古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古尾谷八幡神社

 古尾谷八幡神社は入間川と荒川の合流地点の南西岸の平坦地に鎮座する。当社のご祭神は品陀和気命・息長帯姫命・比売神の三柱で、旧県社の格式。江戸時代末まで別当は天台宗の灌頂院であった。元暦元年(1184)源頼朝が山城石清水八幡宮を勧請、弘安元年(1278)に当地を領していた藤原時景が社殿を再興したという(正保四年「梵鐘銘」灌頂院蔵)。古尾谷灌頂院縁由(同院蔵)によれば、貞観年中(859877)の創建で、頼朝により復興されたという。山城石清水八幡宮領の古尾谷庄の鎮守として勧請されたものとみられる。永禄四年(1561)長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を攻略する際、古尾谷氏は岩付城(現岩槻市)城主太田資正とともに上杉方の先鋒を務めたため、当社および別当灌頂院は小田原北条氏に焼打ちされ焼失した。平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた
 川越市には、平安時代初期に編集された『延喜式神名帳』に記載された神社はないが、調べてみると、古社が多数鎮座している。
 特に、江戸期には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持ち繁栄する。江戸幕府にとって北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。
 そのためか、明治維新後には一地域としては異例の三社(川越氷川神社・三芳野神社・古尾谷八幡神社)が県社に列格していた
        
            
・所在地 埼玉県川越市古谷本郷1408
            
・ご祭神 品陀和気命 息長帯姫命 比売神
            
・社 格 旧古尾谷荘総鎮守・旧県社
            
・例祭等 元旦祭 節分祭 2月節分 祈年祭 43 
                 
例祭 9月敬老の日前日 新嘗祭 1116
 初雁公園東側に面している国道254号線を南下し、「小仙波」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流し、荒川方面に3.5㎞程東行した先の「古谷上」交差点を右斜め前方方向に進路変更する。その後、通称「古谷八幡通り」を荒川沿いに進行、2㎞程過ぎた埼京線と接するトンネルを潜った先に古尾谷八幡神社は静かに鎮座している。
       
                 古尾谷八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「古谷本郷」の解説
 古谷上村の南東、荒川右岸低地に立地。北東境で入間川が荒川に合流。東は荒川を隔てて足立郡下宝来(しもほうらい)村・遊馬(あすま)村。古くは古尾谷(ふるおや)と称し、中世古尾谷庄が成立。小田原衆所領役帳に他国衆の太田美濃守資正の所領として「七百七拾六貫四百文 入東古尾谷」とみえる。中世の古尾谷庄が近世初頭の村切により当村・古谷上・久下戸(くげど)・今泉・古市場・渋井・木野目・牛子・並木・大中居・小中居・高島・八ッ島の一三ヵ村に分村したとみられる。
 嘗て川越市古谷本郷の古尾谷八幡神社周辺を「古尾谷庄」、或は「古谷庄」と唱えていた。この「古尾谷庄」は、入間川右岸の現古谷本郷・古谷上辺りを中心とする地域に比定される山城石清水八幡宮領庄園。承元四年(一二一〇)一一月二七日の武蔵国古尾谷庄年貢運上注文案(山城醍醐寺蔵「諸尊道場観集」裏文書)に「□(武)蔵国入東郡 八幡宮御領古尾谷御庄」とみえ、見布三〇〇段・上品藍摺一〇段(代准布八一段)・上品紺布五段(代准布三九段)・巻布一段・□(卒カ)駄六疋(一疋別准布二五段)・夫三人(一人別准布一〇段)の計六四一段(史料ママ)を石清水八幡宮に送進している。当時の地頭は大内惟義で、彼は預所も兼務していたのではないかとされている。
 
    正面一の鳥居の先には二の鳥居(写真左)、そして朱を基調とした三の鳥居(同右)が建つ。
『新編武藏風土記稿 入間郡古谷本郷』
 八幡社 天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に藏せり、古尾谷庄に屬せる本鄕上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎭守なり、拜殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に藏せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記錄に、五十六代淸和天皇貞觀四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勸請武州古尾谷寬永十九壬午迄七百九十一年永祿六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡竝水判土の堂を燒右八幡社頭勸請及燒失之略者依廣海記錄中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武藏國入間郡古尾谷五十石如先規令寄附訖云云とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎭座なることはしるべし、
 神寳 太刀一腰 中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にこヽへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、眞鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり、(以下略)

