内国府間八幡神社
ただし、嘗ての権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、その対策として権現堂堤が初めて築かれたのは、戦国時代の天正4年(1576)のこととされている。江戸時代には、江戸を守る「御府内御囲堤」とも呼ばれるようになり、江戸幕府の手厚い管理のもと、また幸手領の住民も水防活動に力を尽くし守り続けてきた。しかし、自然の猛威には勝てず、権現堂堤はたびたび決壊し、大規模な水害が発生した。例えば、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ていて、「母娘の順礼の悲話…1802年の大洪水で、水神の怒りを鎮めようと人柱になった巡礼の母娘を供養する石碑で、母娘は決壊した堤を前に途方に暮れる村人を見かねて、渦巻く流れに身を投じたと伝わる」もこのときのものとされている。
明治9年(1876)には明治天皇の行幸があり、行幸堤の名前はここから生まれた。その後も、東京を守る堤として権現堂堤の治水上の重要性は高まるが、利根川改修工事で権現堂川が締め切られることが決定すると、権現堂堤もその役目を終えることになったという。
・所在地 埼玉県幸手市内国府間640
・ご祭神 譽田別命
・社 格 旧内国府間村鎮守
松石香取神社から一旦南下し、「松石」交差点を左折、埼玉県道152号加須幸手線に合流し東行する。南北に縦断する東武日光線を高架橋にて通り過ぎた先の「権現堂桜堤」交差点を右折し、国道4号線を450m程南下した丁字路を右折した先に内国府間八幡神社は鎮座している。国道から社に通じる路地前には「内国府間 八幡神社 参道」と刻まれた社号標柱が建っているが、標柱自体小さく、国道からもやや分かりづらい場所にあるので、そこはナビの力を利用している。
内国府間八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「内国府間村」の解説
幸手宿の北、島川右岸に位置し、同川と権現堂川の合流点の沖積地に立地する。小名に内記新田・長戸呂などがある。幸手城主一色宮内大輔の家臣遠藤石見守が天正二年(一五七四)に当地に来住し開発したという。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。田園簿では田一〇八石余・畑二三五石余、ほかに正福寺領一三石がある。
幸手市の北西部に位置する内国府間地域。この「内国府間」という地域名は当初読むことができず、ナビで調べようにも最終的にアルファベット順に調べてしまう始末で、結局のところ最初のア行ですぐに判明した地域であったのだが、それでも地域名はネットで調べて判明した地域名である。「内国府間」=「うちごうま」。これはさすがに分からない。
筆者としては、地域名の中に「国府」があるので、この地域に重要拠点があったのかとも思い、調べてみたが、どうもそうではないようで、同地域は、中川と権現堂川の合流点に位置し、沖積地に立地しているところから、「埼玉の神社」では、「河間(かわま・ごうま)」、すなわち河に挟まれた地を表す地名であるという。
参道右側に設置されている「内国府間八幡神社修復記念碑」
参道左側に祀られている天神社の石碑 天神社の奥にある「北町桜會」の山車庫
山車庫の近くにある「山車新調記念碑」
「山車新調記念碑」の記念碑文によると、昭和47年7月の夏祭りでの子供神輿の初渡御を機に、年々祭りの雰囲気が盛り上がり、祭りを通して地域住民の親睦を深めることを目的として、子供・若衆・お年寄りの皆が楽しめるために山車を作ることを決め、平成元年から地元の有志が発起人となり、当地域も北町桜會を結成し、同3年に山車が完成し、そして同6年には山車庫を内国府間八幡神社の境内に新築することができたという。
この山車は現在、幸手市の総鎮守社である幸宮神社の夏祭り(八坂祭り)において、各町内(荒宿・仲町・久喜町・助町・天神町・東町・北町)の山車7台が連なって「花山(全町曳き廻し)」が行われている「北町」の1台であるという。
境内東側隅に置かれている数多くの庚申塔
当社は、内国府間の八幡様と呼ばれ、氏子をはじめ近在の村々からも親しまれているとともに、庚申塔の多い神社でも知られている。嘗ては、社殿の基壇部に整然と横一列となって六〇基以上の庚申塔が隙間なく並んでいたという。これは、社殿造営時に基壇の土止めとして建立したといわれ、年紀は万延元年(一八六〇)の干支が「庚申」であり、すべて翌年の文久元年と翌々年の文久二年であるという。また、これらに見られる村名は、外国府間・外野・神明内・権現堂・境・元栗橋・嶋中・久喜・大膳新田・川通など広域にわたっている。
当社基壇部にあった庚申塔は、造営時に土止めとして単に建立したのではなく、何かそこには信仰的な背景もあったのかもしれない。作神・道の神・徐病の神・商売の神・和合の神など様々な御利益が語られる庚申塔を一カ所に建立したことにより、更に、その威力を増やそうとした一般庶民の方々の祈りがあったものと思われる。
拝 殿
八幡神社 幸手市内国府間六四〇(内国府間字岸内耕地)
当社の鎮座地は、中川と権現堂川の合流点に位置し、地名である内国府間の「国府間」とは「河間」、すなわち河に挟まれた地を示すといわれる。このような地であることから、度々水害に見舞われ、現在、桜の名所である権現堂堤には、享和二年(一八〇二)に権現堂川の洪水を鎮めるため人柱になった巡礼親子の供養塔が建てられている。
村を開発し、当社の運営に古くからかかわったと伝える家は、江戸時代に名主を務めた山田家(現在転出)である。この家は、『風土記稿』によれば、元は遠藤石見と名乗り、幸手城主一色宮内に仕え、天正二年(一五七四)に当地に土着した。更に、元禄のころまでは、野武士と号し、戦場で先祖が人馬を一打ちに切り落とした「馬切丸(うまきりまる)」という太刀を蔵していたという。
社名は、『風土記稿』に「八幡香取合社」と載り、現在、内陣には騎乗の八幡大明神像と、香取大明神座像を安置している。
別当は、真言宗医王山成就院で、開山年代は明らかではない。同院は、神仏分離後廃寺となっている。
合祀は、『明細帳』によると、明治四十年に字本村裏の無格社天神社と同四十二年に字一丁田の無格社神明社の二社について行われた。
なお、農地改革の前は、当社の周囲に約五反ほどの社有の畑地があり、これを氏子に貸し付けて小作料を徴収していた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿 本殿に掲げてある扁額には「香取大神
八幡太神」と併記されている。
境内に設置されている「内国府間八幡神社新築記念碑」
「埼玉の神社」では記されていない所では、平成19年4月2日午後零時頃、突然の不審火により全焼したこと。その後、奉賛会、有志他の協力により平成20年11月、歴史的な文化財八幡神社の竣工式を迎えた、とある。おそらく、新築した際に社殿基壇部に並んで敷き詰めていた庚申塔も一カ所に纏めたと思われる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「幸手市HP」「幸手市観光協会HP」
「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等
