系統からの流れなのだろうか。
               
           ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3543-2
           ・ご祭神 神功皇后 大山祇命
           ・社 格 旧村社
           ・例 祭 節分祭 23日 祈年祭 330日 夏祭 723日 
                例大祭 101415日 新嘗祭 125日 
                師走の大祓 
1231日    
 日野澤大神社は進路途中までは「国神神社」参照する。その後埼玉県道44号秩父児玉線を北西方向に道なりに1.5㎞程進み、T字路を左折、同284号下日野沢東門平吉田線と合流するので、日野沢川に沿って西方向に2㎞程進むと左手に日野澤大神社の鳥居が見えてくる。
 社は県道沿いにあるとはいえ一段高い場所に鎮座し、県道から脇に伸びる舗装された道が社の参道となっている。鳥居の手前には駐車できる空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                    日野澤大神社正面
 
      鳥居に掲げてある社号額          鳥居の右側に設置された案内板
 日野澤大神社御由緒  皆野町下日野沢三五四二ノ二
◇神代神楽を伝承する日野沢地域の総鎮守
 当地域は荒川の一源流である日野沢川の渓谷沿いに点在する十七の自然集落(耕地)から成り、平地が少ないため斜面に石垣を積み上げるなどして家々が点在する山村の原風景を今に伝えている。
 旧日野沢村の総鎮守である日野澤大神社の御本社は明治四十二年(一九〇九)に下日野沢字沢辺鎮座の諏訪神社外十六社を現境に合祀し、社号を日野澤神社と改称して創建されたものである。
 また当神社の奥社は大山祇神社と称し、大字上日野沢字西門平に鎮座する。その創立年代は詳らかでないが、御厨三郎平将門の崇敬ありと伝えられ、霊験あらたかな御社として崇敬を集め、明治十五年(一八八二)には旧上日野沢村の村社に列している。大正十年(一九二一)、大山祇神社(奧社)並びに日野澤神社(御本社)が一体となって社号を「日野澤大神社」と改称し、神饌幣帛料供進神社に指定され旧日野沢村の村社となった。
 春秋の祭礼に奉納される「日野澤大神社神楽」は、秩父神社直属の神楽として組織されたもので、中断の危機にあった秩父神社神楽を継承すべく明治十四年(一八八一)一月十日に日野沢代々協会として発足したものであり、現在は皆野町の民俗文化財に指定されている。
 また秋の奥社祭では、同じく皆野町の民俗文化財である「門平の獅子舞」と合せて奉納されている。
 その他、大晦日に行われる「師走の大祓」は、一年間の罪穢れを祓い除くために山峡を下り、日野沢川の清流に人形を流す特殊神事として今も行われている。
                                      
案内板より引用
 この案内板では、創建年代等詳しく記載されていない中、「
御厨三郎平将門」との記述に違和感を覚えた。この「
御厨三郎」に該当する人物は平将門の弟である「平将頼」であり、辻褄があわない。通説では平将頼も将門戦死後、相模国で討たれている。一方日野沢地区から北西方向に鎮座する矢納城峯神社には平将平の伝承・説話がある。平将門が関東一円を占領し、藤原秀郷等の討伐軍との戦いで戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことは事実で、多くの伝承が入り混じって、このような言い伝えとなってしまったのだろうか。
                    
                                 新たに舗装された上り坂の参道の先に社殿は鎮座している。
             
                                  拝 殿
 
                本 殿                    社殿奥に祀られている境内社・石碑等          
             
                                                                     神楽殿
○日野沢大神社神楽(無形民俗文化財 昭和5941日)
1015日、日野沢大神社大祭に舞われます。明治14年、太田村熊野神社の神楽師により伝受されました。この頃秩父神社の神楽は中断されており、秩父神社祠官園田忠行が妻の里方である下日野沢村千廼宮祠官高橋富里に神楽団の組織と秩父神社への奉納を依頼したものであり、日野沢神楽団は秩父神社直属の神楽団として発足しました。昭和4年秩父神社に神楽団が復活すると共に秩父神社への奉仕も終わりました。
                                  皆野町ホームページより引用
                       
