埼玉古墳群の謎(14)村君王子と永明寺古墳
羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の
この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。
○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里 道興
この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国し、北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物という。
この、「廻国雑記」には上野国から武蔵国に入国しその後のルートは大体岡部の原(深谷市岡部)→成田(行田市?)→(浅間川)→むら君→古川(茨城県古河付近)を通過したと記述されている。利根川流域であり、武蔵国北岸東行のルートだ。少なくとも室町時代には現在でいう国道17号線から同125号の原型ともいうべきルートが存在していたということになる。
ところで「廻国雑記」の旅は修験道の回国巡礼を目的に行われたものであり、私事の旅行見聞録ではなく、聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国であったものであると思われるが、その記述の姿勢には、古くからの情報に捕らわれず、俳諧性に基づいてその土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べるなどの、従来の「歌枕」として知られる名所として古代・中古から知られる土地に限らず、従来の文学とは無縁の地(「歌枕」に関して無縁の地であること)に関する記述を多く含む紀行文である。その道興准后が「村君」の地を通過地点の一地点に選び、尚且つ歌を詠んだ、この意味は非常に重いと思われる。もしかしたら道興准后はこの永明寺古墳を実見したかもしれない。
この村君地区一帯は、古墳時代時の集落跡も発掘されていて、相当の人口があったと推定でき、豊富な水資源による稲作や利根川、荒川の水運を支配した豊かな先進地帯だったのではなかったのではなかろうか。
永明寺古墳遠景
近世以前の利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、洪水の度に流路が複雑に変遷する河川であった。また多くの支流が周辺に流れ、それがクモの巣を張らすように幾重にも乱流していて、流域は度重なる水害に襲われていた。その水害が多発していた周辺地域の中で、この村君地区は利根川のすぐ南岸でありながら、自然堤防の微高地という地形的特徴により、また永明寺古墳自体が洪水の影響をあまり受けていないことから、比較的被害は他地域に比べて洪水等自然災害をまともに受けにくい地域だったのではないだろうか。
羽生市周辺地域には、埼玉古墳群ほどの規模ではないが、それでも多くの古墳が存在する。
今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
村君古墳群
村君古墳群は利根川の自然堤防上に形成された古墳群で、かつては7基ほどあったらしいが、多くの古墳は破壊され、現在墳丘の残っている古墳は永明寺境内の永明寺古墳、御廟塚古墳、稲荷塚古墳の3基のみ。
永明寺正面にある真浄門
永明寺古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。埋葬者は不詳。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が 祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。
不思議なことだがこの古墳から出土されたものはほとんど甲冑類であることから、この古墳に埋葬された人物は、生前平和時に君臨していた王ではなく、常に鎧を纏い、兜をかぶって戦っていた戦乱中の王と考えられる。また出土した埴輪の形態が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同型であることから、稲荷山古墳と密接に関係していた(同盟していた、又は同族)豪族の主であった可能性も高い。
時代はかなり下るが、前出の道興準后が武蔵国から下野国へ巡ったルートはその当時確かに存在していた正規の路であることは確かだ。聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国という表向きの顔とは別に、多分に俳諧師としての一面がこの諸国巡回のルートを少なからず変えたであろう。しかし、土地の案内人からの立場から考えれば、皇室に準ずる高貴な人物を案内するのだから、少しでも安全なルートを選ぶであろう。岡部の原から古河までのルートはそのような意味も含んだ路だったと思われる。そのルートの中に村君地区は存在する。残念ながら村君地区には土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べている一文は存在はないが、和歌自体も調べると何とも意味深長な内容となっている。
