古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関兒玉神社

 
       
             ・所在地 埼玉県児玉郡見美里町関374
             ・御祭神 仁徳天皇他13柱の神
             ・社 挌 旧関村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 関兵霊神社祭 213日 八坂神社祭 725
                  例祭 1015
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.194797,139.1846486,16z?entry=ttu 
 
 関兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。
       
                    神社遠景 小ざっぱりした開放的な空間
               一の鳥居に掲げてある額には「児玉」ではなく「兒玉」と書かれている。
           
                               神楽殿
 参道を進みすぐ右側に神楽殿がある。柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。
「美里町の文化財」には、関の兒玉神社の秋季大祭に、社前に奉納される獅子舞(ささら)は、江戸時代中期の享保年間、今からおよそ270年前に相模の国の人がこの地へきて、獅子舞の舞い方、笛、太鼓、謡曲の一切を教えたのが始まりと伝えられているといい、現在は、地元・関の中学生が伝統を継承し、毎夜練習に励んだ成果を10月の大祭本番に披露しているという。
           
                                拝  殿
 兒玉神社の創建年代は不詳だが、言い伝えによると鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したという。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したという。
             
        境内に設置されている案内板                     本 殿
○兒玉神社  御由緒    美里町関374
□御縁起
 
美里町関は山崎山丘陵から志戸川流域に広がる農村地帯で、川輪・倉柱・八幡関・大関・小関・芝原・田中の字がある。川輪は猪俣党川勾氏の本貫地とされ、江戸時代は旗本安藤氏の知行地であった。社伝によると、当社は鎌倉時代に関村出身の関城院という修験者が、大和国大峰山で修行を行い、満願後に帰村の途中、鶴岡八幡宮に通夜して霊夢を感じ、当地に若宮八幡宮を創建したのが始まりという
 明和元年(1764)には、関村名主遠藤兵内を中心に過酷な伝馬助郷の免除嘆願の直訴(伝馬騒動)が起きた。これにより増助郷課徴は中止されたが、兵内は獄門の刑に処せられた。しかし、郷土を救った義民として崇敬が強く、文久三年(1863)白川家御近習席中嶋数馬により、神祇伯白川家より正一位の官位を受け「関兵霊神」として境内社に祀られた。
 明治四十年四月十七日に近郷の十三社を合祀し、社号を若宮八幡社から児玉神社と改称した。例祭には相模国から伝承された獅子舞と「川輪の神楽」が奉納される。また関兵霊神祭や例祭には「兵内くどき」が奉納される。
                                                           案内板より引用                                                    
            
                            社殿の奥にある石祠群
 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。
            
        石祠群の並びで、本殿の後ろ側に祀られている義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)

○義民義民遠藤兵内お宮改築記念碑
 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。 
                                                         美里町史より引用
         
                          鳥居の左側にある御神木
            

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