古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大塚島鹿島大神社


        
                  
・所在地 埼玉県深谷市大塚島1292
                              ・ご祭神 建御雷之男神
                  
・社 格 旧大塚島等六ヶ村鎮守・旧村社
            ・例祭等 歳旦祭 11日 例大祭 410日 八坂神社祭 728
                 御嶽神社祭 88日 秋祭り 113
 利根川右岸の沖積低地に位置する当地域は、今でこそ豊かな一大穀物地域で、農業に適する地帯であるが、かつて「四瀬八島」と称し、南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島・血洗島・伊勢島と瀧瀬・小和瀬・横瀬・中瀬等の各地域は、利根川やその支流が幾重にも入り乱れ、たびたび氾濫と水難を被り、乱流している河川が、各地域を島のように孤立させてしまうこともあったという。現代の高度な技術がなかった当時、洪水の危険の高い湿地帯で当時の人々にとって開発するのに大変な苦労がしのばれよう。
 途中までの経路は伊勢方八幡神社を参照。この社から北行し、福川に架かる「田中橋」を越えて300m程進んだ丁字路を左折すると、大塚島鹿嶋大神社が進行方向右手に見えてくる。
        
                 大塚島鹿島大神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚島村」の解説
 小山川右岸の沖積低地にあり、東は沖宿(おきじゆく)村・沖村、南は丈方(じようほう)川(福川)を境に伊勢方村、北は内ヶ島村。深谷領に所属(風土記稿)用水は備前渠用水を矢島堰より取水している。
             
              参道左手にある「神社改修記念碑」
 神社改修記念碑
 当鹿島大神社は武甕槌命誉田別命様が奉祀せられております天慶四年春三月字石畑と称する所に鎮座されその後明暦年間に現在の地に遷祀されたと伝えられております現在の御本殿ならびに上屋は享保元年に再建せられその後上屋は明治九年に改築されたと示されておりますその後幾度の修理を行ってまいりましたがここに至り尚また老朽化が著しくなり社殿保存のために改修が必要となりましたこの改修工事にあたり氏子各位の敬神の念篤き基に氏子総代ならびに各字役員の合議がなされ本殿上屋屋根ならびに境内社の屋根葺替をはじめ社殿修理境内ブロック塀の摂築神域の整備等に着手し昭和五十六年五月吉日起工し昭和五十六年九月十五日めでたく竣工したここに氏子並に関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せてその大要を記し後世に伝える(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                    拝殿覆屋
 鹿島大神社  深谷市大塚島一二九二(大塚島字鹿島)
 当社の創建について、次のような口碑がある。天慶初年に平将門が下総に兵を挙げ、武蔵・相模を攻めると、各地の豪族も呼応して蜂起した。この時、当地の若者にも荷持ちとして応ずる者もあった。やがて将門は敗れ、荷持ちを解かれた若者は、故郷へ帰る途上、かつて出陣の折、無事帰還を祈った常陸国鹿島大明神に詣でて、報賽の上、分霊を請けて帰郷したところ、郷人は喜んでこれを祀った。時は天慶四年(九四一)三月であった。これが当社の創祀であり、往時の鎮座地は、現社地の北東四〇〇メートルの地で、石畑という所である。
 古くは、当社の氏子区域は、大塚島村・内ケ島村・戸森村・沖村・沖村中宿・田中村の六か村であった。このうち田中村に鹿島塚と呼ぶ地があり、昔、故あって鹿島明神社の神体を埋めたとの伝えがあって、この地より、大正三年三月に先の神体とおぼしき石棒が発見され現在内陣に納められている。
 当社が、現在の場所に移されたのは、明暦年間(一六五五〜五八)と伝えられている。この時に 氏子区域が変わり、現在の大塚島・起会(おき)・谷之(やの)となったという。
 現在の本殿は、明暦年間の当社移転に際しての建築といい、享保七年(一七二二)に修理された。拝殿を明治四十年に新設し、同四十二年に地内白山神社、沖宿の鹿島神社、谷之の八幡神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    拝殿の扁額
 内陣に「鹿島大神宮太玉串」と記す神札が数体ある。これは『大里郡神社誌』に「往古より常陸国鹿島神社禰宜神主宮島家より毎年一回御神符奉献するを年中行事とす」とあり、これを指さすものであろう。
 この神札奉納は、神札の裏書に三月日とあるところから、現在の四月に行われている春祭り(例大祭)時に納められたと考えられる。
 また昭和四十年代まで春秋の祭りに神楽が奉納されていたという。この神楽は、正式には「大塚島太々神楽」といい、神職を中心として大塚島地域内の有志によって相伝されていた。
 曲目は「岩戸開」「氷の川」「相生」「種蒔」「天長田」「美保崎」「諏訪海」「三韓征伐」「湯探」「男山」「御井」等であった。笛方を失ったために上演不可となっているが、練習会場である家には、今も太鼓・神楽面・採物である鍬・鋤・刀・弓、そして臼などが保管されている。
 
      社殿の向かって左側奥には、「要石」と呼ばれる磐座(写真左・右)
 要石は、地震を抑えると称される石といい、これを称する石は各地の神社に見られる。なかでも、茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島神宮の境内にあるものが著名である。直径25㎝、高さ15㎝程の丸い石で、頭の部分がわずかに窪んだ形をしている。地中に深く根を張っているといわれ、古来、地震をおこすナマズの頭を抑えているとの伝説をはじめ、数々の俗信に結び付いている。
『鹿島宮社例伝記』には、鹿島の大明神が降臨したときにこの石に座ったとある。古くは御座(みまし)の石とよばれていたことからもわかるように、要石は元来、神の依(よ)りきたる磐座(いわくら)であった。
        
          社殿の向かって右側に祀られている境内社・御嶽神社
    境内社内部には、何十本もの御幣が飾っていて、その奥に合祀社が祀られている。
「埼玉の神社」には、御嶽神社を主に祀り、「八坂・稲荷・神明・浅間・手長男・稲荷・天神・白山・稲荷・琴平・白山・三峰」を合祀、と載せている。
        
                  静まり返った境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「境内記念碑文」等
 

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