岡白鬚神社
・ご祭神 猿田毘古命
・社 格 無格社
・例 祭 不明
岡白鬚神社は国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に入り南下、2番目の交差点である埼玉県道353号針ヶ谷岡線との交点である十字路を右折する。この埼玉県道353号針ヶ谷岡線は途中で左方向へ車線変更するが、そのまま直進し、深谷私立岡部西小学校を越えて800m程進むと、道路沿い右側に岡白鬚神社が鎮座する。
岡白鬚神社を一旦通り過ぎると、道路沿い右側に墓地と社の間に、駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を行った。
参道正面
鳥居の扁額には「白鬚神社」と表記
参道を遮るように屹立する岡白鬚神社のご神木
地図等でこの地域を確認すると、櫛挽台地の一角にあるこの岡白鬚神社周辺は、南北に細長いこの住宅街が西側に防風林を背負うように立ち並んでいて、冬時期において周辺が赤城おろしの強い地域であったが容易に推測される。参拝日が1月という事もあり、新緑深い生命力あふれる時期とは違い、寒さや強風を耐え忍んできた痕跡が、樹木の肌の至る所に見える。
拝 殿
白鬚神社改築記念 碑文
当社は、岡村の新田として約三百年前の貞享年間(1684-1688)には開かれていたと言われている。
地内の浅間神社の入口にある庚申塔には、享保元年(1716)大谷勤右衛門、加藤徳左衛門、加藤佐左衛門、小暮長右衛門、茂木善右衛門等の名が刻まれておりこれらの先人達が新田開発に携わって来たものと思われる。
口碑によれば、明治二年(1765)に社殿の再建が行われたという。別当は、岡上にある真言宗岡林寺であったが、明治初年の神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、社格制定に際し無格社とされ、その後の合祀改築の際にも合祀されることなく現在に至っている。
その後、長い歴史とともに社殿も風雨に晒され耐えてきたものの、近年、特に老朽が目立つようになり、社殿改築が氏子の関心の的となっていた。
こうした中で、平成五年、字の初会の席上に於いて、敬神崇祖の念に燃え滾る氏子達より改築の件に関し、現況では応急処置よりも社殿全ての改築を、とする意見が大部分を占め、早急に検討するべき具体案の策定まで話し合いが進展し、次の案が出され、全員の賛同を得て改築委員会の発足をみたものである(中略)
解体後の整理中に、本殿が安置されていた台座(高さ二十センチメートル、縦横百十センチメートル)の裏面の隅の一部に、次のような記述が発見された。
「明和六年己丑九月奉納 念願成就祈信心 當地大工作 横山市之丞、小川年次郎、加藤右藏、大谷金七、茂木重次郎、北川文藏、新井源七」、さらに、本殿裏側にあった石碑の表面に、次のような文言を確認した。
「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」
以上、二つの記録により、当社が今から二百二十八年前の建立であったことが推測される。(中略)
以上、概要を記し、多くの先人達が精神の拠り所としてこの御宮を守り伝え、「敬神崇祖」の立派な精神文化を残されたことに対し改めて感謝を申し上げるとともにこのことが、永久に受け継がれていくことを念じ、此処に此れを建立す。(以下略)
本殿奥にあった謎の石。石の表面には人工的に刻んだ跡があるが、ハッキリとは判別しづらい。「白鬚神社改築記念 碑文」に「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」と書かれていた石碑の可能性はあるのであろうか。
社殿左側奥には菅原神社。手前の石祠は不明。 社殿右側に鎮座する八坂神社と大黒天2基
埼玉県には白髭神社・白鬚神社・白髪神社と白(髭・鬚・髪)を冠した社が意外と多く存在する。系統も3つに分かれているようだ。
1 滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
岡白鬚神社はこちらの系統に属すると思われる。
2 埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。
この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に集中して鎮座している。
3 清寧天皇を御祭神とする系統。
清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
社殿から境内を撮影
社の道沿いに石祠・お地蔵様等が整然と並んでいる。