山王堂日枝神社
・所在地 埼玉県本庄市山王堂228-1
・ご祭神 大山昨命
・社 格 旧村社
・例 祭 不明
山王堂日枝神社は国道17号を上里町方向に進み、「若泉一丁目」交差点を右折する。北上する形で進むと、国道462号に交差する十字路に達し、そこは直進する。その後埼玉県道351号沼和田杉山線に合流し、600m程進むと、「沼和田」交差点に到着し、そこを左折。左折してすぐ斜め右方向に進む細い農道があり、そこを右折し、400m程進むと山王堂日枝神社の社号標柱近郊に達する。
社の北側には利根川支流である御陣場川が東西方向から南東方向に流れ、河川右岸の土手近くに鎮座していて、水神を信奉する社であることが立地状況を確認すれば容易に想像できる。
丁字路付近にある社号標柱
参道正面 一の鳥居を望む。 参道右側、鳥居前にある案内板
日枝神社 所在地 本庄市山王堂二二八‐一
日枝神社の祭神は、大山咋命で、慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられる。
その後、元禄十五年(1702)に京都吉田家より正一位大明神の神号を授けられている。
社殿は利根川南岸、堤防に接し、明治四十三年(1910)の大洪水で本殿を破壊され拝殿を流失したが、同四十五年に再建された。
社殿の横にあるケヤキの大樹は、神社創建当時に植えられたものと思われ、樹齢四百年以上と推定される。目通り周囲五・一メートル、高さ二十六メートルで、先の大洪水でも残り、樹勢は今なお旺盛である。昭和五十一年本庄市指定の文化財となっている。
昭和六十一年三月 埼玉県 本庄市
案内板より引用
玉砂利が敷かれた参道 二の鳥居手前で左側に鎮座する石祠
手入れも良く周囲の環境設備も行き届いている 詳細は不明
朱色の二の鳥居
拝 殿
『本庄の地名』によれば、本庄市山王堂は、最北端に位置し、北側が利根川に面している。山王堂の東部には主要地方道である国道462号本庄伊勢崎線が南北に通り、利根川には坂東大橋が架かっていて、本庄市側から直接群馬県に通じるルートとなっている。
山王堂という地名由来として、『地名に遺る埼玉の史跡』では、山王堂は同所に古来あった仏堂である天台宗日叡派の山王日吉権現を祀ったものであったが、明治時代の時に神仏分離して、村社日枝神社となり、仏堂の名前は消滅したが、地名として遺ったといわれている。また上野国志に「武州児玉郡山王堂村は、古へ上野国那波郡に属し、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより武蔵国に属せり」と書かれており、江戸時代の寛永年間の洪水時までは上野国に属していたようだ。
拝殿正面上部に掲げてある扁額 社殿左側には「大黒天」等の石碑・
その他境内社等鎮座する。多くは詳細不明
那波家中証人之事(宇津木文書)には「天正十五年二月二十六日、山王堂兵庫頭・実子但し男子」と見え。厩橋城主北条氏照代官へ実子を人質に差出していた。この時の「山王堂」氏は児玉郡山王堂村より起った一族か、或は上野国那波郡山王堂村(現伊勢崎市)の住人か今となっては定かではない。
社殿の左側奥には庚申塔が取り囲むように並ぶ。 庚申塔の並びの一角に境内社・稲荷社が鎮座
実はこの庚申塔、塚等社殿の左側奥だけでなく、参道正面以外社殿を囲むように並んでいる(写真左・右)。明治43年(1910)の大洪水も含め、過去多くの大洪水に巻き込まれている。大量の漂着物の中にはどこにあったか判明しない多くの石祠や庚申塚等が散乱したのだろう。石祠の中には多く「水神」も含まれていたと思われる。それらを地域の方々が、一つに纏めて、神聖なる場所に祀らせたのではなかろうか。そういう意味において、これらの遺物は、当時の人々の苦労をしのばせる歴史の証人でもある。
社殿右奥に聳え立つご神体のケヤキの老木
本庄市指定天然記念物
山王堂日枝神社のケヤキ 本庄市指定天然記念物(1976年4月26日指定)
日枝神社の創立は江戸時代の慶長期以前と伝えられています。同社のケヤキは利根川堤防沿いに所在しており、その創立期に遡ると推定されています。目通り周囲は5.4メートルです。(樹高 26m、目通り幹囲 5.2m。推定300年以上。
本庄市 ホームページ参照
社殿右側に鎮座する境内社・大杉神社
PDF「利根川の水神信仰」によれば、『武蔵国郡村誌』には、「大杉社 平社村社の境内にあり祭神勧請年月日共に不詳祭日三月六月八月共に二十七日」とあるが、現在の例祭は10月17日である。社殿の前方には燈篭が1基あり、正面に「御神前」、右側は「天明三癸卯十一月日」、左に「舩持中」という刻銘がある。天明3年(1783)といえば、浅間山大噴火によって利根川の流路が変わったり、洪水の続出などもあり、流域一帯に大被害を与えた年でもある。
境内の様子
山王堂日枝神社の境内社である大杉神社は、群馬県堺に近い上里町黛から、本庄、深谷、妻沼、羽生、栗橋、幸手にかけて点々と分布する。そして利根川の舟運の安全と水害除けの水神として、利根川流域の各地に、多くは石祠として祀られていていた。
不思議と大杉神社の祀られた地点は、大半が破堤地点であるなど、何らかの被害を受けてきた場所と考えられていて、そこは、舟運の安全に限らず、洪水の時に危険な場所であるという、先人たちの鋭い観察力に基づいた警告とも捉えることができる。
東日本大震災での現地での社の配置でも分かる通り、先人は我々に何かしらの形で警告を発している。規模的には些細な対象でしかない石祠であっても、事前に由来等の確認は必要で、決して現代技術を過信して、過去の遺物や伝承等を見下すような対応をしてはいけないのだ。