廻国雑記のルートは岡部の原から行田を経て、村君地区、古河方面へと続く。不思議と埼玉古墳群から村君古墳群に行くルートと共有している所も多い。埼玉古墳群や村君古墳群が築造された時期は6、7世紀であり、道興運后が廻国雑記はつくられたのは15世紀、両者にはかなりの時間的な隔たりがあるし、15世紀当時には道幅12m程の大通りである東山道武蔵路は見る影もなく変容して単なる小道となっていただろう。しかし規模の大小ではなく、6,7世紀に存在していたルートが15世紀まで継続していた可能性は否定できない。洪水による河川の変容によって路自体のルートの変更はあっても、埼玉郡としての中心は絶えず忍地方に存在していた。延喜5年(905年)に作成された延喜式神名帳に記載されている「前玉神社」は埼玉郡総鎮守ともいい、戦国時代の成田氏の忍城、江戸時代の忍藩十万石と、戦略上この地は北武蔵の重要地点であったことは揺るぎないものであった。
時代が遡り、中世の古道として鎌倉時代には鎌倉政庁を中心に放射線状に延びる鎌倉街道といわれ、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた軍事用の道路が整備されていた。この鎌倉街道は「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているが、主として
上道 鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道
中道 鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道
下道 鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、
常陸国に向かうとされている古道
この上道、中道、下道が中世の主要幹線路として伝えられてきているが、その他にも秩父道、羽根倉道、山ノ道などが通っていたことも知られている。この中の羽根倉道は鎌倉街道上道の支道にあたる道路で、所沢から分岐して富士見、浦和、大宮、上尾、白岡、加須市大越地区を通り 「中道」に繋がるルートといわれている。この加須市大越地区は村君地区に隣接し、樋遣川古墳群も真近の距離にある。ちなみに樋遣川古墳群の御諸塚古墳は御諸別王の墓といわれ、明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるが、群馬県に6基、栃木や茨城にも同様の伝承のある古墳が存在するらしい。
さらに村君周辺地域は利根川水運の泊り地ともいわれ、鎌倉街道上道・羽根倉道にも通じ、埼玉古墳群方面のルートもあり、北側の古河を含めた下野国、更には奥州まで多方面と関係を結んでいて、何となく意味深い地域と思われる。
江戸時代の文化・文政年間(1804年~1829年)に編集された、武蔵国内22郡の郡村概況を記した地誌で、新編武蔵風土記稿という書物がある。幕府の大学頭で、昌平坂学問所地理局総裁の林述斎(はやしじゅっさい)らが建議し、文化7年(1810)から11年にかけて編纂し, 1828年の成立。勿論歴とした江戸幕府官選の地誌である。
新編武蔵風土記稿・巻之二百十五、埼玉郡之十七)には下村君村(当時)の記述がある。以下の一文だ。
下村君村
鷲明神横沼明神合社
村の鎮守なり、 社地は少く高ふして且古杉繁し、いとものふりたるさまなり、 相伝ふ当所は村君王子と云人の住せし地なれば、後年村名にも唱へ、又其霊を祀りて経江明神と号せしに、後故ありて鷲明神と改め称すといへり、 されど村君王子のこと未だ他に考る処なし、 或説に景行帝五十六年八月、御諸別王に詔して東国を治めさせ給ひし事ありて、樋遣川村三室社は、御諸別王の霊を祀りし社なりと伝ふえば、当村に彼神孫住せしといはんも據なきことにはあらじといへり、(中略)又横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる據をきかず、 例祭十一月上の申日樋遣川村三室社へ神輿を渡し、その時榊に神鏡をかけ、別当馬上にて是を持、 又巫女一人馬に乗て蒸飯一駄を斎せゆくを例となせり、 榊に掛る神鏡の銘によれば、鷲明神と改め称すは近き世よりのことゝ見えたり(中略)
この新編武蔵風土記稿・下村君村の項では、昔村君王子がこの地に住んでいて、そこからこの地域一帯が「村君」という地名となったと謂われ、その人物の死後、「経江明神」として祀ったという。この「明神」とは別名「名神」ともいい、一般的な解釈では、神仏習合説による、神様の尊称であり、少なくとも9世紀ごろには使用されていたという。言葉通り、「神威明らか」という意味で、神の尊称の一つ。文献上は、「日本後紀」弘仁5年9月15日条に豊稔を感謝して「明神」に奉幣したと記述されているのが所見だそうだが、この時期には、「名神」と「明神」が同義として使用されており、独立した号として「明神」が使用されていたようではなかったという。中世以降に成立した吉田神道において、神に対する「明神号」の授与が行われるようになり、近世には吉田家が明神(大明神)号を乱発するに至り、本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した神が増えていき、本来の名称ではなく「鹿島大明神」「香取大明神」等と称されるようになったらしい。
