大崎神社
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれる。
『日本書紀』のシナトベは女神とされることもあり、神社によってはシナツヒコの姉または妻とされている。本居宣長の『古事記伝』では、賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。
ところで、『新編武蔵風土記稿 上大崎村』には「神倉龍蔵権現社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、十一面観音・愛染の二像を本地仏とす、金剛院持」とあるように、本来は別当である金剛院の寺号が「神倉山竜蔵寺」というところから、この寺との関わりも強いと思われ、本地仏である「十一面観音 愛染明王」が祀る対象であったものから、明治時代初期の神仏分離によって、級長津彦命・級長戸辺命の二柱に祭神が変わったものではないかと思われる。
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町上大崎194
・ご祭神 級長津彦命 級長戸辺命
・社 格 旧上大崎村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭礼 3月26日 大祓 6月26日・12月26日
天王様 7月26日 初穂奉納 11月15日
久喜市菖蒲町大崎地域は、同市内においては南西部に位置しており、柴山枝郷地域の東側に接していている。この地域は見沼大用水の東側は雄大な農地が広がっているが、この地域内にある久喜市立菖蒲中学校から南東方向に通じる道路を境として、その東側一帯には住宅等も見られる。
途中までの経路は柴山枝郷神ノ木稲荷神社を参照。圏央道の下を通る道路を東方向に800m程進んだ先のY字路を左斜め方向に進路変更し、450m先の十字路を左折、暫く道なりに進むと、大崎神社が進路上左手に見えてくる。但し、このルートは社の後ろ側であるため、正面の鳥居にたどり着くために、一旦左回りに迂回する必要がある。
社の境内のすぐ東側にはかつての別当である金剛院の墓地があり、その間に駐車可能な空間が確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を開始した。
大崎神社正面
『日本歴史地名大系』「上大崎村」の解説
星川の右岸で、台(だい)村の西側に位置する。菖蒲領に属するが、古くは騎西領という(風土記稿)。当村はもと大崎村という大村であったが、慶長一二年(一六〇七)荒井新田村(現白岡町)を分立、次いで元禄(一六八八―一七〇四)以前に上・下二村に分村した。
寛永八年(一六三一)板倉重宗の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば大崎村の高七二二石余、反別は田方六九町六反余・畑方九九町二反余、幕府領と旗本二家の相給。元禄郷帳に上大崎村とみえ高四二二石余、旗本二家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。
大崎神社正面鳥居の南方にある樹木群
社殿から正面鳥居、そしてその南方に伸びる道は一直線に伸びている。かつての参道ではなかったろうか。境内には「久喜市指定保存樹林」の標識もあり、指定区域も「大崎神社境内及び参道」、指定年度は「平成2年度」と表記されている。
境内は広々としてすっきりと整えられている。
東側に隣接している金剛院は嘗て別当として社を管理していたのだが、
今は社の方が敷地面旌旗は広そうである。
参道左側に並べて置いてある力石群
力石の並びに祀られている境内社・石祠等
左から稲荷神社・石祠(不明)・石碑(不明)・庚申様・三峰神社・神興庫
「柴山枝郷神ノ木稲荷神社」の項に載せたのだが、この社の創建について氏子の間では、「この稲荷神社は上大崎から来た」と伝えられている。大崎神社に祀られている稲荷神社と何か関連はあるのであろうか。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大崎村』
神倉龍藏權現社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、十一面觀音・藍染のニ像を本地佛とす、金剛院持、
金剛院 新義眞言宗、戶ヶ崎村吉祥院末、神倉山龍藏寺と號す、本尊不動を置り、藥師堂
大崎神社 菖蒲町上大崎一九四(上大崎字中手城)
上大崎はもと大崎村という大村であったが、慶長十二年(一六〇七)に荒井新田村(現白岡市)に分立し、次いで元禄年間(一六八八〜一七〇四)以前に上下二村に分村した。
当社は、『風土記稿』上大崎村の項に「元来は神倉龍蔵権現社と称していた。この社名の由来や当社の創始については伝えがないが、別当であった金剛院の山号寺号を神倉山竜蔵寺というところから、同寺とのかかわりが極めて大きかったものと思われる。この金剛院は、当社の東に隣接する真言宗の寺院で、寺伝に「当所地頭の南条某の姫君帰依深く、剃髪して祖先菩提供養のために建立したもの」といわれている。その本尊は不動で、法印墓地には寛延二年(一七四九)以来の一一基の墓石がある。恐らくは、当社と金剛院に同時期に草創されたものであろう。
神仏分離により金剛院の管理を離れた当社は、竜蔵神社と改称し、明治六年に村社となった。その後、昭和十九年に大崎神社と再度改称して現在に至っている。
祭神は級長津彦命・級長戸辺命の二柱で、『風土記稿』に伝えられる本地仏の十一面観音と愛染明王は既になく、二間社の各々には宗源祝詞を納めた唐櫃二つが安置されている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
本 殿 本殿の奥に立つ小ぶりな鳥居
大崎神社社殿の東側に鎮座する秋葉神社
今は冬時期で水は抜かれてしまっているようだ。
上大崎地域全体が当社の氏子になっていて、現在その数は一五五戸程であり、このうち一一〇戸が古くからの住民で現在も農業が主体となって生計を立てている。上大崎地域は、『新編武蔵風土記稿』にも記載がある小名上・中・下が現在も続いて存続し、各耕地となり分かれていて、各耕地から一名ずつ総代が選出され、神社運営に当たっている。また、各耕地は更に五、六の廓(くるわ)に分かれ、各廓から一名ずつ年番が出て祭事の世話をするという。
境内の一風景
毎年4月3日には「お獅子様」が行われるのだが、これは旧騎西町の玉敷神社からお獅子様を借りて行う疫病除けの行事で、嘗ては氏子の家々の座敷に獅子が上がり込み、土足のまま走り抜けていき、そのあとの掃除が大変であったという。そのためか、座敷に上がり込むのはやめて、家の外でお獅子様を迎えるようになった。また、お獅子様には太刀を持った天狗がついて回り、各家で迎えている人にお祓いをして行くという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等