荒井須賀神社
社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。
島根県・高知県に特に多い社だが、関東地方にも少なからず存在する。北本市荒井地域にも素戔嗚尊をご祭神とする須賀神社が「荒井の天王様」とも呼ばれ祀られている。
・所在地 埼玉県北本市荒井1-353
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社 荒井村 鎮守社 北本七福神 寿老人
・例祭等 節分祭 2月3日 夏祭 7月14日~16日 冬至祭 12月12日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0217631,139.5103152,17z?entry=ttu
高尾氷川神社、高尾厳島在弁天神社、荒井須賀神社と狭い区域内に三社もの神社が固まって鎮座している。地図で検索してみると、この須賀神社は荒井地域の住所地であるにも関わらず、この神社の周囲は高尾地域に囲まれた飛地になっている。どのような変遷をたどって現在の配置に至ったのだろうか。
因みに現在荒井須賀神社は高尾氷川神社の兼務社となっている。
入口付近に設置されている案内板 社号標柱
須賀神社 所在地 北本市荒井一-三五三
須賀神社は、天正年間(一五七三~一五九一年)の勧請と伝えられ、「荒井の天王様」とも呼ばれている。
明治六年、荒井村村社に列せられ、大正年間には、村内の浅間社・橿城神社・神明社等を合祀しており、祭神は、素戔嗚尊の他・木花開耶姫命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・倉稲魂命等が祭られている。
祭事は、節分祭(二月三日)・夏祭(七月十四日~十六日)・冬至祭(十二月二十二日)で、特に夏祭は、神輿・山車が出て盛大に行なわれる。
案内板より引用
鳥居正面
境内は隣接する他の2社より遥かに広大で開放感がある。
鳥居の手前には灯篭が一対奉納されているが、夫々に力石らしきものも置いてある。
詳しく実見していないので、刻印された日時等は分からず。
北本七福神の一 「寿老人」の祠
境内参道より拝殿を望む。
祭事が近づいているのであろう。参拝当日には祭事用の準備の金具が拝殿前に設置されていた。
須賀神社 御由緒
□御縁起
『埼玉県地名誌』によれば、鎮座地の荒井は、古くは新井とも書き、開墾集落を意味する地名であるという。江戸期、隣接する諸村との間で、秣場をめぐる論争が長期間にわたって続いた。元禄十年(一六九七)の「秣場論所裁許状」(矢部家文書)によれば、その原因は、かつて当村・石戸村・下石戸村・高尾村の四か村が一村であったのを分村し、村境が複雑になったためであるという。ここでいう一村とは中世の石戸郷を指すと思われるが、分村の時期については不明である。
当社は旧荒井村の北端に鎮座している。江戸期は社名を牛頭天王社と号していたことから、現在も地元の人々から「天王様」と通称されている。『明細帳』には「創立ハ天正年間(一五七三-九一)ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹リ焼失ス」とあり、創建を天正年間と伝えている。『風土記稿』荒井村の項には「牛頭天王社 当村の鎮守なり 双徳寺持」とある。別当の双徳寺は、川田谷村(桶川市川田谷)天台宗泉福寺末で千手山慈眼院と号した。
神仏分離後、双徳寺は廃寺となり、当社は社名を須賀神社と改め、明治六年四月に村社に列した。明治十一年二月には、社殿が焼失したが、同年中に再建された。その後、社殿が老朽化したため、昭和五十七年に現在の社殿が建立された。(以下略)
社殿右側に設置されている、神興庫であろうか。 境内社・三峯社(推定)
「北本デジタルアーカイブス」には、〈荒井の須賀社の創建は、県立文書館所蔵「神社登録台帳」に「創立ハ天正年間ナリト棟札アリシカ去ル明治十一年二月火災ニ罹り消失ス同年中今ノ如ク假社ヲ建テ鎮祭ス同六年四月村社二列セラル字東原二稲荷社アリシカイツ頃力合祭シタリト云傳」と記載されている。また、由緒追記として「大正六年四月四日 宇東原無格社浅間社 字無格社橿城神社及 社境内社須賀社三峯神社 字無格社神明社ヲ本社、合祀」とある。さらに、大正十八年九月一日 道祖神社・牛頭天王社・稲荷神社が合祀されている〉との記載があり、多くの境内社がこの社に祀られていることが記されている。残念ながら参拝した時点で確認できた境内社はこの一基のみ。「北本デジタルアーカイブス」に紹介されている「配置図」により、この祠は三峯社であることが分かったが、他の社は不明だ。
境内の一風景
余談な話を一つ。須賀神社が鎮座する「荒井」地域。嘗ては「新井」とも称していたとの「埼玉の神社」の記載もある。この「新井」は埼玉県第一位の大姓でもある(因みに近年人口が急激に増加したため、現在では県内第5位となっている)。
「新井」苗字に関しては埼玉県内の順位が5位で74,200人にあるのに対し、全国では82位の203,000人となっており、全国の「新井」苗字の36.5%が埼玉県在住であるという。筆者にも「新井」苗字の知人が多数いて、さぞや「新井さん」は全国的にも多いのであろうと思っていたのだが、この統計にはビックリしている。
「名字の由来」と「地名の由来」をまとめているサイト「民俗学の広場」によると「新井」は、関東地方北部特有の苗字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている。「あらい」には「新しく開拓した土地に住む」という意味があるといわれており、新田開発の指導者が事業にちなんで名乗っていたという記録もあるようだ。また地名は「イ」には井・堰・居などの意味があり、広くは開墾集落を意味すると思われる。
*『新編武蔵風土記稿』に記されている「新井」に関しての記述は、あまりにも膨大で多いので、旧高尾村に関連した「新井」苗字を紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高尾村条』
「旧家善次郎、元は菊地氏にて何の頃よりか新井を冒せり。先祖を菊地豊前と云、其子に図書助隼人など云あり。是等卒年を伝へざれど、豊前が二百年の追福を寛保二年取行ひしといへば、天文年中の人なること知らる。成田分限帳に菊地図書・十貫文を知りしこと見ゆるは、則豊前が子なるにや、旧記を失ひたれば詳なることは考うべからず」
『新編武蔵風土記稿 横見郡高尾新田条』
「高尾新田は、足立郡高尾村の民、善次郎が祖先荒井門太郎と云者開きし所にて、今も同所里正の持なり」
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「境内案内板」等