           神楽殿の脇に設置されている「日野沢神楽創立百周年記念事業奉賛碑」

 冒頭に述べたが、日野沢地区には阿左美氏が多く存在する。
・秩父誌
「高松屋敷・日野沢村。阿佐見氏」
秩父風土記
「下日野沢村・龍ヶ谷城跡。阿左美伊賀守鉢形落城の後、民間に下る」と見え、秩父郡誌に「朝見伊勢守は、横瀬村根古屋城を拠守せり。小田原没落後、日野沢村に隠れ、其の子孫は江戸時代に里正を勤めたり」
新編武蔵風土記稿下日野沢村
「旧家者里正十左衛門・阿左美氏なり。先祖は鉢形北条氏邦に属し阿左美伊勢守玄光と云、永禄十二年七月十一日甲州勢を追かへし、其時氏邦より感状を賜り苗字を朝見に改らる、感状今に所持す。伊勢守息朝見伊賀守慶延・元亀三年まで上杉家の押へとして郡中横瀬村根古屋の城に居れり、其時氏邦より加増の文書今に所持す。天正十八年鉢形落城の後、伊賀守息朝見左馬助幼年にて日野沢村に隠れ居り民間に下り郷士となれり。水潜寺開基阿左美伊賀守慶延・法号勇光院殿胸剣慶延大居士なり」
甲州勢夜中土坂を忍入、阿熊に屯し候を、物見山より早朝見付之、即刻吉田之楯江駆付相固候条、感悦之至に候、依之苗字阿佐美之字を向後、朝見之文字に書替、誉を可胎子孫に候、当座之為賞太刀一腰遺之候者也、永禄十二年七月十一日、朝見伊勢守殿、氏邦花押」


 ところで日野澤大神社の西側には「秩父 華厳の滝」もあり、参拝当日も多くに観光客で賑わっていた。
              
                                   秩父華厳の滝入口   

                秩父華厳の滝(写真左・右)       
        
 本家の日光・華厳滝と比べると規模も小さいながら、滝からのマイナスイオンを浴びながら清々しい森林浴を楽しむことができる場所でもある。落差12m程の直滝で大きくはないが、真近で見ることができるので、そこそこの迫力があり、綺麗で見応えのある滝である。
 ここの渓谷の地層は、「秩父帯」と称され、約
2億年前~15千年前の中生代ジュラ紀にプレートにのって運ばれてきたものとのこと。


【追伸】
 後になってから知った事で、散策できなかった場所であり、見学も撮影も出来なかったが、日野澤大神社の東側で、日野沢川上に「阿左美氏館跡」が存在する。この館跡には父最大級といわれる石垣が残っており、喰違い虎口の跡も確認することができるが、現在も子孫の方が居住されているので石垣のみ見学可能。
「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の阿左美氏に関する記述によれば17世紀の末元禄7年(1694)に普請された旨が記されているので、現在目にすることのできる遺構の大部分はあくまでも江戸時代初期のもののようだ。
 それにしてもホームページ等の写真を見る限りこの石垣の見事なことには正直驚いた。関東には基本的には石垣構造の城館というものは存在せず、土垣が主流であり、あるとしたらごく稀なケースということになる。太田市にある「金山城跡」同様にこのような石垣があるが、構造的には比肩できる石垣である。
 後北条氏の滅亡後には伊賀守の息子朝見左馬助がこの日野沢の地に帰農土着して郷士として日野沢村の里正(名主)を代々務めたという。


 字数の関係で詳しく記載できないが、古代武蔵国は土佐国との交流が頻繁で、後北条氏の鉢形城配下には土佐・阿波国出身者が多くいたという。浅見氏も実は土佐国出身ではないかとの見解もあり、この件は改めて考察したいと考えている。
 
                       

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大谷桑名野神社

        
              ・所在地 埼玉県深谷市大谷951
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
              
・例 祭 不明
 大谷桑名野神社は深谷市大谷地区に鎮座している。埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、深谷市立藤沢小学校を過ぎた最初のY字路を左折し、道なりに約3㎞進むと、道路沿い右側に大谷桑名野神社が鎮座する場所に到着する。社殿の奥には十分な駐車スペースが確保された空間もあり、そこに車を停めて参拝を行う。
        
