古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下里八宮神社

 環境省では、様々な命を育む豊かな里地里山を、次世代に残していくべき自然環境の一つであると位置づけ、「生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)」(500箇所)を選定した。選定された「重要里地里山」は、地域における暮らしや営み、保全活動等の取組を通じて守られてきた豊かな里地里山を広く国民の皆様に知ってもらうためのものである。また、地域における農産物等のブランド化や観光資源などにも、広く活用できるものと考えているという。
 埼玉県比企郡小川町・下里地域周辺は、周囲を外秩父の山々に囲まれ、伝統産業で古くから栄えた町に、昔ながらの風景が残る農村地域である。農地を中心としたモザイク状の土地利用形態が維持されており、オオムラサキ、カタクリやニリンソウなど里地里山に特徴的な動植物が生息・生育していて、環境省による生物多様性保全上重要な里地里山(略称「重要里地里山」)の選定地となっている。
 里地里山は、原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域である。そのような人の営みがつくり出した里地里山は、食料や燃料生産の場となるだけではなく、様々な動植物の生息・生育の場となり豊かな生物多様性を育んできた。また、国土保全や水源涵養、環境保全の機能など、多面的な機能を発揮し、さらに癒しや楽しみの場、絵図や文学を創出する役割なども果たしている。
 里地里山の多様な生物の営みによって、人が自然から得ているこれらの恵みは「生態系サービス」と呼ばれ、私達の暮らしに必要な資源を提供し、安全や快適性をもたらしている。これらの恵みの多くは、里地里山と人が関わり続けることで、生み出されるものであることから、里地里山を「国民共有の財産」と位置づけ、将来にわたって守り継ぐことが大切であるとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下里2348 
             
・ご祭神 高龗神 伊豆能賣神 墨江三龗神 海見三柱神
             
・社 格 旧下里村鎮守・旧村社
             
・例祭等 下里ささら獅子舞 7月中旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0507979,139.2806173,16z?hl=ja&entry=ttu
 田黒日枝神社前に南北に走る道路を北上する。槻川に架かる谷川橋を渡った先にある丁字路を左折し、道なりに3.5㎞程進んだ左側に下里八宮神社の鳥居が見えてくる。
 小川町・下里地域は小川盆地の東端に当たり、地内中心を槻川が蛇行、屈曲しながら東流し嵐山渓谷に達する手前までの、槻川の清流と里地里山が創り出す豊かな自然体系が保存されている地域でもある。社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高298m)の麓に鎮座している。
            
                    下里八宮神社正面
 天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮という。「八宮」と書いて通常「やみや」と読むが、正式には「やぎゅう」。別名「矢弓」「箭弓」、時には「野牛・柳生」とも書く。
 五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男。

 
八宮神社は比企郡小川村、下里村、下横田村、能増村、中爪村(以上小川町)、志賀村、広野村、越畑村、杉山村(以上嵐山町)に鎮座している。淡州神社や黒石神社も同様だが、比企郡内には同系統の社が比較的狭い地域に集中的に鎮座している興味深い郡でもある。
 下里八宮神社は、比企郡小川町下里にある神社である。下里八宮神社の創建年代等は不詳ながら、当初は志賀との境に鎮座、近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたものの、貞観10年(868)嘗て寺があった当地へ遷座、近郷7ヶ村に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称されたと伝えられている。
 
       鳥居を過ぎると丘陵地面の緩やかな登り参道を進む(写真左・右))。
 鬱蒼とした社叢林が参道両側に広がり、拝殿に近づくに連れて、自然と厳かな気持ちになる。
        
                             拝殿前に立つ神明系の二の鳥居
             どこまでも落ち着いた雰囲気が境内全体漂う
        
             拝殿に達する前にももう一段石段を登る。
 同じ八宮神社でも、下里八宮神社は、鳥居を過ぎた瞬間から自然と一体化したような参道、それに凛とした佇まいの社殿、加えて、目には見えない厳かな空気が境内周辺に滲み出ているのに対して、小川盆地内で町内に鎮座する小川八宮神社の荘厳で堂々とした造りである拝殿・本殿、綺麗に整えられた陽光眩しく明るい境内の雰囲気が、まさに対極的である。
「風格」「品格」等、色々と表現方法は多様であるが、結論から言うと、筆者はこの社を参拝して、つくづく感じた。他の八宮神社とは遙かに「格が違う」と
       
