石戸宿天神社
荒川の東岸の丘陵に所在し、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城からと松山城、河越城を結ぶ防衛戦の一部を担っていたと思われる。
永禄6年(1563)2月、北条・武田の連合軍が上杉方である松山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。
その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割を終えるようである。
『新編武蔵風土記稿 石戸宿村』
「城蹟 廣さ四町許、今は陸田となりて僅にから堀の跡殘れり、西は荒川を帶び、東より北へ頁りては深田にして、南の一方のみ平地に續けり、元禄十六年地頭牧野某檢して高入の地となれり、昔天神山の城と唱へ、扇谷上杉氏の家人八右衛門と云人居りし所なりといへり」
「石戸城跡」案内板
現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。この石戸城跡は昭和44年10月1日、埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
石戸城南方にほぼ隣接して鎮座している石戸宿天神社の創建年代等は不詳ながら、石戸城の鎮守として祀られたのではないかとも推定され、江戸期に石戸宿村の鎮守として創祀したともいう。
・所在地 埼玉県北本市石戸宿6-64
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧石戸宿村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭 2月25日 お日待 10月第2日曜日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0075752,139.502544,17z?hl=ja&entry=ttu
高尾氷川神社・荒井須賀神社から一旦道なりに南下、埼玉県道33号東松山桶川線に合流し、その県道を荒川方向に400m程西行すると、Y字路に達するので、そこを左方向に進行する。通称「桜堤通り」と呼ばれる道路を1.5㎞程進んでいくと、進行方向右手に石戸宿天神社の鳥居が見えてくる。
石戸宿天神社南方には「放光寺」が隣接しており、道路沿いには専用駐車場もあるので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
石戸宿天神社正面
社の南側で駐車場近くには「石戸宿の宿並と御茶屋(御殿)跡周辺の文化財」の案内板が目につき、暫しの時間この案内板を読みながら想像を逞しくした。
北本市は、古くは荒川、江川、赤堀川等の川沿いにひらけ、中でも、石戸宿を中心とした荒川ぞいの開発は早かったようだ。その荒川に沿って鎌倉街道といわれる古い道が、南北に通っている。鎌倉街道とは江戸時代につけられた名称で、镰倉時代に幕府が各地に散在する地頭(じとう)・御家人等を鎌倉へ参集させるために整備した道路で、南北朝時代以降も鎌倉府があったため、その機能は存続していた。この街道は「上道」・「中道」を幹線道路とし、その他多くの脇街道からなっていた。
この鎌倉街道沿った石戸地域は長い豊かな歴史をもっている。鎌倉時代の武士の館も存在し、館の主は源範頼とも、石戸氏とも伝えられている。
『新編武蔵風土記稿 石戸宿村』
「土人の傳へに村内小名堀ノ内は、往古石戸左衛門尉の住せし地なりと、左衛門尉は【東鑑】に見へたる人なれば、此に住せしならんには在名を氏とせしものにて、舊き地名なること知らる、
阿彌陀堂
小名堀ノ内にあり、相傳へて此地蒲冠者範頼の住居の地とも、又石戸左衛門尉の居跡なりともいへり、縁起の略云源範頼故ありて當国石戸鄕に配流せられ、土俗これを石戸殿と稱せり。然るに其息女龜御前病に罹りて、正治元年七月十二日卒しければ、黄葉妙秋大姉と謚し、追福のために法譽和尚を請して一宇を創建し、西龜山無量院東向寺と呼ぶ、則此堂なりと」
石戸宿天神社 正面鳥居
『埼玉苗字辞典』による急足立郡に土着していた豪族である石戸氏の素性は、ハッキリとは分からないが、大体3系統に分類されているようだ。
〇秩父氏流豊島氏族石戸氏
小野氏系図に「横山権守時広(右大将家討取奥州泰衡、其首時広承之)―女子(豊島五郎妻、石戸三郎母也)」
〇源範頼後裔石戸氏…上記『新編武蔵風土記稿 石戸宿』参照
〇安達氏族関戸氏
石戸をセキドと訓じて、関戸の字を用いていたのであろうか。安達氏系図「安達藤九郎盛長―秋田城介左衛門尉景盛―秋田城介義景―頼景(関戸二郎、丹後守。在京)―右衛門尉長宗―八郎義宗」
玄同放言(滝沢馬琴著)
「武蔵国足立郡石戸荘堀之内村、彼堀内村を、当初足立氏の所領なりけんと思ふよしは、東鑑に所見あり。卷四十三に建長四年七月四日午刻、秋田城介義景妻・女子平産云々、号堀内殿是也といへり。義景は安達盛長の孫なり」関戸(石戸)二郎頼景も堀内殿の子であり、堀之内村で出生したのであろうか。
拝 殿
源範頼は、平安末期から鎌倉初期の武将で、義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた。頼朝挙兵に参じ、弟義経とともに西上して、義仲や平氏追討の一方の将となった。のち建久4年(1193)曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ,伊豆修善寺(異説もある)で幽殺されたという。
但し、範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、「吉見御所」と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。
