古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柴山枝郷八雲社

「栢間赤堀(かやまあかほり)」は、埼玉県久喜市菖蒲区域を流れる河川で、菖蒲町小林の北西部を起点として、菖蒲町下栢間を横断し、菖蒲町柴山枝郷で元荒川に合流していて、ほぼ全域水田などの農地の中を流下する。栢間赤堀という名称は、元荒川を挟んだ鴻巣市・桶川市側に「赤堀川」(あかほりかわ)という別の河川が流下しているために、その河川と栢間を流下する赤堀とを区別をするため「栢間」という言葉を冠し、「栢間赤堀」と称されている。このため栢間赤堀は赤堀(あかほり)とも称されている。
 栢間赤堀は起点から菖蒲町下栢間付近までは南東方向に流下しているのだが、その後、東北東へと変え、菖蒲町柴山枝郷西南端部に入り、南西方より流下してくる元荒川左岸に合流し、終点となる。
 嘗ては菖蒲町下栢間・菖蒲町柴山枝郷流域の北側・北方には栢間沼と呼ばれる広大な湿地が存在しており、掘り上げ田(ホッツケ)などによる農業・稲作が営われていたが、現在ではこれらの掘り上げ田は圃場整備や農地改良を経て通常の水田などになっているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町柴山枝郷77
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧無格社
             ・例祭等 春の祭礼 315日 天王様 715日 お日待 1015
 下栢間諏訪神社から埼玉県道77号行田蓮田線を南方向に650m程進行する。途中、「圏央道(首都圏中央連絡自動車道)」を潜るように進み、最初の丁字路を左折し、そのまま北東方向に1.7㎞達した栢間赤堀に架かる一本木橋を越えた最初の丁字路を再度左折すると、柴山枝郷八雲社の社殿が遠目からポツンと見えてくる。
        
                  柴山枝郷八雲社
    社の両側は農道が走り、境内といえる敷地は社殿とその周囲のみの一見簡素な配置。
       「埼玉の神社」にも「境内も五〇坪程度の小社」と記載されている。

 但し、社殿左側には「八雲神社の山車」を納めている母屋もあるし、社の南側には社号標柱や、手水舎も設置されている。小社でありながら、明治末期に政府の合祀政策が推進された際も、他の社に合祀されることなく現在に至っていることは、それだけ地域住民の方々の信仰心が厚かったことの表れなのであろう。
 