               道路沿いに鎮座している
大谷桑名野神社
 
        神明造りの鳥居          鳥居の右手には「改名改築合祀記念碑」
 改名改築合祀記念碑
 碑誌
 大字大谷ニ桑名神社ト桑野神社ト称スル二社座セルヲ昭和二十四年四月十五日合社シテ桑名野神社ト改名シ奉リ境内社トシテ天手長男神社琴平神社八坂神社大國主神社嚴嶋神社淺間神社地神社七社ヲ奉斎ス尚本殿拜殿上屋神樂殿水舎等改築及社號標ヲ建設シ奉崇拝ノ記念トナス
 昭和二十七年十二月
                                     記念碑文から引用

        
                鳥居を過ぎると右手にある神楽殿
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿』によると、「大谷村は藤田郷萱苅荘榛里と云い、上下大谷村は元富村と一村なりしが、いつの頃か分村すと云、正保のものには一村にて、元禄の改には三村を出したれば、此間に分れしなるべし」と記載がある。
 遡って太田道灌書状に「文明十二年(1480)正月四日上杉定正・大谷寄陣、同十三日沓懸相進(岡部町)、景春飯塚陣(大谷村の南。花園町)」と見えているが、その後天正七年(1579)白石村上田文書には「半沢郡大屋村」と見え、「大谷(文明12年)」⇒「大屋(天正7年)」⇒「大谷(江戸時代)」との地名の変化が見える。但し元々「大谷」と「大屋」は同意語でもあり、基本的な意味は変わらない言語でもある為、天正7年以前での「大谷・大屋」は地名が統一する以前の混在時期であった可能性もある。
 現在大谷桑名野神社という名称ではあるが、『新編武蔵風土記稿』では「桑名明神社」であり、上・下大谷村鎮守、村持ちとなっていて、上下大谷村にそれぞれ1社ずつ同名の社が鎮座していた。
      
              社殿奥、右側に聳え立つご神木
        
           社殿左側には末社の鳥居があり、その先には多くの石祠等が祀られている。
        
 左側から冨士浅間神社、天手長男神社、琴平大神社、詳細不明、社日神、不明、大黒天、詳細不明、辨才天、不明、大日神。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「境内記念碑」等

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柏合八王子神社

        
            ・所在地 埼玉県深谷市柏合725
            ・ご祭神 天照大御神・月読命・男五神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
                 天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命)
                 女三神(奥津島比売命・市寸島比売命・多岐都比売命)
            ・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
            ・例 祭 大祭 419日 1019日
 柏合八王子神社は深谷市柏合地区に鎮座する。柏合地区は、東側にある「深谷市総合体育館(通称深谷ビッグタートル)」と、西側にある「深谷グリーンパーク」との間に位置する南北約1.4㎞、東西約1.2㎞の地区で、全体的にはなだらかな田園地帯が続く場所であるが、地区南側の標高が71m程に対して、そこから北方向に進むにつれて63m程に緩やかに下がっていく下り斜面の地形となっている
 柏合八王子神社は樫合常世岐姫神社の北東方向約800mの場所に鎮座していて、境内には「美しい村ふれあいセンター」がある。駐車スペースは以前ならば境内が広く、そこに停められたが、現在は駐車ができないので、西側にある深谷グリーンパークの駐車スペースに停めてから徒歩にて参拝を行った。
        
