古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

安養寺八幡神社


               
             
・所在地 埼玉県鴻巣市安養寺126
             
・ご祭神 誉田別命 息長足姫命
             
・社 格 旧安養寺村鎮守 旧村社 
             
・例 祭 祈年祭並びに勧学祭 220日 例祭 914日 
                  
新嘗祭 1124
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.073495,139.5184691,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパスを鴻巣方向へと進み、17号との合流地点である「箕田」交差点の手前にある「箕田(北)」交差点を左折する。通称「フラワー通り」と言われる道路を東方向に直進する。この道路は元荒川の南側にある通りで、街道の両側には生産者のハウスが並んでいて、ハウスの前には生産者の名前を表示する案内板が設置されている。因みに鴻巣市は全国的にも有数な花の産地である。
 話は戻って17号バイパス「箕田(北)」交差点からこのフラワー通りを東行する事3㎞程で、埼玉県道32号鴻巣羽生線と交わる信号のあるT字路にて終了するが、そこを左折する。すぐ先には元荒川が南北方向に流れ、そこに架かる「三谷橋」を越えて次の「安養寺(中)」交差点を右折、埼玉県道77号行田蓮田線合流後200m進んだ十字路を右折すると正面に安養寺八幡神社の鳥居が見えてくる。
 社の西側に隣接して安養寺自治会集会所があり、そこの正面玄関前に駐車スペースが僅かにあるので、そこに停めてから参拝を行った。
               
                              
安養寺八幡神社正面
 一の鳥居は進行道路に対して正面に見えるのだが、道路は鳥居付近で西側に折れ曲がり、境内の参道は当初は真っ直ぐ進むが、すぐに突き当たりとなり、そこを左方向に曲がる。
すると正面に二の鳥居、そこから続く高台の頂に社殿が鎮座する特異な配置となっている。
 後日確認するとこの社殿は西向きとなっている。元荒川方向に向いているか、それともある地域に対して身構えているのだろうか。
               
                     左方向に曲がる参道付近にある案内板
 八幡神社 御由緒 鴻巣市安養寺一二六
 □御縁起(歴史)
 安養寺の地名はかつて当地にあった寺の名に由来するという。神奈川県立金沢文庫蔵の「求聞持秘口決」の奥書には、天福二年(一二三四)二月十二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。
『埼玉県伝説集成』によれば、安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川と挟んで東西に祀られていて、昔この両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白旗を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに敗れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった。一方、市ノ縄の八幡様には松の木が亭々とそびえ茂った。安養寺の八幡様の前の田を「白幡田圃」と呼ぶのは、この戦いにちなんでいると伝えられている。
 当社の創建年代は明らかでないが、社蔵の『神社財産登録台帳』には「木像壱躰 奉竒進八幡御尊躰元禄十丁丑年(一六九七)十一月廾八日」との記載が見える。また『風土記稿』安養寺村の項には「八幡社 村の鎮守なり、良覚院持」とある。別当の良覚院は愛宕山と号する本山派修験で、開山の仲海が寛永六年(一六二九)に寂したという。神仏分離で廃寺となった模様で、その寺名さえも忘れられている。
 明治六年に村社となった。
 □御祭神
 ・
誉田別命 息長足姫命
                                      案内板より引用
               
                       左側に曲がると正面に二の鳥居が見えてくる。
             桜は今が満開。社には桜が良く似合う。
 
         二の鳥居             二の鳥居の先に設置されている
                         「八幡神社の算額(絵馬)」の案内板
 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和五十一年三月一日指定
 八幡神社の算額(絵馬) 
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 八幡神社の算額は、大正四年に安養寺村の中村新蔵が奉納した。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。 参考:大正四年(一九一五)
                                      案内板より引用
               
                            古墳墳頂に鎮座する社殿
 〇八幡神社古墳(はちまんじんじゃこふん)
 ・所在地 鴻巣市安養寺126 八幡神社
 ・墳形 円墳。 東西45 南北23 高さ2.3m。
 ・埋葬主体部および周濠 未調査
 ・築造年代 6世紀初頭  出土品 
形象埴輪片、土師器、付近から鶏形埴輪

 45mの円墳と推定されているが、この数値が正しいとすれば県内の円墳としては上位20位以内に入る規模であり、鴻巣市明用地域にある明用三島神社古墳(前方後円墳・50m程)とやや同程度となる。
 荒川は「暴れ川」のごとく常に乱流を繰り返すため、古墳建造当時の流域等推し量ることは難しいが、現在の地形から推測しても、この古墳の埋葬者も元荒川水運を活用して蓄えた権力者だったのではなかろうか。
               
                                     拝 殿
 社自体かなり老朽化が進んでいるのだろうか。所々に「筋交い」で補強されている。この「筋交い」とは、柱と柱の間に斜めに入れて建築物や足場の構造を補強する部材である。構造体の耐震性を強める効果があり、地震や暴風などの水平力を受けたときに平行四辺形にひしゃげるように変形してしまう。そこで、対角線状に筋交いを加えて三角形の構造を作り、変形を防止する効果がある。

 ところで案内板には「安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川を挟んで東西に祀られていて、やはり嘗てこの両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白幡を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに破れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった」と記載されている。
 不思議なことに、その
伝説と全く同じ内容の事が、熊谷市にも伝わっている。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。現在では伝承自体以前程でないにしろ聖天様の松嫌いは、その集落に住むほとんどの人が知っているだろう。
 妻沼の聖天様は、松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったともいい、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。
                
                 古墳墳頂付近からの風景

 安養寺八幡神社の社殿は「西向き」と書いた。元荒川方向に向いていると言えそうだが、この社殿の方向を元荒川を延長すると、丁度「市ノ縄」地域となる。


 人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないとまことしやかに信じられているところをみても、慈悲深い仏とはいえ、喧嘩をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも見える。勝手な推測ではあるが。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「国際日本文化研究センターHP」 
    「境内案内板」等

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