古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

郷地久伊豆神社


               
              
・所在地 埼玉県鴻巣市郷地351
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧上郷地村鎮守  旧村社
              
・例 祭 祈年祭並びに入学児童奉告祭 217日 例祭 915
                   
新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0725672,139.5238764,17z?hl=ja&entry=ttu
 安養寺八幡神社から一旦北上して埼玉県道77号行田菖蒲線に戻り、東行すること1㎞程で「郷地橋」交差点に到達するが、その手前で左側に郷地久伊豆神社の一の鳥居が見えてくる。但し県道沿いにあるとはいえ、民家の間に社の一の鳥居があるため、見過ごす可能性もある為注意は必要だ。
 周辺に駐車スペースはない。社の北側に「上郷地第二集会所」があり、そこの駐車場をお借りして徒歩にて社の参拝を行う。
 埼玉県道77号行田菖蒲線は元荒川左岸に沿って北西から南東方向に通じる県道であり、郷地地域はその左岸を南側境界として東西2㎞程、北側は野通川がほぼその境となる1.8㎞程の四角形で形成されていて、県道沿いを離れると一面田畑風景が広がる地域でもある。
               
          県道沿いで民家の間にある
郷地久伊豆神社の一の鳥居
               
                                    一の鳥居
 一の鳥居から奥に横を向いた二の鳥居が僅かに見える。この二の鳥居は右側にある民家の塀で正面から撮影できず、斜めからでは参道の幅が狭いため、アングル的に撮影は断念した。
               
 一の鳥居から参道を北上し、突き当たりを直角に曲がると二の鳥居がすぐ見え、二の鳥居を過ぎると郷地久伊豆神社の境内が広がる空間に達する。
               
                                       拝 殿
               
              拝殿の手前に設置されている案内板
 久伊豆社 御由緒 鴻巣市郷地三五一
 □御縁起(歴史)
 郷地は、元荒川左岸の低地にある。江戸初期は郷地村と称して一村であったが、元禄年中(一六八八-一七〇四)までに上・下に分村した。その後も一括して郷地村と呼ばれることも多く、明治七年に上・下が合併し、再び一村となった。
 当社は『風土記稿』上郷地村の項に、「久伊豆社 村の鎮守とす、安楽寺持」とある。その創建の年代は明らかでないが、境内の最も古い石造物は参道両側に建つ灯籠で、元禄十三年(一七〇〇)に郷地村の坪井門之助外四六名により奉納されたことがわかる。また、拝殿内に「正弌位久伊豆大明神」の木製額が掛かり、享保七年(一七二二)七月に神祇管領吉田兼敬により正一位に叙せられたことがうかがわれる。
 別当であった安楽寺は、当社の西方二五〇メートルほどの所にある真言宗の寺院で、開基の年代は明らかでないが、その本尊の薬師如来は寛永年間(一六二四-四四)に地頭松平五左衛門が寄附したと伝える。
 明治初年の神仏分離で別当の安楽寺から離れた当社は、明治六年に村社となった。同四十二年には、字小宮の無格社稲荷社を合祀した。その後、大正五年には、社前が狭隘であったことから社殿を後方に七メートルほど移した。更に、昭和七年には御大典記念として社務所を建設した。なお、明治二十六年に地元の扶桑教先達の中根栄作が当社の社掌となって以後、福一・三朗と中根家が三代にわたり祀職を務めている。
 □御祭神と御神徳
 ・大己貴命 ・倉稲魂命
                                      案内板より引用

               
                           境内社 左側から稲荷社・天神社


 ところで埼玉県さいたま市西区高木にある「福田氏陣屋」跡は、福田左衛門惟康の陣屋とされ、新編武蔵風土記稿北野貝戸村条に「陣屋蹟あり。古へ福田左衛門惟康と云ふものゝ住せし地なりといへり。惟康は当村の名主惣兵衛が先祖と云ふ。広さ三町四方程の地なり」として記されている。
 また北野貝戸村(現さいたま市大宮区)福田家譜には、「福田左衛門惟康は北面の武士で、惟康十八代の孫・又左衛門長之は豊臣秀吉に仕へ、秀頼の時に関東に下向し北野貝戸村に土着し初代となる。二代善右衛門は埼玉郡下郷地村中根弾正の二男で、又左衛門の娘と結婚し宝来村開発に功績あり。善右衛門の二男善右衛門は村内に分家し豪農となる」と記していて、豊臣秀吉・秀頼に仕えた「福田氏」の一族が江戸時代以降この郷地地域に土着して「中根氏」を名乗っていることが分かっている。
 地元の現衆議院議員も「中根」姓である。関連性はあるのだろうか。
               
                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「福田家譜」「境内案内板」等
        

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