                                  柏合八王子神社正面
 
      一の鳥居は朱色の両部鳥居         一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
     
      参道を進むと左側に手水舎がある。            参道正面
                            解放感のある空間が広がる。
       
                  参道を進むと右側にご神木である杉の大木が聳え立つ。
        
                           拝 殿
        
                         境内にある「八王子神社本殿再建記念碑」
 八王子神社本殿再建記念碑
 当地は古くは武蔵国藤田庄柏合村字島の上と言う地名にあり、この神社の創建は元禄時(西暦1688年)頃である。当時は八王子明神社として祀られたと言う。現在の本殿は寛政十二年(西暦1800年)の建立である。(以下略)
 当神社の由来は天照大御神と須佐之男命に結ばれた誓約に依る男五神と女三神を合わせ祀り八王子を社号とした。
 その他に境内地には八坂神社、塞神社、天手長男神社、浅間神社、種痘神社が祀られている。五穀豊穣、家内安全、身体壮健等の神様として信仰が厚い。大祭は春四月十九日と秋十月十九日の年二回行われ、当地の氏子衆により「ささら獅子舞」が奉納される。
 このような歴史ある社殿も近年老朽化が甚だしく敬神愛郷の念厚い氏子崇敬者は社殿の護持に心を砕いていた。平成十七年本殿を建て替える気運が盛り上がり、氏子の総意で建設委員会を立ち上げた。三年後の完成を目標に計画を進めた。貴重な浄財を多大に寄進して戴いたので、社殿、末社、水屋を新設、玉垣、参道を改修し境内の整備を行った。
 ここに八王子神社竣工奉祝会の斎行をもって完成をみた。依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻んで永く記念とする。
 平成二十一年(西暦二〇〇九年)十月吉日(以下略)
                                      境内碑より引用
 境内碑に記されている「ささら舞」とは「柏合獅子舞」のことで、この獅子舞は深谷市の無形民俗文化財に指定されている。
 ささら舞は無病息災や豊作を祈願し奉納される江戸時代から続く伝統行事で、「ささら」とは、獅子舞のときにこすり合わせて音を出す木や竹製の楽器のことで、この楽器の名前が埼玉県を含めた北関東では獅子舞の別称にも使われている。
 柏合獅子舞は「法眼」「男獅子」「女獅子」の3頭からなり、4月中旬並びに10月中旬の八王子神社例大祭に合わせて奉納される。伝承によれば、深谷城の上杉氏が伝えたものと謂われていて、八王子神社の雨乞い神事の際に行う。
 
            社殿手前で左側には境内社が鎮座している。
左側には八坂神社(写真左)。右側の末社殿には浅間神社・天手長男神社・塞神社・種痘神社の四社が祀られている(同右)。

 八王子という地名は全国に存在する。元々八王子権現は近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王神道が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属神である8人の王子(相光・魔王・俱魔良・徳達神・良侍・達尼漢・侍神相・宅相神であり、夫々の本地は釈迦・文殊・弥勒・観音・薬師・普賢・阿弥陀・地蔵)を祀った。

 因みに権現(ごんげん)とは、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。
        
                              柏合八王子神社 遠景

 近江国牛尾山は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰された。牛尾山の山頂にあった牛尾宮は比叡山延暦寺の鎮守であった日吉山王権現21社の一つで、山王の王子である8人の眷属神が八王子権現として祀られ、千手観音菩薩を本地仏とした。また牛尾を忌みて、祇園精舎の守護神である牛頭天王が頗梨采女(はりさいにょ)との間に設けた8人の王子かつ眷属神が八王子権現との信仰も発展した。

 神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の八王子社で祀られたというが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、日吉山王権現・牛頭天王(祇園信仰)とともに八王子権現も廃されたという。


参考資料 「大里郡神社誌」「Wikipedia」「
境内再建記念碑」等

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樫合常世岐姫神社

「常世」(とこよ・つねよ)とは、永久に変わらない神域で、別名「かくりよ」(隠世、幽世)とも言い、死後の世界でもあり、『古事記』や『日本書紀』等の日本神話で語られる「黄泉」もそこにあるとされている。対する人間世界が現世(うつしよ)とされている。常世の世界は『神々が現世に訪れる理想郷』とも言われ、日本文化の世界観において重要な存在とされているらしい。また「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。
 常世氏(とこよし)は、日本の氏族。系統は渡来系の古代豪族と、桓武平氏系統の加納氏流がある。
 渡来系の古代豪族として、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族で、染色技術者集団赤染氏の一族が存在していた。河内国大県郡を主な根拠地とし、鎌倉時代には当地の人々が幕府から「河内国藍御作手奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導したという。但しこの常世氏は渡来系の古代豪族の中では少数派に属しているようで、文献等にもごく散発的にしか記録されていない。また本拠地とされる河内国大県郡に常世岐姫神社(大阪府八尾市)を祀られているが、同系列の分社は埼玉県内に数カ所のみ確認され、行田市荒木に所在する社と深谷市樫合にも所在する当社位である。
 一方桓武平氏加納氏流の武士集団である常世氏も少ないながらも存在する。陸奥国会津地方の戦国大名蘆名氏の同族。鎌倉時代に加納氏流の佐原盛時が耶麻郡常世邑(現在の喜多方市)の地頭職に補任され、次男の佐原頼盛が本貫として土着し、常世氏を名乗ったとされているが、歴史的な下限が鎌倉時代あたりと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市樫合646‐2
              ・ご祭神 常世岐姫命(推定)
              ・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
              ・例 祭 不明 
 樫合常世岐姫神社は深谷市樫合地区に鎮座する。埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「グリーンパークパティオ」交差点前左側に常世岐姫神社が鎮座している。専用の駐車スペースも社に隣接した空間が県道沿いにあり、そこに停めて参拝を行う。
        