     社殿の南側にある手水舎。       社殿の南側で道路脇に立つ社号標柱
      すぐ傍らに力石がある。
       
                                      拝 殿
 八雲神社(てんのうさま)  菖蒲町柴山枝郷七七(柴山枝郷字小塚)
 柴山枝郷は、柴山村の新田として開発され、寛永二年(一六二五)に検地された小名丸谷・神ノ木・小塚などが、安永二年(一八五五)に柴山村から分離・独立して柴山枝郷と丸谷村が成立した。明治二年に丸谷村を合併し、同二十二年には栢間村の大字となり、昭和二十九年には町村合併により菖蒲町の大字となった。
 当社は、柴山枝郷の中にある村組の一つである小塚の人々が祀ってきた神社であり、通称を「小塚の天王様」という。創建の時期は定かではないが、氏子の間には「神社の祭典でたたいている太鼓は、天保のころ(一八三〇〜四四)に大宮市木下から小塚の有山善倫家に婿養子に来た惣五郎という人が教えたものである」との言い伝えがある事から、その当時、既に当社が現在のような形で祀られていたことが推測できる。
 したがって、当社は、柴山村の新田として開発された小塚が、次第に発展し、村落としての形を整えていく中で、組の鎮守として創建された社であったと思われ、氏子の間には、「皿沼の新田開発が成功したのを記念し、地域の人々は寄附を集めて社殿を建立した」との伝えもある。旧社格は無格社で、境内も五〇坪程度の小社であるが、住民の厚い信仰があったことから、明治末期に政府の合祀政策が推進された際も合祀されることなく、現在に至っている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                         「八雲神社の山車一基」の案内板
 久喜市指定有形民俗文化財
 八雲神社の山車一基
 指定年月日  平成六年三月三十一日
 所在地   久喜市菖蒲町柴山枝郷七七
 所有者   ハ雲神社
 八雲神社は、『武蔵国郡村誌』によると「平社々地東西四間南北十二間六寸面積四十八坪 村の西南にあり素戔嗚尊を祭る 祭日陰暦六月十五日」とあります。
 村の古老の話に、八雲神社は「江戸時代新田開発の成功を記念し、素戔嗚尊を祭神として祭り、山車もこの頃に作られた。」とあります。
 この山車は、四つ車で囃子座と人形座からなり、唐破風屋根の上に人形座をのせる形式です。囃子座は床上高欄付で本体より左右に広く作られており、人形座との境は鞍馬山の牛若丸を彫刻した四枚の羽目板で仕切られています。左右の脇障子は昇り竜・降り竜の彫刻で飾られています。
 正面の鬼板は奇稲田姫・素戔嗚尊・酒甕、懸魚と妻飾・向拝柱は昇・降の竜などが配され、八雲神社の祭神である素戔嗚尊の故事にならった彫刻で飾られています。これらの彫刻は篠津(白岡町)の彫工立川音芳氏の手になるものです。裏面は鬼板が鶴・懸魚が亀の瑞兆彫刻で、立川氏をして「良いものだ」といわしめたという話が残っており、当初からあった彫刻と思われます。
 腰水引の幕は流水とアヤメを白抜きにあしらった図柄で、本藍染の作品です。人形座は唐破風屋根に穴を穿ち、一本柱を立て先端に床上高欄を設け、烏帽子を被った楠木正成の人形が見下ろす形に設定されています。人形座下の三重幕は緋色で、正面には「御祭壇」という文字、左右には巴文様が描かれています。
 二重幕は左右・後ろの三方を囲むように装着され、紋様は紺色の羅紗地に刺繍で、竹林に虎が配されたものです。
 山車の梁には明治十二年の年号があり、また二重幕の裏には明治十三年辰年六月十五日、小塚氏子中」の墨書が見られることから、 山車の製作年代はこの頃と考えられます。
 腰水引の幕は、平成六年三月、山車の町指定記念に新調されました。製作は埼玉県指定無形文化財・武州藍染の伝統技術保持者である中島安夫氏です。
 平成九年三月十五日 久喜市教育委員会
                                      案内板より引用

 年間の祭りの中で最もにぎわうのが、天王様である。天王様の祭日は715日(近年はこれに近い日曜日)であるが、その準備は7月に入るとすぐに始まる。まず72日を「天王様始め」といい、この日には拝殿に役員が集まり、当年の祭りの内容について相談する。ここで決まったことに基づき準備が進められ、78日の「中日」には山車を出して組み立てる。
 嘗ては、祭例当日の午後から祭典が行われ、これが終わると囃子連を乗せた山車の引き回しが始まり、神社を出発して小塚を一巡した後、白岡の街の方まで行った。特に、小川橋から高虫橋の辺りは最も人出があり、にぎわった。その後は、山車の曳き手不足や電話線の架設により通行困難な場所が増えてきたことにより、曳き回しは中止となり、現在は、境内に据え置くだけとなった。
 また、当日には、氏子有志による囃子連が、朝から夕方まで境内で囃子を演奏する。当地の囃子は、大太鼓一名・小太鼓二名・笛一名・鉦一名の計五明で構成され、「古囃子」といってテンポが早く、にぎやかな曲調が特徴である。今でも後継者育成のため、現地の小学生に定期的に教えており、伝統ある囃子の継承と技術の向上に励んでいるという。何とも素晴らしい地域の伝統行事であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「案内板」等

          
      
 

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