ところで当地石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には、範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼自らが植えたとされている、範頼の別名「蒲冠者」に由来する「蒲ザクラ」は大正期に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている源範頼伝説の内容に関して編者は、吉見地域には「範頼の男阿闍梨範國當國に居し事見ゆ、元より吉見氏は横見郡吉見に住せし人なるべければ、此邊も彼吉見氏の所領にして、後年子孫のもの彼が追福の爲に建し塔なるもしるべからず」と、範頼の子孫である吉見氏が代々範頼を弔っていることへ、一定の理解を示して記載されているに対して、石戸宿地域には「當所を範頼が葬地と云は妄誕なること勿論なり」と意外と冷たく論じている一方、石戸宿地域も吉見領の一部との認識しているため、同じく範頼を弔うために「五輪塔」を建てたことは『新編武蔵風土記稿』に記されている。
因みに「蒲ザクラ」は風土記稿編集時も大変珍しかったようで、「さはあれ珍しき老櫻なり」と一文が載せてある。
社殿奥に聳え立つ「ムク」のご神木(写真左・右)
保護樹木指定標識 指定番号 第17号
指定年月日 平成5年12月1日
ご神木の右側に鎮座する境内社・石祠群 拝殿右側にある神興庫等
左側2番目の石祠には「三峰神社」の木札あり
この神興庫の中には、毎年10月の例祭事に奉納される「ささら獅子舞」の御物もおさめられているのであろうか。
「天神社ささら獅子舞」の案内板
北本市指定無形の民俗文化財 天神社ささら獅子舞
昭和五十四年三月十五日 指定
獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り、発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子(関東では、このような三頭だてが多くみられる。)が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラなどの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。
獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけずり、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて鳴らす楽器の名から出たものである。
市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、昭和五十三年に復活した。
獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。
昭和五十五年十月 北本市教育委員会
案内板より引用
境内に設置されている社の案内板(写真左・右)
「石戸宿と天神社」 所在地 北本市大字石戸宿
石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回、市が立り賑わっていた。
街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の中央に排水溝が設けられていたという。
天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ、祭神は菅原道真である。
祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。
昭和六十一年三月 埼玉県・北本市
天神社 御由緒 北本市石戸宿六-六四
□御縁起(歴史)
荒川の東岸沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いたとも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神山城とも呼ばれていた。
太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請(註:三芳野神社に合祀されている)したことを考え合わせると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られていたとされるので、城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってきた」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字)奉改社地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(一七八三)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在宜範」と記されている。
また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(一七五三)の造立である。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(一七五九)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記されている(以下略)
鳥居右側にある「ムクの木」
市指定天然記念物 昭和53年3月15日指定
樹齢600年以上 高さ20m 目どおり375cm 根まわり524cm
社殿から境内への一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブス」
「朝日日本歴史人物事典」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」
「境内案内板」等