古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下栢間諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町下栢間2118
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭 419日 献燎祭 826日 感謝祭 1223
 上栢間地域に鎮座している神明神社の正面鳥居から東方向に進み、すぐ先に丁字路を右折し、南東方向に伸びるこの道路を600m程進むと、進行方向左手に下栢間諏訪神社が見えてくる。丁度、久喜市立栢間小学校の向かい側にある。この久喜市菖蒲町上・下栢間は、元荒川左岸の台地とそれに続く低地上に位置し、素晴らしい農村風景と豊かな自然が残っている地域でもある。
        
                 下栢間諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「栢間郷」の解説
 野与党栢間氏の本貫地。栢間氏は野与基永の孫六郎弘光が栢間郷に住して称した。「萱間」とも記す(「野与党系図」諸家系図纂)。同氏は将軍上洛の供奉、武蔵野開発奉行人などのほか、的始めの射手として同季忠・行泰が「吾妻鏡」にみえるが、南北朝時代以後その動向は知られていない。康暦三年(一三八一)四月一三日の足利氏満御教書写(風土記稿)に「埼西郡栢間郷内笠原村榑井」とみえ、鳩井義景は買得した同地にある在家・田畠三町三反の安堵を求め、鎌倉公方足利氏満は鬼窪某に事実関係を調査させている。
        
                   境内の様子     
    境内は決して広くはないが、手入れも良く、行き届いていて気持ちよく参拝できた。

 平安時代末頃から各地で武士が勢力を強めていく中、武蔵国では「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活躍していた。武蔵七党の数え方には諸説ありますが、『武蔵七党系図』では横山党・猪俣(いのまた)党・野与(のよ)党・村山党・西党・児玉党・丹(たん)党の七党とされている。
 この内、古利根川と元荒川の間を活動の拠点としていたと考えられている野与党の系譜には、「鬼窪(おにくぼ)」「白岡」「笠原」などとともに、「萱間(かやま)」という一族も確認できている。この一族は「栢間」とも表記され、現在の久喜市の栢間地区を拠点に活動していたと考えられている。
 栢間(萱間)氏の名前は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』にも登場し、『武蔵七党系図』に出てくる名前でも確認できる。また、正元2年(1260)正月に鎌倉で行われた幕府の弓始(ゆみはじめ)の行事で、栢間左衛門次郎季忠(ときただ)が優れた弓の腕前を披露したことが書かれている等、栢間氏が鎌倉幕府の御家人であったことがわかっている。
『新編武蔵風土記稿 栢間村附持添新田』
「當國七黨の内野與黨の系圖に、野與小太郎行基の三男を、萱間六郎弘光と云。其子季平其男太郎季重を始とし、萱間氏の者數輩見えたり。今栢間と書て、唱にはかやまと呼べり。されば文字は違へど、同じく此地名に依りて唱へしにや。又【東鑑】にも萱間左衛門次郎季忠或は栢間左衛門次郎行泰と云人見ゆ世を以て推に正嘉頃の人なり、其内左衛門次郎行泰は、既に七數系圖にも見えたれば、栢間の名古きこと疑なし」
『吾妻鑑卷四十』
「建長二年(
1250)三月一日、栢間左衛門入道」
『 同 卷四十八』
「正嘉二年(
1258)正月六日、御的の始めの射手の事内々に人数を定めらる 萱間左衛門二郎」
『 同 卷四十九』
「正元二年(
1260)正月十二日、浜に於て御的射手の試しあり(中略)射手六番目に栢間左衛門尉二郎」
「正元二年(1260)正月十四日、今日弓始也、(中略) 六番 栢間左衛門二郎季忠」
『 同 卷五十二』
「文永二年(
1265
)正月十二日、御弓始あり、射手 三番 栢間左衛門二郎行泰」
  一方、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』の栢間村の記述から、室町時代の康暦3年(1381)には、栢間の土地を鳩井(はとい)氏が支配していたことがわかる。また、栢間尋常小学校の建設を記念して明治45年(1912)に建てられた『紀功之碑(きこうのひ)』にも、当所が武蔵七党の一族野与小太郎行基の三男の萱間六郎弘光が開発した城址で、その後鳩井三郎義景に伝わったことが刻まれている。
 栢間氏が栢間地域を支配していた期間は長くはなかったようであるが、現在も栢間の地名と共に、栢間の歴史を語る中で生き続けているといえよう。
 
