下児玉金鑚神社
児玉党の本宗家は、初めは児玉氏(平安時代後期から末期)、次に庄氏(平安時代末期から鎌倉時代初期)、 そのあとを本庄氏(鎌倉時代前期から室町時代)が継いだ。児玉氏の嫡流は多くの氏族(支族)に分かれていった。特に直系の嫡流、児玉氏の本宗家4代目である家弘は、現在の児玉から本庄の地に土着し、庄氏を名乗った。源平合戦時の児玉党の党首も本庄の出(庄氏)である。従って、その後も児玉氏を称している一族は全て分家格に当たり、実質的に庄氏の後を継いで本宗家となった本庄氏が児玉氏にとっての本宗家格に当たる。なお児玉家行(児玉氏の本宗家3代目)の次男は塩谷氏を名乗り、三男は富田氏を名乗った。
児玉郡に居住した児玉党一族は嫡流の庄氏を含む庶流に至るまで一族の守護神として金鑚神社を崇敬し自らの居住地には当該神社を勧請しており、そのことから金讃神社の分布図は児玉党一族の勢力範囲を示すものとも言える。
・所在地 埼玉県児玉郡美里町下児玉322
・御祭神 天照皇大神 素戔嗚命 日本武尊
・社 挌 旧下児玉村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月3日 大祓 7月28日 例祭 10月19日
新嘗祭 12月15日
地図 https://www.google.com/maps/@36.2049214,139.1605877,16z?hl=ja&entry=ttu
下児玉金讃神社は、埼玉県道75号熊谷・児玉線を旧児玉町方面に進み、コンビニエンスが右側にある十条交差点を右折し、道なりに真っ直ぐ進み、小山川を越えた最初のY字路の交差点を左折すると右側に同神社が鎮座する社叢が見えてくる。残念ながら駐車場はなく、社の右側手前に社務所があり、そこに細長い道があり、そこに停め参拝を行った。
下児玉金讃神社正面
入口付近にある社号標石 住吉社、一心霊神、北辰尊星神等
「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているが、これは北向神社の伝承とほとんど一緒であろう。
元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられている。
下児玉金讃神社正面参道 社殿手前左側にある神楽殿
拝 殿
拝殿左側に設置されている案内板
金讃神社 御由緒 美里町下児玉三二二
□御縁起(歴史)
児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(一三九〇)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(以下略)
境内案内板より引用
境内社 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社
境内にあった「享保10年(乙巳=1725年)」の石碑
この石碑は「二月吉日」より下がやや読み取りづらい。1725年でこの地域に関係している事項としては明和元(1764)年に発生した「伝馬騒動」の首謀者である義民遠藤兵内の生年であるが、それに関連した石碑だろうか。
下児玉金讃神社 遠景