小八林春日神社
この地区は行政区分が幾分複雑であり、大芦橋を南下し、荒川を越えたところから埼玉県道66号行田東松山線に沿って「中曽根」交差点を過ぎて次の信号のある交差点までが「吉見町・中曽根地区」の飛び地となっていて、尚且つその信号の東側付近が熊谷市の「箕輪地区」の飛び地になっている。小八ッ林地区はその分断された東地区と主要な西地区が北部荒川右岸でかろうじて接しているような少し歪な形となっている。
・所在地 埼玉県熊谷市小八林55
・ご祭神 天児屋根命
・社 格 旧村社
・例祭等
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0800121,139.4276778,16z?entry=ttu
小八林春日神社は埼玉県道66号行田東松山線を吹上方向から東松山方向に進む。吹上町方向から大芦橋を南下し、「中曽根」交差点をそのまま道なりに進み、次の信号のある交差点を左折する。300m程進むとT字路にぶつかる為、そこを右折する。周辺は進行方向正面が丘陵地帯特有の上り坂になり、最初の横断歩道が路面に表示されている丁字路を右折すると、道路沿いに左手に小八林春日神社の鳥居が見える。
社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、県道少し東側に入った場所に「熊谷市春日文化センター」という施設があるので、そこに車を停めて徒歩にて小八林春日神社に向かい、参拝を開始した。
鳥居の左側には多数の石碑や石製の灯篭等があり(写真左)、当時の氏子の方々の信仰の深さを伺う事ができる。また道沿いにある鳥居も丘陵地の端部であるため、ゆるやかな上り坂の参道と段階的に階段が設置されている(写真右)。
○大鳥居改築記念碑文
古くより、小八林村は谷林とも称し、中央台地を本村、西南台地を大明神又は原、東北を川岸と呼び、永禄の頃北条氏の所領であったが後、徳川幕府の天領となり、下って古河藩の領地として明治維新を迎える。なお、付近の丘陵地帯には。弥生時代の住居跡、円山遺跡等があり、又、平安時代には、低地においては牧場があったり民の営みがなされた地である。この由緒ある台地北谷に、村民の守護神として天児屋命を祭神とする春日大社を建立し、信仰してきた。
この神域は面積約六百坪、周囲は広大な山林に守られ、江戸時代には日光街道に面し、八王子千人同心の往来せし重要な地であった。しかし、この付近の道は大明神坂と呼ばれ、急坂な難所であった。これを大正十一年、時の村長長島甚助氏が、巨額の私財を投じ、新しい安全な道路を完成した。また神社の「一の鳥居」は、延享の一戊辰年の仲夏に建造された高さ一丈四尺六寸の華麗な欅造りの大鳥居であり、その後再三の天災に遭い、文政五年および安政三年と再度の修理を加え現在に至る。たまたま本年四月の突風にて倒れた大木により倒壊せり。
これを憂いて氏子一同あい計り大鳥居の建設となり七月旧来の地に再建せしものなり。ここに碑を建て来歴を後世に伝えるものである。(以下略)
大鳥居改築記念碑より引用
長めの参道(写真左・右)。参道の途中には二の鳥居がある。参道の周囲の雰囲気はとてもよい。
熊谷市小八林地区は荒川の右岸に隣接し、村の北側では和田吉野川が荒川へ合流する最終地点手前の地区でもある。同時に小八林地区の南西部は比企丘陵の端部であり、地形は崖状の台地となっていて、社の鳥居から東に伸びる参道は丘陵地帯だけありの坂道と階段で形成されている。調べてみるとこの地区の大部分に当たる平たん部の平均標高は18m~20mにも満たない場所が多いが、春日神社付近では最も標高の高い台地の上に鎮座している。
最後の階段を登り切るとようやく拝殿が鎮座する場に到着する。
拝 殿
拝殿に掲げてある扁額 向拝にはさりげないが精巧で見事な彫刻
神社再建記念碑等の石碑
○春日神社再建記念碑
春日神社は天児屋根命を主祭神として延享五年(一七四八年)以前より小八林の中で最も標高の高い小八林五五番地北谷に鎮座し、氏子が長きにわたって当社に寄せられてきた信仰の厚さが感じられる社でしたが、平成十二年七月四日天災(落雷)により焼失、その後時を置かずして氏子の総意により平成十三年十月十四日再建されたものである(以下略)
記念碑文章より引用
境内社
合祀されている社は、左から白山神社・稲地神社・金刀比羅神社・三島神社・天神社・八坂神社。その周囲にある石祠3基は不明。『風土記稿』小八ツ林村の項には、当社について「春日社村の鎮守とす 末社 天神」とあるほか、村民持ちの白山社・八幡社・第六天社及び稲荷社、大福寺持ちの雷電社、十林寺持ちの頭殿社・稲荷社についての記載があり、そのどちらかもしれない。
因みに一の鳥居付近にも石祠が数基あり、その中には「八幡宮」と彫られた祠もあった。
一の鳥居を社殿側から撮影
境内には「神社再建記念碑」のほか「春日神社御神体お迎え記念碑」という比較的新しくつくられた記念碑もある。それによると、平成12年7月4日夕刻天災(落雷)による火災で社殿・ご神体全てを焼失してしまったようだ。その後氏子の方々の総意を受けて社殿を再建し、翌年7月8日に氏子の方々23名の費用自弁による協力で、奈良の春日大社から御神体の分霊を受けた。また当日夕刻には帰省し、社殿内宮に鎮座の儀式も執り行ったという。
今を生きる我々にもそのような伝統や過去から受け継いだ文化を継承し、それを後代の人々に何かしらの形にして残す義務があるのではなかろうか。
ふとそのような事を感じた参拝であった。