            石段を登り終えたすぐ左側に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 八宮明神社 村内の鎮守なり、
 別當寶壽院。新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、正理山と號す、本尊薬師を安ぜり、
                           『新編武蔵風土記稿 下里村』より引用

 八宮神社 小川町下里九一二
 下里は小川盆地の東端に当たり、地内を槻川が屈曲しながら東流する。当社はこの槻川沿いの地、仙元山(標高二九八メートル)の麓に鎮座している。仙元山に続く尾根には平安期築造の青山城趾(県選定重要遺跡)があり、「青木家譜」によれば、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱後ここに居住し、青木と改姓し、鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる。
 社伝によると、当社は初め村の東方に当たる志賀村との境に祀られていたが、清和天皇の貞観十年(八六八)に現在の地に遷座した。その後、近村七か所に分霊したことから、八宮神社の総社と称せられたという。
『風土記稿』には「八宮明神社 村内の鎮守なり、別当宝寿院、新義真言宗入間郡今市村法恩寺末、正理山と号す、本尊薬師を安ぜり」とある。同書の比企郡の項には、ほかに小川村・下横田村・能増村・越畑村・中爪村・杉山村・広野村・志賀村の各村に八宮明神社あるいは八宮社が見える。
 主祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三龗神・海見三柱神である。
                                  「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に登場する「青木氏」を調べてみると、『新編武蔵風土記稿 下里村』に「古城跡、山の上にて廻り三四丁許の地を云、古へ何人の住せしと云ことを伝へず」と記載され、この古城跡とは、青山城跡であろう。青木文書に「青山村に城跡あり、藤原成之の後裔氏宗が天慶の乱の後、ここに居住して青木氏と改姓す。城主に氏久・氏郷・右京亮の名あり、天文年間まで居城す」とあり、「鎌倉幕府、鎌倉府、関東管領に従ってしばしば戦功をたてたとされる」と年代的にも一致する。
        
                     本 殿
        
           本殿の裏側に祀ってある七社分霊神璽を納めた祠
『神社明細帳』に「往古ハ村の東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(八六八)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏側に祀ってある祠は、右の口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていたという。
 
      拝殿に掲げてある奉納額           拝殿左側に鎮座する境内社
             日露戦争の戦勝記念          左側の石祠は三峰社。右側は不明

        境内社・天神社                        境内社・稲荷社
       
           本殿奥の基礎部分にあたる地に
緑泥石片岩らしきものが層状となって見える。

 下里八宮神社から槻川に沿って1.5㎞程南下した場所に「下里・青山板碑製作遺跡」といわれる板碑製作遺跡が存在する。下里 青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への 加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称で、平成26106日付けで国史跡に指定されている。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、 石塔の一種である板碑の造立が盛んになる。緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・ 青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された 14世紀中頃から15 世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地域の板碑造立を中心的な生産地と考えられる。筆者も行って見たが、入口から少し上ると緑泥石片岩の大きな破片がむき出しに至る所に散らばっている。
 このような板碑製作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であると共に、 中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となったという。 
       
                     歴史も古い下里地域に鎮座している八宮神社

『町指定無形民俗文化財 下里の獅子舞』指定年月日 昭和44626
 下里ささら獅子舞は、古くは 7 13 日〜 15 日の 3 日間、下里八宮神社、八坂神社、大聖寺に奉納してきました。昭和39 年に一時活動を休止し 43 年に復活、保存会を発足いたしました。
 現在に至るまで大人から子どもたちへと引き継がれ、練習も 6 月中旬から毎日曜日を中心に行なっています。ことしは、7 15 日の午前中は八宮神社、午後は大聖寺に奉納いたしました。真夏の一日、下里 4区センターから奉納寺社まで、太鼓や笛の音が響き厳おごそかな気持ちになります。
                               「小川町議会だよりHP」
より引用



参考資料「環境省 自然環境局 自然環境計画課HP」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」
    「小川町議会だよりHP」「下里・青山板碑製作遺跡 案内板」「Wikipedia」等

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