         手水舎                境内南側にある神楽殿
         
                              拝 殿
 諏訪神社  菖蒲町下栢間二一一八(下栢間字在家)
 当社の鎮座する下栢山は、菖蒲町の南西に位置し、南東は元荒川を挟んで蓮田市に接し、南西は桶川市に隣接している。
 当地の開発は古く、「栢間七塚」と通称される栢間古墳群の存在から、六世紀中ごろまでさかのぼることができ、また、奈良・平安期の集落跡も発掘されている。更に、平安末期から南北朝期まで、武蔵七党と呼ばれる武士団の一つ、野与党の栢間氏が、その本貫地としていた。
 天正十八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国した折、累代の御家人である内藤四郎左衛門正成に当地を与えた。正成は、当地の西部に陣屋を構えた。口碑によると、その敷地内に氏神として、諏訪神社と稲荷神社の二社を祀ったとされ、このうちの諏訪神社が当社であるという。なお、稲荷神社は、現在も仲道地区に祀られている。また、内藤家は、寛永二年(一六二五)に江戸詰めとなり、陣屋には家人を常駐させていた。しかし、この陣屋は明治維新の際に廃されて、神社のみが残された。
 現在の本殿は、内藤家の管理していた山林から伐採した木材で建てられたと伝えられる。この本殿は、明治三十八年に改築修理されている。
 その後、昭和十八年に神楽殿が新築され、同六十年には下栢間集会場が建てられて現在に至っている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある扁額        神楽殿の隣に祀られている境内社・三峯社

 内藤 正成(ないとう まさなり)は、戦国時代の武将で、徳川氏の家臣。享禄元年(1528年)、内藤清長の弟・内藤甚五左衛門忠郷の次男として生まれる。はじめは伯父の清長に仕えたが、やがて松平広忠の家臣となり、その死後は徳川家康に近侍として仕えた。
 正成は武勇に優れ、特に弓矢の腕に関しては並ぶ者なしだったと言われている。松平広忠に仕えることができたのも、その弓の腕を広忠に見込まれたためとも言われる説があるほどで、その武勇から徳川十六神将の一人として数えられている。三河一向一揆、三方ヶ原の戦いでは、長男を失いながらも奮戦し、高天神城攻城戦でも、敵方武田軍からもその射力を恐れられたほどの強弓の武功者であった。
 天正18年(1590年)家康が関東に移ったとき、三河国幡豆郡700石の知行から、武蔵国埼玉郡栢間村、戸ヶ崎村、新堀村、三箇村、小林村などに5000石を与えられ、栢間陣屋(現在の菖蒲町下栢間の栢間小学校付近。1万坪を超える敷地だった)を構える。
 関ケ原の戦い後、病に倒れ、徳川秀忠が医師久志本左京亮常衡を差し向けたが、治療の甲斐なく、慶長7年(1602年)412日に死去。享年75。
 口碑によると、栢間村西部に陣屋を構えた際に、その敷地内に氏神として、諏訪神社と稲荷神社の二社を祀ったとされ、このうちの諏訪神社が当社であるという。
        
                   境内の様子
当社で行われる4月19日の春の祭礼は 豊作を祈願する祭りで、例祭でもある。嘗ては境内の神楽殿で神楽を奉納していたが、伝承者が絶えてしまったため、昭和30年代に中止となっているという。
 8月26日に行われる献燎祭は、灯籠祭とも呼ばれる。この名称は、境内の周りに繩を巡らし、行灯をつり下げて、夕刻の参拝者を迎えていたことにちなむが、昭和35年頃に廃され、祭典名に名残を留めるのみとなっている。翌日27日には「カマトッケー」が行われる。これは、拝殿内の籠の中に積んである木製の鎌を借りてきて、自宅の神棚に上げて願をかけるものである。願いが叶うと新しい鎌を作り、借りた倍の数にして返却する。昔は盛んな行事であったというが、現在参加しているのは、数名という。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」「Wikipedia」等
 

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