古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

貴先神社

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り、柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。現在群馬県高崎市から伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」又は「例幣使街道」と呼ばれている。
 その街道沿いには15カ所もの宿場町が存在していて、6番目の宿が「木崎宿」である。この宿場町は、木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いにあり、地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされ、飯売女を置いた旅篭屋が多くできていたという。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後から木崎に年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれている。越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活を強いられ、彼女たちはこの寂しさから、故郷や家族を忍び、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われている。
 その後八木宿(栃木県足利市)で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられている。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれていて、木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められている。
 なお平成17328日、合併に伴いに改めて新市の指定重要無形民俗文化財として指定されている。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田木崎町甲637
             
・ご祭神 須勢理比売命
             
・社 格 旧木崎宿総鎮守 旧村社
             
・例祭等
 新田下江田矢抜神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を右折する。この県道は嘗て旧日光例幣使街道であったのだが、その道路を東行し、県道332号桐生新田木崎線が合流する交差点から少し南下した所に貴先神社は鎮座する。
        
                   貴先神社正面
 
          一の鳥居                               参道の様子
 境内は鬱蒼とする大木で覆われ、境内社や石祠、石碑、石灯籠等も数多く建立されていて、社の規模はやや小さいものの境内は落ち着いた雰囲気になっている。(*但し社殿裏手にある社務所や公園等を境内として含むのであればかなりの広さともいえよう)
        
                  拝殿前の二の鳥居
        
                      拝 殿
 貴先神社のご祭神は須勢理比売命(すせりびめのみこと)である。この神は、『古事記』『出雲国風土記』等に見える女神で、『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。但し『日本書紀』にはみえない。
 誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり国津神である大国主神の正妻。
 根国(ねのくに・地底の国)にきた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の前身)と結ばれ、夫が父から課せられる難題を解決するのをたすけ、父の宝物をもって夫に背負われて根国を脱出した。大己貴神は、須勢理毘売命を妻にして初めて大国主命(おおくにぬしのみこと・葦原中国の支配者)となることから、巫女(みこ)王的本質をもつといえる。
        
                                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
                          木鼻部左右の彫刻も見事である(写真左・右)
 ところで大国主神は先に結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて木俣神を置いて実家に帰ってしまった。
 また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した八千矛神は大倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく鎮座することとなったという。
 スセリビメの持つ激情は、神話において根の国における自分の父の試練を受ける夫の危機を救うことに対して大いに発揮されるが、一方で夫の妻問いの相手である沼河比売に対して激しく嫉妬することによっても発揮される。この嫉妬の激しさは女神の偉大な権威を証明するものだという説がある。
 また「須勢理」は「進む」の「すす」、「荒ぶ」の「すさ」と同根で勢いのままに事を行うこと、「命」が着かないことを巫女性の表れと解し、「勢いに乗って性行が進み高ぶる巫女」と考えられる。
        
              本殿裏側の破風部位の彫刻もまた見事 
 
          境内に祀られている幾多の石祠・石碑等(写真左・右)

 太田市新田木崎地域に鎮座する貴先神社は、古くから木崎宿の総鎮守として信仰を集めてきた神社である。須勢理比売命は大国主命の后(きさき)だった事から貴先(きさき)という社名になったと云われ、貴先から木崎という地名が生まれたという。また木崎宿は飯盛女の多い宿とされ、総鎮守である貴先神社は彼女達から信仰の対象になっていたという。
        
                  境内社・八坂神社
        
       八坂神社拝殿上部に掲げてある扁額。扁額周辺にも精巧な彫刻が施してある。
        
 八坂神社の右隣に祀られている境内社。但し覆屋内には立派な本殿があり、狐像も見えるので、稲荷社の可能性もある。

 貴先神社の社殿裏手に当たる北西側には、社務所や公園が併設され、子供達の遊び場・遊具もあり、敷地内は綺麗に整備されている。その一角に「新田の名木」と記されている案内板がある。
        
                                       新田の名木
                             樹木名 ヒヨクヒバ(比翼檜葉)
                             所在地 貴先神社境内
                             樹 齢 二~三〇〇年
                             目通り 三.七メートル
 一般的には「イトヒバ」と呼ばれ、わが国では本州の東北中部以南、四国、九州まで植栽し、樹形は楕円形。日当たりのよい場所で、土壌は乾湿中庸な肥沃土を好む。生長はやや遅いが萌芽力があり、刈込みに耐える。潮害にやや弱く、煙害には中程度。
 比翼とは二羽の鳥が互いにその翼をならべることの意がある。(以下略)
       
                
新田の名木(写真左・右)


参考資料「太田市HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「日本歴史地名大系 木崎宿」
    「Wikipedia」等


拍手[1回]