高柳新田八幡神社
・所在地 埼玉県久喜市高柳204-1
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧無格社
・例祭等 元旦祭 祭礼 4月15日 お日待 10月15日
島川八幡神社から北東に伸びた道を道なりに進み、「稲荷木落排水路(とうかきおとしはいすいろ)」に架かる八幡橋を越えた民家が点在する集落西端部に高柳新田八幡神社は鎮座している。境内には高柳新田会館あり、駐車スペースは確保されている。
因みに稲荷木落排水路は、埼玉県加須市と久喜市を流れる河川・排水路であり、稲荷木堀(とうかきぼり)とも称され、高柳地域のほぼ中央部を流下している。久喜市松永(左岸側:東側)周辺では古堤と呼ばれていて、嘗ての利根川の旧流路のひとつ浅間川の堤防が残っている。この堤防は自然堤防に盛土をして建設されたと云われており、堤防上は鎌倉古道であったと伝わっている。
塚上に鎮座する高柳新田八幡神社
『日本歴史地名大系』 「高柳新田」の解説
旧葛飾郡に所属していた高柳村は佐間村の南西にあり、村の北西を古利根川、南を島川が流れ、島川沿いに堤敷一一間の島中囲堤がある。日光御廻(おまわり)道が通る。中世初期から開発が進み、高柳郷が成立していた。高柳新田は高柳村の枝村であったのだが、この両地域との位置関係はつまびらかではなく、「風土記稿」によれば、「四方ノ地形犬牙シテ分チカタシ」とし、元和六年(一六二〇)の開発により高柳村より分村したという。田園簿に村名がみえ、田高三七石余・畑高一〇〇石余で、幕府領。領主の変遷は高柳村と同様。元禄郷帳・天保郷帳では高一五〇石余であるが、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などには記載がなく、幕末頃までに高柳村に含めて把握されることが多くなったものと思われる。
石段左側に建つ石碑 石段の右側に祀られている石祠
「境内献納記念碑」であろうか。 天満宮
塚上に鎮座する高柳新田八幡神社
八幡神社 栗橋町高柳一〇三(高柳字弥八)
高柳村の枝村である高柳新田は、元和六年(一六二〇)に新井弥八によって開発されたと伝えられる。当社は、この高柳新田の一集落である新田耕地の鎮守として創建され、社殿は水害を避けるために高さ二㍍の盛り土の上に建てられている。
境内献納記念碑によると、当社は天明八年(一七八八)に大林寺の境内に勧請されたことに始まる。これを裏付ける資料としては、同年の棟札が現存し、その墨書に「奉請八幡大菩薩右左眷属諸神将 宮殿造営寄附新田惣村中 天明八年申仲春吉旦 招賢山大林寺世話人新井弥市 斎藤平右衛門 田嶋浅右衛門 山野江治右衛門(以下略)」とある。天明年間といえば、ようやく新田の経済力が充実してきた時期であり、この造営には、独立した鎮守を持ちたいという村人の願いが込められていたことであろう。更に、慶応三年(一八六七)には、騎乗の八幡大明神像が本殿に納められた。
明治初年に大林寺が廃寺となると、その境内は私有地となり、当社も社地を失う結果となった。その後、氏子は社地の返還を願い果たせずにいたところ、日露戦争に際して当地出身者に一人の負傷者も出なかったことから、氏子一同は神の加護に感謝し、これを機に浄財を投じ、私有地となっていた社地一畝一〇歩を買い戻して、多年の念願を果たした。
「埼玉の神社」より引用
高柳新田八幡神社の祭神は誉田別命となっているが、『明細帳』によると、氏子の間では、八幡太郎義家とも伝えられている。これは、慶応3年に騎乗の八幡大明神像が本殿に納められたことによるもので、先の大戦でもその終結までは、武運長久の神として信仰が厚かったという。
塚下右側に安置されている地蔵・十九夜塔
社殿から集落を眺める
高柳新田は、旧高柳村の一部が開発されて成立したものであり、当社が鎮座する字の名前にもなっている新井弥八によって開発されたと当時は、家数も少なく、耕地面積もそれほどではなかったろう。その後、開発が進むにつれ、家数も多くなり、推測するに江戸時代中期には村としての形が整ってきたと思われる。天明8年に大林寺の境内に八幡大菩薩が勧請され、新田惣村中の寄附により、社殿の造営が行われたことも、村としての意識が確立した表れではなかろうか。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」等