                  樫合常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿』によれば、常世岐姫神社が鎮座する樫合村は大寄郷藤田庄と唱え、正保年間及び元禄年間の改には、隣村柏合を通じて一村とし、日根野長五郎知行とあり、今では樫合・柏合は別村で、発音は同じながら、文字は異にする、と謂う。更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期分村したものであろう。
 嘗ては『八王子権現社』と言い、樫合・柏合村の鎮守であり、両村持ちであった。本地佛無盡(尽)意菩薩を安置しているという。
 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
        
                           鳥居及び正面参道
            平均標高74m程の櫛引台地面に鎮座している。

 日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
 しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。
 
     社の入口左側にある石碑群          左から八坂神社・天手長男神社・浅間宮
                      これらの境内社は参道の左側に並んで鎮座している。
 
  境内社・浅間宮と並んで神輿殿が2基ある。      神楽殿か舞殿あたりだろうか。
        
                     拝 殿
 
           本殿並びに拝殿部との間には「修復之記」記念碑がはめ込まれている。
 修復之記
 敬神崇祖はわが国古来の伝統美俗である惟うに当社は天文四年創祀するところと伝えられはじめ八王子権現社として本地佛無盡意菩薩を安置した
 爾来幾星霜村民崇仰の的として栄えるところがあったが、徳川幕府の政事衰へ明治維新となるや神佛分離の掟によって八王子権現社を常世岐姫神社と改め今日に及んでゐる
 一方顧みるに社殿は草創以来茅葺のままであったが、元治元年奥宮を流造り鱗葺きとし拝殿を入母屋造り瓦葺に改めてその面目を一新し更に昭和六年には外宇を造って奥宮を安置し以ってその社容を整えるところがあった
 然るに昭和四十一年九月二十五日台風二十六号襲来風速四十米に樹齢三百有余年に及ぶ境内の大木三十数本倒木し為に奥宮外宇は倒壊し拝殿は損傷し昔日の面影を失うに至った
 よってここに奉賛会は大字の協賛により改修築をなすに当り伊勢参宮者より金拾七万六千円の浄財の寄贈あり其の芳名をここに記す
 昭和四十二年四月吉日 大字樫合常世岐姫神社奉賛会(以下略)
                                      案内板より引用

 
 社殿の至る所に奉納額等が掲示されている。    社殿手前右側に静かに鎮座する山神
 
            社殿の左右奥にはそれぞれ境内社・末社が鎮座する。
 社殿左側奥には末社群が鎮座する(写真左)。左から豊受大神宮・天照大御神・八幡大明神・天満天神宮・琴平神宮・稲荷大明神。
 社殿右側奥には左から蚕影神社・駒形神社石碑・その右側の境内社は不明(写真右)。
        

 当社の創建は、神伝によると、天文四年(1535)のことである。一方、草分けの江原晴松家の口碑によれば、先祖荏原主計守勝が元応二年(1320)当地に土着し八王子神を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』に、当社は八王子権現社と載り「当村及柏合村の鎮守なり両村持」とある。古くは、当樫合と隣の柏合は一つの村であり、『風土記稿』が、更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期ごろ分村したものであろう。このため、両地区は現在も「付き合い村」と称して親交があり、カタガシ(樫合)・シロガシ(柏合)と呼び合っている。この柏合にも、八王子神社があり「分村の時、樫合の八王子権現の祭神である八王子のうち、男神の五王子を柏合に移し、樫合は残った女神の三王子を祀っている」という。
 これを裏付けるように、当社の氏子は「女の神様で、ハツオサンサマ(八王子様)というお産の神である」と言っている。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「社殿記念碑」等

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