飯倉住吉神社
・所在地 埼玉県児玉町飯倉836
・ご祭神 底筒男神、中筒男神、上筒男神
・社 格 不明
・例 祭 歳旦祭 1月9日 春祭り 3月15日 秋祭り 10月15日
新嘗祭 12月9日
飯倉住吉神社は、本庄市児玉町飯倉地区に鎮座する。途中までの経路は、塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を更に西行1.5㎞程。左側道路沿いに梨直売所が見え、そのT字路を左折、道路に沿って南下し、女堀川を越えて更に進む。なだらかな上りで緩やかなカーブの道路を進むと「住吉神社」のやや小さめな社号標柱が見え、そこを右折すると正面に社の鳥居が見えてくる。
社号標柱までは、周囲長閑な田畑風景が広がっているが、標柱を右折すると、道路両側には目新しい建物や施設が並び、その奥に社が鎮座しているという、不思議な感覚。
鳥居の左隣には駐車スペースもあるので、そこに数台駐車可能であり、一角に停めてから参拝を行う。
後に確認すると、塩谷諏訪神社・飯倉住吉神社・宮内若宮神社の3社は国道462号に沿って一線上に並んでいるような位置関係にある。
飯倉住吉神社 正面鳥居
鳥居を越えると参道右側に社の石碑が立っている。 東西に延びる参道。社殿は東向き。
住吉神社
児玉町大字飯倉八三六番地に鎮座する(飯倉字地下谷)明治前半期は 飯倉村字下ノ谷であった
飯倉の名は 中世源頼朝が伊勢内宮に武蔵の国飯倉御厨を寄進しそれに因むと言われております
創立年代もその当時までさかのぼることも推察されます
「明細帳」によると
明治四十年二月五日に 字八幡裏の八幡神社 字山路の稲荷神社 字日向の豊受神社を当代の境内社として移転している
「風土記稿」によると
住吉明神社 村の鎮守 法性寺持 下同 八幡社 稲荷社
「郡村誌」によると
飯倉村の頃には 住吉社 村社 中筒男命を祀る 勧請年月日不詳
祭神は
底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命の三柱を祀る
この三神は 本来海神であったが 転じて水神となり さらに農耕神として厚く信仰されるようになりました
境内社は
北野神社 八幡神社 稲荷神社 豊受神社の四社
一年を通して 里人たちが三三五五と参拝されています
江戸時代には 真言宗の法性寺社務を兼帯していました
祭りは
歳旦祭 春祭り 八坂神社祭 秋祭り 新嘗祭
子供御輿は昭和四十八年頃に造られました
七月十五日前の土日曜日に村を字を巡回します
御輿の中には 須佐之男命がまつられております
この神さまは天照大御神の弟君にあたります
天照大御神は日本の神さまの先祖とされております
御輿が里の家々をまわり巡回しますことは神さまが無事を確認するためだと伝えられております里人のすぎこしの日々が平安でありますようにと清めてまわっているという意味もあります
境内碑から引用
拝 殿
拝殿に対して南側(左側)は斜面となり、社の周囲は森林に覆われている。
拝殿前にも案内板あり。
住吉神社 御由緒 児玉町飯倉八三六
□御縁起(歴史)
飯倉は、中世の飯倉御厨にちなむといわれる。『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)五月三日条によれば、源頼朝が朝家安穏・私願成就のために伊勢内宮に「武蔵国飯倉御厨」を寄進した。『神鳳鈔』には、内宮の長日御幣を負担する御厨として五十町の田数があると載る。現在、地内には「飯倉御厨跡」として県指定旧跡がある。なお、飯倉御厨を現在の東京都港区麻布飯倉に比定する説もある。
『児玉郡誌』には「当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されている。
当地は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあることから、口碑にあるように村人が水神として当社を勧請したのであろう。そして、飯倉御厨が当地に実在したとすれば、当社の創建年代もその当時までさかのぼることも推測される。なお、『風土記稿』飯倉村の項には、「住吉明神社 村の鎮守なり、法性寺持」と載る。
案内板より引用
社殿の左奥に鎮座する境内社・石祠群(写真左、右)。詳細は確認できなかったが、「石碑」等から推察すると、八幡社・稲荷社・豊受社の三社は明治40年2月に移転され、合祀されているので、これなのどれかであろう。
参道の一風景
住吉神社は航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,300社以上あり、大阪府大阪市住吉区の住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社が始源とされていて、大和政権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰されたという。
祭神は「住吉三神」と謂われる底筒男神、中筒男神、上筒男神で、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。次いで神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神は皇后に神憑りして神託し、皇后の三韓征討に協力することで征討は成功する。『日本書紀』では朝鮮からの帰還に際して神託があったとし、住吉神の荒魂を祀る祠を穴門山田邑に、和魂を祀る祠を大津渟中倉長峡に設けたとする。
住吉三神を構成する底筒男命・中筒男命・表筒男命の「ツツノヲ」の字義については、諸説がある。ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ、夕方の月、宵の明星、星を指し、星は航海の指針に用いられることから、海神を示す説、「津の男」に見る説、「ツツ」を船の呪杖に見る説、船霊を納める筒に見る説、対馬の豆酘(つつ)に関連づけて「豆酘の男」に見る説、航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説などである。
その後仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰も、更には時代が下るにつれて禊祓・産業・貿易・外交・農耕神と厚く信仰されるようになる。
境内案内板にも「当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されていて、この地域は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあり,実際飯倉地域南方には多数の溜池があることから、村人が水神・農耕神として住吉神社を勧請したと考えられる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等