六万部愛宕神社
・所在地 埼玉県久喜市六万部602
・ご祭神 迦具土命
・社 格 旧六万部村谷田向鎮守
・例祭等 お獅子様 4月26日 例大祭 8月23日 注連縄飾 12月30日
北中曽根愛宕山神社・金山神社・六万部大神宮社と参拝を終え、更に埼玉県道12号川越栗橋線を東北自動車道方向に東行し、「仁丁町通り」と交わる変則的な五叉路を左折すると、すぐ右手に六万部愛宕神社の境内一帯が見えてくる。県道を曲がればすぐ境内地となるにも関わらず、道路沿いにない事、また民家が社を隠しているため、目立たない場所に社は存在しているのだが、実際現地に足を踏み入れると、地域の鎮守様としての風格は十分に漂っている。
六万部愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』による 「六万部村」の解説
所久喜村の北にあり、北は辻村(現加須市)、新川用水を境に水深村(現加須市)・中妻村(現鷲宮町)。村の北西端の地は関ノ上、南部は仁丁(にちよう)町とよばれている。仁丁町の西部に上清久(かみきよく)村の飛地がある。村名は、当所に法華塚があり六万部の供養塔があったことによると伝える(風土記稿)。騎西領に所属。慶安四年(一六五一)に上清久村から三〇余軒の民家が移り一村をなしたといい(同書)、元禄郷帳に上清久村枝郷と注記がある。
参道、及び境内の様子
写真左側に見えるのが社務所。年間行事の直会などの会場として社務所が現在使われているが、嘗ては社の東側に隣接する飯島家がその会場であったという。
白い両部鳥居の先に見える鬱蒼とした林の中央部にハッキリと石段があり、古墳とも丘ともいえるその頂上部には小さく社が見える(写真左)。また石段手前で、左側には境内社・稲荷神社が祀られていて、そこから離れていない石段入口左側には力石もある(同右)。
拝 殿
愛宕神社 久喜市六万部六〇二(六万部字谷田向)
六万部は、かつての利根川の乱流地帯に残された台地上の村である。東に接する上清久村の一部であったが、慶安四年(一六五一)に、上清久村の三〇余戸がこの地に移住して枝郷となり、元禄期(一六八八〜一七〇四)以降、独立して別村となった。このうち当社が鎮座する谷田向は、この地の北側で、台地に大きく切れ込んだ谷田に面していることに由来する名である。
当社の創建時期を明確に示す資料は発見されていないが、(中略)当社は、慶安四年をいくらか下った時期に創建されたと思われる。なお、『風土記稿』六万部村の項に当社と六所明神社・神明社・住吉社の四社は、共に村民の持で村内の鎮守と記されている。
当社の東に隣接する飯島家は、右の口碑の家であるが、地租改正後に当社のやや南方からこの地に居を移したものである。そこには明治三年まで羽黒行人派の愛宕山万福寺という修験の寺があった。万福寺は立地や山号から見て、往時は別当を務めていたようである。飯島家では万福寺の廃寺後は本尊を引き継いで祀っていたが、後に香最寺へ納めた。この経緯と同家屋号を「ワタゴノウチ」ということから、江戸期の当社が「村民の持」とあるのは、同家ではないかと思われる。
「埼玉の神社」より引用
丘上の社殿から見る境内の様子
当社の祭神は迦具土命で、氏子からは谷田向の鎮守神としてだけでなく、鎮火・防火に御利益のある神として信仰されている。また、社の氏子区域は、六万部の字谷田向全域である。
本殿には迦具土命の本地仏である騎乗の勝軍地蔵像と地蔵菩薩立像が奉安されているが、共に年紀等の銘はない。社殿は、六メートル程の塚上に建てられており、この塚は、境内の西脇を流れる新堀という用水を江戸時代に開削した時に、掘り上げた泥を積み上げて築いたという。ちなみに新堀の開削時期は、周辺の用水整備の記録から十八世紀後半と見られている。なお、この塚は愛宕の本社で修験道場であった。京都の愛宕山に見立てていることから、その築造には万福寺の関与がうかがえる。
境内に聳え立つイチョウの大木
久喜市の保存樹木に指定されている。
参考資料「新編虫風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等