上岩瀬御霊神社
・所在地 埼玉県羽生市上岩瀬632
・ご祭神 火雷天神(菅原道真公) 早良親王 伊豫親王 文夫人
藤原広嗣公 藤原夫人 吉備公 橘逸勢公
・社 格 旧上岩瀬村中妻鎮守
・例祭等 春祭り 2月25日 夏祭り 7月7日 秋祭り 10月15日
国道122号線羽生バイパスを利根川方向に北上し、「桑崎」交差点を左折、750m程進行すると秩父鉄道の踏切が2か所見える変則的な十字路となり、そこを左折し南下すると正面にこんもりとした社叢林が見えてきて、「中妻会館」のある十字路を左折すると、すぐ左手に上岩瀬御霊神社の真新しい石製の鳥居が建っている。地図を確認すると「秩父鉄道 新郷駅」から直線距離にして300m程西側にこの社は鎮座している。
中妻会館には数台分の駐車スペースが確保されている。
上岩瀬御霊神社正面
上岩瀬地域は、中妻耕地と中宿耕地から構成され、御霊神社の氏子は、上岩瀬地域でも、中妻耕地の御霊組が古くからの氏子であるという。但し、近年は神社に対する意識は大きく変わり、始めこそ御霊組が祀る社であったのだが、現在は上岩瀬地域持ちの社の一つに数えられるようになったという。
入り口付近に設置されている案内板
ご参拝のみなさまへ
御霊神社の由緒
当神社は、上岩瀬中妻地区(御霊組)に鎮座しています。
江戸時代以前、利根川(現在の会の川)が氾濫した時、はやり病(伝染病)に悩む村人が、京都から村の守り神として「御霊神社」を創建したと伝えられています。
ご祭神は、火雷天神(菅原道真公)・早良親王・伊豫親王・文夫人・藤原広嗣公・藤原夫人・吉備公・橘逸勢公の八柱で、村人は鎮守様として崇め、神々からたくさんの恵みを受け、自然と共存共栄のもとに生活を営んできました。
自然の恵みと祖先の恩に感謝して、日々の喜びを報告し一人ひとりの願い事をかなえてもらう…このことが私たち氏子の身近な心のよりどころになっているのです。
平成十三年(西暦二〇〇一年)十二月に社殿が改築されました。これからも氏子の心の支えとして御霊神社を護持していきたいと思います。
当神社は、学業・安全・健康祈願などに霊験があると伝えられています。
氏子をはじめ、みなさま方の心からのご参拝をお願いいたします。(以下略)
案内板より引用
案内板に記されている「江戸時代以前の利根川(現在の会の川)が氾濫」とは、砂山愛宕神社で解説している「天正年間(1573年〜1592年)に発生した会の川の洪水」であろうと思われる。砂山愛宕神社では「壊滅状態になったが、文禄年間に復興して村を再建、鎮守として祀った」と当時の砂山村が壊滅状態となった事と、その後再建された事のみであったが、当社では「はやり病(伝染病)」の発生を載せている。砂山のみならず、当地域も勿論壊滅的な被害であったのは言うまでもないことと想像するが、その後に発生している伝染病という生々しい状況をこの地の口碑にも伝えているところが、歴史的な真実性を増しているようにも感じた。
境内の様子
往古、利根川が氾濫した後に疫病がはやり、死亡者の多い時は、怨霊の祟りであると恐れ、疫病除けのために祭りを行っていた。また、火雷天神として菅原道真公を祀ることから、現在では学問の神としても崇められている。
拝 殿
御霊神社 羽生市上岩瀬六三二(上岩瀬字御霊)
当社は上岩瀬の中妻耕地の御霊組に鎮座する。社は御霊組の中でも少し小高い所にある。『風土記稿』によると砂山あたりを流れる会の川は、古くは利根川の本流であり、殊に昔は流れも広く、岩瀬の名の起こりもここからくるとある。
口碑によると「往古、利根川が氾濫した折、当村に、はやり病が起こり多くの村人が倒れた。医薬も乏しいころのため、回復する者も少なく村は疲弊した。村人はこの困窮から逃れんがために相計り、京都より村の守り神として御霊神社を勧請した」と伝える。
祭神は火雷天神・早良親王・伊豫親王・文夫人・藤原広嗣公・藤原夫人・吉備公・橘逸勢公の八柱である。
神仏分離までは真言宗医王寺が別当として当社と中宿の天神社・浅間神社を管理していた。また、拝殿に掛かる社号額には「御霊大明神」とあり、裏には「武州羽生領上岩瀬邑醫王寺 奉懸天明二年壬寅年秋九月九日貞宥八十歳謹書 氏子中別当恵住傳大造立也」と記されている。
明治に入り、当社は神仏分離のため権現の神号を廃した。内陣の幣串に「皇政之御一新ニ付権現号御廃止之事神号改如是□□□之神号明治元辰極月ヨリ神主」の墨書がある。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある「御霊大権現」の扁額 本 殿
神仏分離前の名残を残している額であろう。
境内に並んである石碑等
ところで「埼玉の神社」には、当地に伝わる伝承・伝説を載せている。
昔、名主の上原家の手代が仕事の帰りに、ふと立ち止まるとグーグーと大蛇がいびきをかいて寝ていた。びっくりした手代は、あわてて帰り、旦那に話したところ、旦那は陣笠をかぶって勇ましく大蛇に近づいた。すると大蛇が突然目を覚まし、真っ赤な口をあけて旦那に飛びかかってきた。あわてたのは旦那で、やっとの思いで逃げ帰り、屋敷の塀を乗り越えて庭に入ったところ、大蛇も乗り越えてきた。この時、旦那は腰の刀を抜き、下から突き刺してこれを退治した。大蛇は芝原に埋めたが、大きいため一回では運びきれず、切り分けて七畚半(ななもっこはん)もあったと伝える。なお、この大蛇を退治した時の刀は今でも上原家に残っているという。
*畚(もっこ)とは、担い運搬用具の一種。わらむしろあるいはわら縄,フジづるなどを網目状に編んだものの四隅に吊紐をつけ,てんびん棒を使って運ぶ。本体は網目状のものが多いが,袋状のものや皿状のものも見られる。その名称は,元来〈もちこ(持籠)〉から変化したといわれている。形状が不定なものを盛って運ぶのに適しており,土砂,堆肥などが主な対象である。また,農作物を運ぶ際にも用いられた。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「改訂新版 世界大百科事典」「境内案内板」等