古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宿根瀧宮神社

 深谷上杉家は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。
 戦国時期の深谷上杉家には、4人の宿老がいて、「岡谷加賀守清英」「秋元越中守景朝」「井草左衛門尉」「矢井伊勢守重家」という。
 鎮守府将軍源経基の子孫と伝える宿老筆頭の岡谷加賀守香丹は深谷城北辺の守りとして延徳3年(1491)に築いた皿沼城を子の清英にゆずってこの曲田城(まがったじょう)に隠居した。岡谷家譜によると、香丹は城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開いたといい、寺は曹洞宗で岡谷山と号しているのだが、この「岡谷山」は寺を建立した岡谷加賀守香丹からきていると思われる。
 この曲田城は現在の深谷市谷之地域で、宿根地域のすぐ北側に接していて、「埼玉の神社」によると、この地は岡谷加賀守香丹が当地の開拓に尽くし、明応5年(14966月、当地一帯が大干ばつに襲われた際には、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励し、水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したため、この湧水地に社殿を建て、瀧宮神社と命名したという。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市宿根1
              
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
              
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祭り 410日 秋祭り 113
                   
大祓 1224
 深谷市街地から旧岡部町方向に国道17号線を進行、丁度東西方向に流れる同国道が、旧中山道と交わり、再度分離する「宿根」交差点の北側に宿根瀧宮神社は鎮座している。因みに、この社の住所は宿根一。この宿根地域の北側にありながら、中山道という重要街道沿いに鎮座していることから、地域の中心地となる場所に位置する社ともいえよう。
        
                  宿根瀧宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「宿根村」の解説
 宿之根などとも記す。櫛挽台地北端、上唐沢川左岸に位置し、東は萱場村、西は岡部村(現岡部町)。深谷領に所属(風土記稿)。村内を中山道が通る。もと宿根新田が別村であったが、元禄(一六八八―一七〇四)以降に宿根村に高入れされた。田園簿によれば、宿之根村は田方二四石余・畑方二〇五石余、野銭永八九五文、宿之根新田は畑のみ一〇一石、野銭永一貫二五〇文で、両村とも幕府領。
        
            すっきりと整備されている参道、及び境内
             
                             境内入口付近に聳え立つご神木
     ご神木の近くに「宿根総鎮守 龍宮神社御由緒」の掲示板が設置されている。
               残念ながら撮影できなかった。
        
       参道右側に設置されている「宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑」
 宿根総鎮守 瀧宮神社社殿造営記念碑
 当神社は、今を遡る五ニ〇年前の明応五年六月(一四九六年)、大旱ばつ時にこの地を掘りしとき、湧水激しく田畑潤し、領民大いに喜び、神様のお恵みとして明応七年社殿を建て、瀧宮神社と奉称して鎮座された。このときより今日に至るまで、宿根地域の守護神・心のよりどころとして先人より護り継がれてきた
 明治五年に建立された前社殿は一四四年を経過、老朽化甚だしく、再建が近年の心願であった。よってこのたび地域住民のご安泰を願い、ご神恩に感謝申し上げ、益々のご加護あらんことを祈念して、平成二十六年十一月に社殿造営委員会を確立し、新社殿造営の運びとなった。
 ここに、趣意に賛同する多くの皆様から多大なるご奉賛を賜り、社殿新築および末社と参道の整備を行い、遷御をもって完成をみた。
 本事業にご奉賛賜った皆様に感謝の誠を表し、記念碑にご芳名を刻して後世に伝える。
 平成二十八年(二〇一六)十二月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 瀧宮神社  深谷市宿根一(宿根字東通)
 宿根は、櫛引台地の北端部にあたり、その地名は「スキのネ」の転訛といわれ、「スキ」は石混じりの土、「ネ」は台地の意だという。
 当社の裏手には、昭和六十一年まで一〇〇坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗(みたらし)池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていた。この湧水は、地内に点在する小由(こよし)・鮒林(ふなばやし)・大古端(おおふるはた)の湧水地と共に当地一帯に広がる十八町歩の水田を潤す水源であった。
 創建は、この湧水とかかわりがあり、社名の瀧宮も、これにちなんで名付けられたものである。
社伝によると、当地は応永二十三年(一四一六)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守香丹の治めるところとなった。香丹は、延徳三年(一四九一)に隠居し、長子清英にその跡を譲ったが、その後も身を費やして当地の開拓に尽くした。明応五年(一四九六)六月、当地一帯が大干ばつに襲われるや、香丹は直ちに領民に水利の向上を督励した。水源地には、現在当社のある辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧き出し、耕地を潤した。歓喜した領民は、明応七年(一四九八)妻沼の聖天宮の神をこの遊水地に勧請したという。
 ちなみに、聖天宮は古代、利根川右岸に広がっていた女沼に坐す水神を祀っていたという伝承がある。
                                                                     「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿の手前で左側に祀られている          拝殿左側に祀られている
       八坂神社の石祠                       
富士浅間神社の石祠

     社殿の奥に設置されている       掲示板の奥には規模は縮小されているが、
    「宿根瀧宮神社の池の由来」の案内板      地域の耕地を潤した池が今でもある。

 宿根山神社の項でも載せているが、この宿根地域は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていたという。昭和三十年ごろまでは、日照りになると、群馬県の榛名神社から「お水」を頂いて来て、当社の神前に供え、雨乞い祈願を行っていたとの事だ。
 宿根瀧宮神社の池の由来
 深谷上杉氏四宿老の一人、岡谷加賀野守源香丹が、皿沼城から曲田城へ移り住んだ明応五年(一四九六)六月の大旱魃の時、貯水池を掘ったところ現在のこの場所よりまさに滝のごとく水が湧き出てきたので、この不思議な様を見て神様のお恵みお導きとして、社殿を建て瀧宮神社と奉称しておまつりしました。
 尚、古文書によれば当時の池の大きさは百坪余り(三百三十平方m)深さ丈余り(三m三㎝)と記されています。以上の事から名の由来の池を保護し、先人の遺徳を残すものです。
 二○○七年 七月 宿根自治会 記
                                      案内板より引用

        
            社殿右側に並列して祀られている石祠四基
          左から
天手長男神社・古峰神社・菅原神社・稲荷神社

 この末社の祭事に関して、728日に行われる八坂神社のお祇園は、子供が中心となって行う祭りで、幣束を先頭に、神輿が村内を巡行し、無病息災を祈る。また、1119日の天手長男神社の火防祈願は、弘化三年(一八四六)の本庄宿大火の際に当地も類焼したのを機に、火防の神で有名な寄居町小園の壱岐天手長男神社を勧請して始められた祭事と伝えている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑・案内板」等

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