西富田栄金鑽神社
・ご祭神 素盞嗚尊
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月19日 秋季例大祭 10月19日
新嘗祭 12月14日
西富田栄金鑽神社は、埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「南大通り」を北東方向に進み、「栄3丁目」交差点を国道462号方向に200m程直進すると左側に西富田栄金鑽神社の社叢が見えてくる。「栄3丁目」交差点の次の信号のある変則的な十字路を斜め左方向に進むと、左側にこの社の鳥居が見えてくる。
西富田栄金鑽神社 正面
西富田栄金鑽神社は武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社
入口正面鳥居 鳥居の近郊にある案内板
金鑽神社 御由緒 本庄市栄三ノ五
□御縁起(歴史)
本庄台地の末端近くに位置する東富田と西富田は、古くは一つの村であったが、中世の末期に分かれたものと思われる。 このことは、鈴木弘家文書の天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」に「両富田之村」とあることからも推察できる。 当社は、そのうちの西富田の鎮守として祀られてきた社である。
創建について『児玉郡誌』は、「当地は、鎌倉時代には武蔵七党児玉党の支族・富田三郎近家(親家)が居住したところで、当社はこの近家が勧請したものである」旨の言い伝えを載せている。ここにいう富田近家の居館と伝えられ、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと推定される屋敷の跡は、村の中央にあり、今では空堀の一部が残存するだけであるが、かつては水堀が残っていたらしく、女堀川の北側には「堀ノ内」の地名がある。こうした周辺の状況を考えると、当社の創建に富田氏がかかわった可能性は高い。
また、『児玉郡誌』は、新田義純の後裔である岩松満次郎が江戶時代に書いた石額があること、社殿は茅葺きで古い構造のものであること、かつてより京都吉田家の配下の神主内記が奉仕してきたことを記している。この記事に見える「石額」は現存し、表面には「金鑽大明神」とあるので、当時、京都の吉田家から大明神号を受けていたことが推察されるが、年紀がないため年代は不明である。
案内板より引用
境内の様子 神楽殿
交通量の多い道路沿いに鎮座してるが、境内は至って静かである。
社には不思議な防音装置が備わっているのであろうか。
拝 殿
児玉党富田氏は児玉郡富田村より起る一族である。武蔵七党系図に「有大夫弘行―武蔵権守家行―富田三郎親家(強力)―太郎近重―小太郎近行―又太郎親氏(観応二年十二月薩埵山高名)。近重の弟五郎惟近、其の弟六郎兵衛尉長家(承久乱、京方にて討死)」と見える。
社殿左側にある境内社。詳細不明。 隣には同じく境内社・八坂社が鎮座
境内社・八坂社の隣には多くの末社群が鎮座。 社殿左奥に鎮座する境内社。
こちらも詳細不明。 詳細不明だが、鳥居の左右には地中に埋も
た灯篭がある。洪水の影響だろうか。
富田三郎親家はかなりの怪力(強力)の人物であったようだ。吾妻鑑卷二十一に「建暦三年五月六日、和田の乱に与したる生け捕りの人々に富田三郎。七月十一日、富田三郎は強力人にすぐれ鼎をあげ石をくだくと云々、将軍家その芸を御覧ぜんがために富田を召さる。御感の余りに富田を免さるる」と記載されている。
ここに記されている建暦三年は1213年のことで、順徳(じゅんとく)天皇の代の元号である。前元号は承元(しょうげん)で、順徳天皇の即位にともない改元された。建暦年号は鎌倉時代の1211年から1213年までの3年間のみの年号だが、鎌倉幕府では執権の北条氏と、有力御家人の権力闘争が激化していた。侍所別当(長官)の和田義盛(よしもり)は、1213年(建保1)に北条氏打倒の兵を挙げたが、幕府軍に討たれ、一族とともに敗死した和田合戦が起こっている。
社殿の右側に聳え立つご神木
親家は和田合戦で和田側に加担したのだが、その怪力話を聞いた三代将軍源実朝が親家を呼び、その怪力を試す場を演出し、大鹿の角を差し出し、これを折る様に指示した。親家はこれを2本同時に折って見せ、実朝と列座していた一同を感心させ、その罪を許された。大力と言う理由だけで助命されたうえ、敵兵でありながら領地まで与えられた。
和田合戦では和田氏を初め横山党など、一族滅亡の憂き目に会った武士団もあり、その中でも異彩を放つ逸話となっている。親家はこれに深い恩義を感じ、それ以後は忠臣として活動し続け、その子孫も忠義を尽くし、承久の乱(1221)では親家の子息達は活躍し討死している。