この「大明神」が純粋な敬称であるに対して、単に「明神社」はある説によると、祟り鎮めの神社であるともいう。非業な最後を遂げた人物に対して、為政者側がその鎮魂の意味も込めて祀った社を「明神社」といわれている。有名なところでは、平将門は、平安中期、関東一円に勢力を伸ばしたものの朝廷軍に討たれ、死後、祟りが絶えず、神田明神という名称で祀られているが、この平将門は祟る神として、菅原道真、崇徳上皇とともに象徴的な存在として知られている。怨霊としての現実感とパワーが強ければ強いほど人々は恐れおののき、怨霊を慰め供養し、神として祀ることで、マイナスパワーをプラスに変換させるという、ある意味不思議で曖昧な、ご都合主義的な方法を、時の為政者や民衆は真剣に信じたわけだが、その考え方は、筆者も含めて今の日本人でも今なお受け継がれていると思われる。
「明神社」が祟る神を鎮めるために祀られた社であった場合、この「経江明神」もおのずから鎮魂の社ということになる。新編武蔵風土記稿・鷺明神横沼明神合社の説明書きには、昔村君王子がこの地に住み、死後経江明神として祀られたという。明神として祀られたのであれば、この村君王子は決して往生しておらず、この世に恨みを残して一生を閉じたと思われる。
話は変わるが「明神」が非業な最後を遂げた人物に対して、鎮魂の意味も含め祀った「神」であるが、同じく「若宮」も同様な意味が込められた名称であるという。三省堂 大辞林には「若宮」について以下のように記述されている。
「若宮」
①幼少の皇子。また,皇族の子。
②親神にする御子神とその社。
③非業の死をとげたり人柱になった人間の霊をまつって怒りをやわらげると共に,強力な神の支配下に置いて祟りを封じこめようとした社。
関連性があるのか、村君地区の利根川を越えたすぐ北側には、下野国旧郷社野木神社が鎮座する。その伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、仁徳天皇の命により莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。
この莵道稚郎子命とは、第15代応神天皇の皇太子でありながら、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したといわれている人物だ。但しこの説話は「日本書紀」にのみ記載された説話で、「古事記」では単に夭折と記されていて、この人物もあくまで歴史上実在した人物かどうかも現在の通説では不明な点も多く、ハッキリ言うと解っていない。
応神天皇が薨去し、大鷦鷯尊が即位するまでの間、3年以上もの間皇位を譲り合っていたという。最終的には莵道稚郎子命の自殺(日本書紀による)により、大鷦鷯尊が即位したという潤色じみた話の顛末だが、お互いに譲り合ったのではなく、対立関係にあって、最後は仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されていて、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという見解もあるらしい。また「播磨国風土記」には「宇治天皇の世」という記載があり、この「宇治天皇」は菟道稚郎子を指し、皇位に就いていたという説もある。
記紀の応神天皇没後から仁徳天皇即位までの記述は常識的に考えても(?)と考えてしまう内容で、その他にも矛盾を感じてしまう箇所も見られる。ここではその詳細を論じることはあえて避けるが、素直に読めば、大鷦鷯尊一派と莵道稚郎子命一派が権力闘争を3年以上もかけて繰り返され、最終的に大鷦鷯尊側が勝ちを収めたのだろう。
莵道稚郎子命は宇治地方で王者には君臨していたのだろうが、 大鷦鷯尊側の攻撃で徐々に没落し、戦死したか、攻撃の最中で暗殺されたか、猛攻を受け自害したか、どちらにしても負けたことは間違いない。筆者は莵道稚郎子命は暗殺され、怨霊となり、鎮魂の対象となったと考える。なぜならば
1 莵道稚郎子命の死後即位した仁徳天皇は皇后である磐之媛命の反対を押し切って、莵道稚郎子命の同母妹の八田皇女を妃とした。これは完全な莵道稚郎子命側の和邇氏への懐柔策であり、鎮魂のための政策と考えられる。
2 莵道稚郎子命は万葉集等で別名莵道若郎子命と記述されている。「若」と表記されている本来の意味である「祟る神」を知っている人々が万葉集編集の際にも多数いたのではないだろうか。
ところで、『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されおり、また『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見えるが、問題はそこに登場する奈良君の弟君の名前である。 「真若君」だ。
想像を逞しくすることを敢えて勘弁願いたいが、「村君王子」は死後「経江明神」として祀られた。そしてこの村君地区一帯に伝承される「おかえり神事」を共有する文化圏内にある下野国旧郷社野木神社の御祭神は「莵道稚郎子命」で、別名「莵道若郎子命」とも言われ、「明神」と同じく非業の最期をとげた人物を祀る「若」の宮ともいう。そして野木神社の伝承に登場する「奈良別君」の弟君の名は「真若君」である。
推測でしかないが、永明寺古墳の真の埋葬者は「真若君」、別名「村君王子」であり、何かしらの戦争により戦死、もしくは暗殺され、死後「経江明神」として祀られたのではないだろうか。