        
             旧県社としての風格も漂う広々とした境内
 当地には、鎌倉時代に御家人として【太平記】等に古尾谷氏が在地領主として登場する。この古尾谷氏は内藤氏流といわれ、内藤系図に「関白道長―頼高―僧覚祐―祐寛―盛遠―盛定―盛家―肥後守盛時(建長六年卒)―左衛門尉時景(弘安八年卒)―景家―景幸―義景」と載っている。また、太平記巻三十一に「観応三年閏二月、新田義宗ら西上野に兵を上げる。鎌倉足利方に古尾谷民部大輔・古尾谷兵部大輔は従う」として活躍している。この後も、古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあったという。

  三の鳥居のすぐ先で、参道に対して左側に    同じく参道に対して右側にある手水舎
        祀られている境内社・天神社
        
                    拝 殿
 古尾谷八幡神社  川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)
 当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
 社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
 元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
 正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
        
                     本 殿
 下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
 次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
 天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
 明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
 大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿に対して左側にある祭器庫等         祭器庫の右側並びに設置されている   
  写真右側には力石らしき大石が二基ある。   「古尾谷八幡神社社殿、旧本殿」の案内板
        
                 古尾谷八幡神社旧本殿
 県指定有形文化財 建造物
 古尾谷八幡神社社殿  付享保7年棟札1
 古尾谷八幡神社旧本殿 付天正5年棟札1
 古尾谷八幡神社は、貞観年間 859~877 に慈覚大師が石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられており、平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた。社殿は享保7年(1722)、旧本殿は天正5年(1577)の造営であることが棟札により判明している。
 社殿は、本殿・拝殿を幣殿でつなぐ朱塗りの権現造で、周囲には透塀がめぐらされている。本殿の内陣内に安置された内殿は黒漆塗りで、牡丹や昇竜・降竜の彫刻などが極彩色で彩られている。本殿の各所に施された極彩色の彫刻や、幣殿の大虹梁の若葉文様、細部の手法等が、棟札に記された享保期の形式を示している。地方における普通神社として典型的な建造物であり、建築年代が明らかな基準例と言える。
 旧本殿は、享保7年に社殿が建築された際に西側に移築され、末社として境内の神社が合祀された。二間社流造、見世棚造で全体を朱塗りとしている。見世棚造は正面の階段を省略した小型簡易な建築であるが、このような大型なものは大変珍しい。地垂木の反りが極めて大きいこと、頭貫の鼻を木鼻とせず肘木とすることなどは、中世の建築に見られる古い手法である。室町時代の古式を遺しており、棟札に記された造営期と一致する安土桃山期の貴重な遺構である。
 平成7317日指定 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  旧社殿の右側奥に鎮座する春日神社      春日神社の奥に祀られている護国神社
 
 本殿奥には境内社である御嶽・三島神社が鎮座       境内社・若宮神社
 
      三の鳥居の左側奥に祀られている境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
 当地の伝承されている代表的な祭りに、「母衣掛け祭り」がある。この祭りは古尾谷八幡神社915日の例祭をいうが、中心は衣母を背負った母衣背負子(ホロショイッコ)と称する子供が八幡様のお旅巡行のお供をすることにある。
 古谷本郷の上組・下組の双方から2人ずつ選ばれた小学生の男子(かつては長男)が、母衣背負子として神輿を先導する行事である。母衣は小さな背負い籠に紙花の付いた竹ひご36本を挿したものだが、籠の中には重しの石が入っているため、年少者にとっては辛いものとなる。
 母衣背負子は顔に化粧を施し、鉢巻に陣羽織という出陣衣装を着飾る。これを出す家では、かつては自宅に親類縁者を招いて祝宴を開き、衣装もすべて自前だったが、現在は公民館を「宿やど」とし、諸々の費用も地元が負担している。神社での祭典を済ませたのち、御旅所に向けて行列が出発する。天狗を先頭に4人の母衣背負子が縦一列に並び、そのあとに神輿が続く。母衣背負子は六尺棒を手にした青年2人に守られ、母衣を反転させながら「六方を踏む」動作で一歩一歩進む。一足ごとに周りから「よいしょーっ」という掛け声がかかる。200mほどの短い距離ではあるが、子どもにとっては苦行であり、元服式の意味合いをもつ全国的にも珍しい祭りといえる。
        
           境内に設置されている「
古尾谷八幡神社 略記」
        
                   境内の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
川越市HP
    「埼玉苗字辞典」「
Wikipedia」「境内案内板」等

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