立原諏訪神社及び鉢形城
辞書やインターネット等で調べると、本来の氏神は古代にその氏人たちだけが祀った神であり、そのほとんどが祖先神であったようだ。また産土神はその土地の本来の守護神であり、その地を生んだ神様であるに対して、鎮守神は、氏神や産土神等の祖先神や地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神であるそうだ。つまり鎮守様(鎮守神ともいうが)が人間がある土地に人工物を造営したとき(荘園や寺院、城郭等)、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請してその土地を守るために祀った神であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。
そういう意味では現在において氏神、産土神、鎮守神は同じ意味で扱われることになったが、「「○○鎮守様」などと書かれているとついそこへ行ってみたくなるのは深層心理を突いたなかなかずる賢い一手だとふと最近思うこともある。だからと言っていやな意味ではないが。
今回取り上げる立原諏訪神社は鉢形城の一郭に守護氏神として信仰された社故、今回氏神や鎮守様などについて感じていたことを冒頭で取り上げた次第だ。
所在地 埼玉県大里郡寄居町立原2701
御祭神 建御名方命 誉田別命
社 挌 不明
例 祭 不明
立原諏訪神社は鉢形城の三の曲輪、通称秩父曲輪の外郭に位置し、神社の敷地内全体も諏訪曲輪とも大手馬出しにあたるとも言われており、城の西南部を形成していて周囲には藪化しているものの、空堀、土塁等の遺構がよく残っている。
この社の創建は戦国時代末期、武蔵国日尾城(埼玉県小鹿野町)の諏訪部遠江守が北条氏邦の家老として出仕した時に信濃国にある諏訪神社を守護氏神として分祀、奉斎したと案内板に記されている。
ちなみにこの諏訪部遠江守は諏訪部氏の家系であり、諏訪部氏は清和源氏満快流で信濃源氏の一族であり、当時から信濃国を中心に武士から武門の神として御諏訪様は深く信仰されていた。
社の東側にある社号標 参道を進むと正面に鳥居がある。
鳥居を過ぎると右側に大黒天や石祠等がある。 元諏訪神
拝 殿
拝殿の手前で左側にある天手長男神社 拝殿の近くには案内板がある。
諏訪神社
諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉齋しました。
やがて天正十八年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを語りかけているようでもあります。
祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。
案内板より引用
鉢形城
寄居町は荒川の扇状地の楔(くさび)に位置していて交通の要衝でもあり、また歴史的に見ても多くの文化遺産を有する魅力的な町である。中でも鉢形城を外すことはできない位有名な城で、「日本100名城」にも掲載されている。
所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
区 分 国指定史跡
城郭構造 連郭式平山城
築城年、主 文明8年(1476) 長尾景春
主な城主 長尾景春 上杉顕定 北条氏邦
鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡であり、構造は連郭式平山城。現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備されている。園内には鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。
関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年、国の史跡に指定された。1984年からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
鉢形城のすぐ北側にある荒川。
断崖の地形は今も昔もそれほど変わらなかっただろう。
鉢形城の始まりは、1473年6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
その後上杉家の城として栄えた。室町末期、上杉家の家老でこの地の豪族であった藤田康邦に、小田原の北条氏康の四男氏邦が入婿し城主となった。北条氏邦は城を整備拡充して現在の規模にし、北関東支配の拠点および甲斐・信濃からの侵攻に対する防備の要とした。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝らに包囲攻撃され、一ヶ月の籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に降伏・開城した。その後、徳川家康の関東入国に伴い廃城となった。
鉢形城俯瞰図
この城の最大の特徴はその立地にある。鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
二の曲輪から三の曲輪方向を撮影 二の曲輪の南側にある馬出
鉢形城の歴史
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦(やすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(うじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
案内板より引用
関東地方に所在する戦国時代末期の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年(昭和7年)、国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始され、現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
ところで余談になるが寄居町折原には壱岐天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)が鎮座している。この社は先祖が壱岐よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社を勧請したものと伝えられていて、地元では「お手長さま」と呼ばれているという。同町小園にも壱岐天手長男神社があり、こちらはその分社らしい。
この社の総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社であるが、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座している。「鉢形山」と「鉢形城」と全く同じ地名だ。
寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1 「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。
対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたといい、何となく寄居町の「鉢形城」と同じようにも思える。壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在し、当時の海上による交流が我々が考えている以上に豊かだったのではないかと考える。
この壱岐島の「鉢形嶺」と寄居町の「鉢形城」、はたして名前の一致は偶然なのだろうか。