古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柴山枝郷丸谷稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町柴山枝郷1679
            
・ご祭神 稲荷神(推定)
            
・社 格 旧柴山枝郷丸谷鎮守・旧無格社
            
・例祭等 初午祭 2月初午 春祭り 421日 灯籠 721
 柴山枝郷神ノ木稲荷神社から埼玉県道5号さいたま菖蒲線を600m程北上し、丁字路を左折すると、進行方向左手に柴山枝郷丸谷稲荷神社がすぐ見えてくる。
 当社の社殿は、不思議とことに北向きとなっている。「埼玉の神社」によれば、社が集落の南端に位置し、社殿を北向きにすることにより神様が氏子の村全体を見渡せ、氏子を守ってくれるようにと願った祖先の気持ちを感じ取ることができるとの事であった。
        
                
柴山枝郷丸谷稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「柴山村枝郷」の解説
 上大崎村の西に位置する。南は元荒川を隔てて高虫村(現蓮田市)。北東を見沼代用水が流れ、野通(やどおり)川が中央を貫流、このほか栢間赤(かやまあか)堀、栢間堀(現隼人堀川)が流れる。寛永二年(一六二五)検地された小名丸谷・神の木・小塚などが、安政二年(一八五五)に柴山村(現白岡町)から分離・独立して柴山枝郷と丸谷村が成立した(郡村誌)。
「風土記稿」によると元禄年中改定図に柴山村のうち丸屋村と載り、柴山村の小名として扱われているが、領主の旗本稲生氏は丸谷村を柴山枝郷と称したという。
        
                   境内の様子
 かつて安政2年1855)、柴山村の丸谷・神ノ木・小塚などの小名は、本村から分かれて丸谷村と柴山枝郷になったのだが、丸谷については元禄国絵図に「柴山村の内丸谷村」と載るように早くから本村とは独立した村政が行われていたようである。丸谷村は、明治2年に柴山枝郷と合併し、更に数次の合併を経て、昭和29年に菖蒲町の一部となるのだが、昔から今に至るも、丸谷の地内が氏子区域であることに変わりはない。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  菖蒲町柴山枝郷一六七九(柴山枝郷字丸谷)
『風土記稿』柴山村の項を見ると、村内の神社について「諏訪八幡合社 村の鎮守なり、正泉寺持、〇稲荷社二宇 一は正泉寺一は竜蔵院の持」との記述がある。ここに記された竜蔵院持ちの稲荷社が当社のことであり、柴山の小名の丸谷の人々によって祀られてきた神社である。ちなみに、別当寺の竜蔵院は真言宗の寺院であったが、神仏分離によって廃寺になり、現在はその遺構は何も残っていない。
 本殿には、狐に乗った稲荷大明神の木像が安置されており、右手に鎌を持ち、左手に稲把(いなたば)を担いだその姿は、当社が農業の神として祀られてきたことを示している。
江戸時代の丸谷は、柴山村の小名の一つであったが、枝村として本村とは独立して村政が行われていたようである。手水石の「奉納文政三年(一八二〇)二月五日立之 丸谷村中」、幟立の「丸谷村氏子中 弘化三年丙午
(一八四六)といった奉納銘の「丸谷村」の文字は、そうした状況を示したものといえよう。したがって、氏子の間では、当社は「丸谷村の鎮守」として意識されており、それゆえ旧社格は無格社であったが、合祀の対象とされることはなかった。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                                  境内の一風景
 現在、氏子は約六〇戸あり、いずれも丸谷に古くからある家かその分家で、稲作のほかに地域の特産品である梨や苺を栽培する農家が多い。
 今日では、農業の機械化が進み、科学の発達により虫害や病気の恐れもなくなり、収穫は当然のことのように感じられるようになった。しかし、戦前は、収穫とは様々な労苦と神の御加護によって得られるものであり、新米が取れた時の喜びは格別なものであった。毎年十二月の始めに行われていた「お斎」は、こうした収穫を祝う行事であり、この日には婦人が各戸から新米を集めて五目飯を炊き、宗源寺で夕食を一緒に食べたものであったが、昭和三十年ごろには途絶えたという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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