古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下閏戸伊夜彦神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸99
             
・ご祭神 天香久山命 素戔男尊
             
・社 格 旧下閏戸村鎮守 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 禦(ふせぎ) 415日 夏祭り 714
 上閏戸愛宕神社から旧国道122号線を南下し、中閏戸久伊豆神社に達する前に右折した「蓮田北小学校入口」交差点を更に1.4㎞程直進し、「蓮田市浄水場」の看板が設置されている信号のある十字路を右折するとこんもりとした下閏戸伊夜彦神社の社叢林が見えてくる。
 
社の周辺には残念ながら適当な駐車スペースはない。そのため手押し信号のある十字路左手にコンビニエンスストアがあり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                
下閏戸伊夜彦神社の社叢林
『日本歴史地名大系』 「下閏戸村」の解説
 蓮田台地の中央部、元荒川右岸、綾瀬川の左岸に位置し、北は中閏戸村、南は上蓮田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として下閏戸村があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高一八〇石余。
 
      
下閏戸伊夜彦神社正面鳥居           鳥居の掲げてある社号額
        
                    拝 殿
 伊夜彦神社(いやひこじんじゃ) 蓮田市閏戸九九(閏戸字野久保)
 閏戸は、蓮田台地の中央部に位置し、西は綾瀬川を隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡市に接する。その地内は、北から上閏戸・中閏戸・下閏戸の三地区に分かれ、上閏戸では愛宕神社、中閏戸では久伊豆神社、下閏戸では伊夜彦神社すなわち当社を祀っている。
 この閏戸が上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三つに分かれたのは元禄十一年(一六八九)とされている。当社の創建の年代は不明であるが、下閏戸では「七軒百姓」と呼ばれる原嶋・岩崎・小花・神田・森田・清水・花井の七家の先祖が開いたという。中でも草分けとされている原嶋家や岩崎家などの家々は、二五〇年ほど続いていることから考えると、当社もまた、江戸時代の初期に、これら草分けの人々によって勧請されたものと思われる。
 明治七年、上閏戸・中閏戸・下閏戸の三村は合併し、再び閏戸村となった。その村社には、最も規模が大きかった中閏戸の久伊豆神社がなったことにより、当社は他の諸社と共に無格社となった。そのため政府の合祀政策に従って、明治四十二年(『明細帳』では明治四十三年)に、村社の久伊豆神社に合祀された。その後、「やはり地元に字の鎮守を置きたい」という氏子の声が高まり「、合祀から半世紀を経た昭和三十三年五月、神社本庁の認可を得て、久伊豆神社からの分祀を実現した。更に、昭和四十九年には、氏子諸氏の奉賛により、老朽化した本殿及び拝殿の改築と境内の整備を実施した。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
          境内に設置されている「伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念」
 伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念
 御由緒
当伊夜彦神社は古くより此の地に祭神として創祀せられ由来郷邑の守護神として開運殖産災除の光被を賜り尊い崇敬をうけられておりましたが法令により明治四十二年中閏戸久伊豆神社に合祀せられて以来約五十年経過致しました
其の後昭和三十三年五月神社本庁の認可を受け現地に奉還されました
然るに社殿の老朽化のため氏子諸氏の奉賛により本殿並に拜殿を改築し神域を整い長えに御神徳を仰がんとするものであります
 昭和四十九年七月十四日                           記念碑文より引用
        
                    本 殿
 当社のご祭神といわれている「天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)」は、日本神話に登場する神で、高天原から天降った天津神に分類される。『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。
 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝えている。
        
                 社殿から参道方向を撮影

「はすだ観光協会HP」において、「(伝)下閏戸村の開拓者・岩崎氏の郷里が越後ということで、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請して、一族の繁栄と安穏を祈願したという」と載っているが、筆者が調べた限りにおいて「岩崎氏の郷里が越後国」を証明する信用できる史料が見つからなかった。因みに『埼玉の神社』においては、当社は江戸末期から昭和15年頃までは岩崎氏が神職であり、元々は「修験者」であったという。考えるに修験者であるという事は、地元の人物ではない可能性は高いが、かといって、それだからこの人物は越後国出身であるというのはあまりに飛躍が過ぎよう。
 また、仮に上記の氏の故郷が越後国であったとして、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請したというのであれば、当然ご祭神は「天香久山命」となるはずであると思われるのだが、「はすだ観光協会HP」でのご祭神は「素佐之男命(素戔男尊)」となっていて、矛盾が生じる。
 上記『埼玉の神社』においても、当社のご祭神は、『明細帳』においては天香久山命、『郡村誌』では素戔男尊とされていて、それ以上の詳しい説明はされていない。
 これらの全ての矛盾を合理的に解釈できる方法はないのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「はすだ観光協会HP」「埼玉の神社」
             「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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