松石香取神社
・所在地 埼玉県幸手市松石17-1
・ご祭神 経津主命
・社 格 旧松石村鎮守
・例祭等 元旦祭 2月2日 例祭 7月15日 甘酒祭り 10月19日
円藤内香取八幡神社から埼玉県道152号加須幸手線を東行し、「松石」交差点を左折、同県道316号阿左間幸手線に合流し北行すると、進行方向左手側に松石香取神社が見えてくる。この二社は直線距離にして300m程しかなく、近距離に位置している。社の南側に隣接して松石集会所があり、そこの駐車スペースをお借りして参拝を行う。
県道沿いに鎮座する松石香取神社
『日本歴史地名大系』 「松石村」の解説
高須賀(たかすか)村の西、島川右岸の沖積地に位置する。同川筋は文禄三年(一五九四)に行われたと伝える利根川改修の際、利根川の主流筋になった河道。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿では田三〇石余・畑一五六石余、幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が行われた(「風土記稿」など)。同一〇年旗本大久保氏は葛飾郡などで一千二〇〇石を与えられており(寛政重修諸家譜)、そのなかに当村も含まれたと考えられる。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と大久保領。「風土記稿」では旗本都筑二氏と大久保氏の相給。幕末の改革組合取調書では都筑領(一一〇石余)・大久保領(七二石余)。
鳥居の左側に設置されている「松石ささら獅子舞」の案内板(写真左・右)
市指定文化財(民俗文化財 無形民俗文化財)
松石ささら獅子舞
所在 幸手市松石(香取神社)
指定 昭和五十八年三月二十四日
松石ささら獅子舞は、この香取神社を主な舞台として行われる伝統行事です。毎年七月十五日(現在は七月十五日に近い日曜日)に奉納され、天下泰平、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散・無病息災などを祈願します。また、第二次世界大戦以前は、雨乞いのため臨時に行うこともありました。
獅子舞は、行司を先に立て天狗・大獅子・中獅子・雌獅子・ヒョットコ・小万灯・露払いの棒術で構成されています。 演目は、「ハシ」「ボンテン」「ササ」「シラニワ」「シメ」の五種類の舞い方があります。
お祭りでは、神社でササを舞ってから地区内の日枝神社(権現様)でもササを舞い、各家々を訪ねながら四か所のムラ境で辻固めを行います。獅子の一向が家を訪問するときは、縁側から座敷に上がり玄関から出てきます。
松石のささら獅子舞の起源は定かではありませんが、獅子頭を修復したときに「享保」「寅」(一七二二年あるいは一七三四年)の文字が確認されています。昭和二十二年(一九四七)のカスリーン台風の大水害後に中断され、同五十二年(一九七七)に松石ささら獅子舞保存会として復活しています。
松石をはじめ現在の市域は、江戸時代の初めまで下総国に属していたため、下総国の総鎮守である香取神宮の分社である香取神社が祀られています。
また、この地域は島川(中川)の土手に沿って、大坂の落人が住みついたところと伝えられ、下駄屋、綿屋、醤油屋、かじ屋、箱屋、質屋、という屋号で呼ばれている農家が並んでいます。昔、農業のかたわら、川すじで商売をしていたなごりです。(以下略)
案内板より引用
県道沿いにありながら静かに佇む社
「松石ささら獅子舞」の案内板にも記されているが、この地域の昔の共同祈願に、雨乞いがあったという。これは、しばしばあった行事で、まず幸手の雷電神社から水を頂いて来て、当社の境内に裾えた半切り桶の水に加えて獅子舞を行った。獅子舞は桶の周囲を回りながら、お互いに水を掛け合うもので、獅子が水で濡れるほど効果があるといわれていた。
参道右側に祀られている境内社。左から松尾大権現・酒水大権現、稲荷社
というのも、当時、大きな家には近郷から来た若衆と呼ばれる使用人が大勢おり、この大きな家では、村で獅子が出ると、お金を出し使用人を休ませて手伝わせる仕来りがあった。このため、日ごろの仕事に疲れた使用人が村人を騙って獅子道具を寺から無断で持ち出して雨乞いを行ったという。大きな家では、これを防ぐのに躍起になっていたともいう。盆と正月、田植え上がりでもない限り、休日もなかった時代の話であるという。
拝 殿
『新編武藏風土記稿 松石村』
香取社 村の鎮守なり、殘光寺持、末社稻荷 〇山王社 村民の持 下同じ、〇稻荷社
殘光寺 淨土宗普照山と稱す、本尊阿彌陀、地藏堂 鐘樓 享保十八年鑄造の鐘をかぐ、
香取神社 幸手市松石一七-一(松石字西)
当地は、島川の土手に沿って開けた豊かな農村である。地名の松石は、昔この所は松がよく育つ石が多い所であったからという。
『風土記稿』に「香取社 村の鎮守なり残光寺持」とあり、残光寺は、天正二年(一五七四)創建との伝えがある。これによれば、当地の開発もこのころと言えよう。しかし、開発を伝える口碑では、天正十八年(一五九〇)の豊臣氏の小田原攻めで落武者が土着したというものと、元和元年(一六一五)に大坂城が落ち、浪人が住み着いたとするものと二つあり、明らかではない。
当社の創建もまた明らかにできない。当地方の香取神社勧請は、下総国に属していた時期に、一の宮を祀ったと伝えている。当地が下総国から武蔵国に変わったのが寛永十年(一六三三)ごろとされ、当社創建もこれ以前と言える。
内陣に金幣が納めてあり、銘文に「享保五子歳(一七二〇)六月十五日 武州幸手領松石村 奉納専誉休念」とある。また「松石のササラ」と一口に言われるほど有名な、当社獅子舞の頭(かしら)に「享保□寅歳」の墨書がある。更に『風土記稿』残光寺の項に「鐘楼 享保十八年(一七三三)鋳造の鐘を掛ける」とある。これらは、当地が利根川を控えた水害地であり、殊に享保年中大洪水が頻発したことから、洪水後の悪疫除け、犠牲者の供養などどの関係が考えられる。
「埼玉の神社」より引用
社殿後方から本殿を望む。
社の氏子区域は松石全域で、当地は大坂の落ち武者が農業の傍ら商売をしたと伝え、現在も質屋・醤油屋・笊屋・味噌屋・風呂屋などの屋号を使う家があるという。
境内社に石祠等。詳細は不明。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
