中里下香取神社
・所在地 埼玉県久喜市中里96-1
・ご祭神 経津主命
・社 格 旧中里村鎮守
・例祭等 お日待 10月15日
埼玉県道316号阿左間幸手線を南東方向に進行し、狐塚氷川鹿島大神宮が鎮座する手前の丁字路を左折、北東方向に進む道を道なりに進む。その後、大排水路に架かる「狐塚橋」を越え、東武日光線の踏切を抜けた先で、進行方向左手に中里香取神社は見えてくる。
中里香取神社正面
左側の建物は大字中里下香取会館
『日本歴史地名大系』 「中里村」の解説
小右衛門村の南に位置し、権現堂川沿いに堤防(島中囲堤)がある。正保国絵図・田園簿には中里新田とみえる。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利梅千代王丸印判状(野田文書)に「中里」とみえ、足利義氏が野田左衛門大夫に同所などを安堵している。天正二年(一五七四)野田三郎の知行地としても中里の名がみえ(喜連川家料所記)、いずれも当地に比定しうるが、現千葉県野田市の同名の地の可能性もある。田園簿によれば田高九八石余・畑高二二六石余で、幕府領。元禄郷帳では高一九九石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。
久喜市中里地域は、古い時代から開かれた所といわれ、上流から肥えた土が流入し、更に繁殖した葦などの雑草が枯れて、永年にわたって堆積した水田耕作の適地であったが、近世の河川改修以来、低湿な水害地帯となり、明治初期の耕作船も六九隻あり、水害から家畜や財産を守るために築かれた水塚も、当地に集中して存在している。
このような厳しさの中で、昭和二十年の終戦という未曽有の出来事があり、加えて同二十二年の大水害に見舞われたために、伊勢講や板倉の雷電講など、種々の行事をこの時に廃止したという。
拝 殿
香取神社 栗橋町中里一三(中里字大道内)
中里の地名は、中川と権現堂川の中程に位置するところから、このように呼ぶといわれているが、しかし、当地は『和名抄』にある新居郷のうちにあり、古代の条里制の遺称とも考えられる。
中里は低地で、三か所の微高地があり、この微高地上に集落が発達している。これは、古くは河川が乱流し、少しでも高い所に安定した生活を求めた結果であろう。また、周囲の低地は、上流から肥えた土が流入し、更に繁殖した葦などの雑草が枯れて、永年にわたって堆積した水田耕作の適地であった。これらのことは、当地が古い時代に開かれた所であることを物語るものである。
当地は、古くは下総国葛飾郡新居郷に属していたところから、草分けの人たちが下総国一の宮香取神社を勧請したと考えられる。中里には、上の香取神社と下の香取神社が祀られている。『風土記稿』には「香取社二 村の鎮守なり、共に狐塚村泉福寺持」とある。当社は、このうちの下の香取神社で、岡田組・前新田・河原巻の三集落の鎮守である。当地は低地のため度々水害を被った所で、近年では昭和二十二年に大水害があり、このときには社殿の天井まで水に浸かっている。このような状態から、記録類はほとんど残らず、内陣に安置する文久二年(一八六二)の神祇伯資訓王調進の神璽と『明細帳』の元禄十年(一六九七)に除税地になった、との記述のみである。
「埼玉の神社」より引用
社殿の右側に設置されている「香取神社竣工記念碑」、その右側には天満宮が祀られている。
「香取神社竣工記念碑」の右側並びにある薬師堂。
薬師堂の前にある地蔵尊等三基
薬師堂の並びにある伊勢参宮記念碑等 社殿の左側奥に祀られている稲荷社
境内の様子
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
