古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瀧宮神社

 滝宮神社が鎮座する幡羅郡の郡範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 しかし西の榛沢郡との境界にかんしては、深谷市大字国済寺の国済寺の梵鐘(康応二年、1390年)に刻まれた「幡羅郡深谷庄」の文字から、時代によっては旧深谷町も幡羅郡に含まれていたようだ。

 滝宮神社の鎮座する西島地区は櫛引台地と妻沼低地の境目に位置し、その豊富な湧水から唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んで、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀ったという。

所在地     埼玉県深谷市西島5ー6-1
主祭神     天照大神
          豊受大御神
          彦火火出見尊
例  祭          11月3日 例大祭、12月5日 酉の市  

          
 
  深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。境内は駅南口の立地にありながら広く静寂な空間が広がる。駐車場も数台止めることができるスペースが道を隔てた向かい側にある。
 
    唐沢川をはさんで南側に鎮座する     春の唐沢堤は桜で満開になる。深谷市では有名だ
       実は北向き社殿でもある
 
      一の鳥居の左側にある案内板               
拝殿に続く参道 広い空間がそこにある

滝宮神社
 古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しま した。 西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
 御嶽神社
  旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
 八坂神社
  旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています.                                                                                                                                                                                                         案内板より掲載
                  
           
                               拝     殿
 創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、城の裏鬼門の守護神として深谷上杉氏が代々信仰されたという。
 境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・深谷祭りで有名な八坂神社などが両側に祀られている。


 
        御嶽神社                演舞台                八坂神社

 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日
                                            御嶽神社完成記念碑より引用                                                                                
                      
      境内社殿の奥には大山阿夫利大神、八意思兼命、富士浅間大神、稲荷神ほか多数の柱、石祠が並ぶ。また社殿の手前階段右側にも多数の境内社が存在する。 
 
             
豊受神社                       左八幡神社、同右天神社
 ところで滝宮神社が鎮座する深谷市西島は利根川が運んだ土砂等でできた肥沃な低地(妻沼低地)と、荒川が運んだ土砂等でできた乾燥した台地(櫛引台地)との境界に位置していて、低地と台地の境界付近にJR高崎線が東西に走っている。滝宮神社はJR高崎駅のすぐ南にあり、この櫛引台地の北端部に位置していて古来から湧水が豊富な地として「霊泉の社」、そして「瀧の宮」と言われるようになったという。
            
  この櫛引台地は、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されている。

 櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているが、寄居面は高崎線より北へ1.5~1.8mほど延びていて、比高差2~5mをもって妻沼低地と接している。接線付近での標高は櫛引面が40~50m、寄居面が32~36m、妻沼低地が30~31mである。
櫛引面は標高70m付近より発する上唐沢川、押切川、戸田川、唐沢川あんどが北に向かって流れしていて、櫛引面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達したものと考えられる。
 その一方滝宮神社は櫛引台地と妻沼低地との境界線、つまり言い方を変えると「活断層」の境界線上に鎮座しているとも言える。事実この一帯は有名な「深谷断層」、正式名称では「関東平野北西縁断層帯」が存在し、その断層帯の一つがこの深谷断層であるとのことだ。深谷市による地震ハザードマップには「関東平野北西縁断層帯主部」において、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード8.0程度の地震が発生する可能性があり、また、その際には南西側が北東側に対して相対的に5~6m程度高まる段差や撓みが生じる可能性も指摘されている。
 またこれも関東平野北西縁断層帯のうちの一つの断層帯である平井-櫛挽断層帯では、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード7.1程度の地震が発生する可能性があり、またその際には2m程度の左横ずれを生じ、北東側が南西側に対して相対的に高まる段差や撓みを伴う可能性があるとのこと。

 本断層帯の最新活動後の経過率及び将来このような地震が発生する長期確率は不明という。日本は温泉や湧水など自然の恩恵を受ける利点だけでなく、火山大国であり、地震大国であるマイナスファクターもこの社を散策するによって学ぶことができる。なんとも複雑な気持ちだ。


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