古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下岩瀬八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市下岩瀬528
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧下岩瀬村鎮守
              
・例祭等 不明
 小松三神社から南北に通じる道路を北上し、国道122号線合流手前の細い十字路を左折する。進行方向の右手には、真新しい「羽生病院」の建物が見えるのだが、病院の敷地を通り過ぎる手前あたりで、道路の反対側を見ると、下岩瀬八幡神社の白い石鳥居が見えてくる。地図で確認しても、丁度上記病院の南側に鎮座しているので、説明はしやすい。
 社に隣接している「下岩瀬東区集会所」に数台分の駐車スペースあり。
        
                 
下岩瀬八幡神社正面
 社は東向きで、鳥居の東側にも参道は続いているのだが、専用駐車場の如く、車両が多数駐車されていたため、遠景からの撮影はできなかった。周辺を確認すると、社の周囲は羽生病院や一般企業・工場、大学等多く誘致し、市としては経済的な収入源ともなり、また地域の活性化にも繋がることにもなろうが、下岩瀬地域の風景に限っていえば、ここ数十年で環境も激変してしまったのであろう。
 但し、境内にはご神木であろう、樹齢300年程と推定される松の大木があり、地域の環境が変わりゆく中、孤高の如く聳え立っている姿が不思議と心強く感じられた。
        
                    拝 殿
 八幡神社  羽生市下岩瀬五二八(下岩瀬字内野)
『風土記稿』のよると、隣村砂山の辺りを流れる会の川は、昔は流れも広く、当村もこの川に沿った地のため岩瀬の名が起こったとある。
 また、口碑にこの村を開いた村人が五穀豊穣を祈って稲荷社を祀り、それが後に八幡神社に変わったとあるが、詳細は不明である。
 社記によると、当社はもと若宮八幡社と称し、入江駿河守の屋敷鎮守であったが、後にこの屋敷はつぶれて社が残ったとある。また、一説に慶長五年当村入江宗六なる者が創立したが、その後、元和三年に同家と話し合いの上、本村鎮守になるとある。別当は幕末まで、真言宗医王寺が務めていた。
 祭神は誉田別命で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りであるが造営年代は不明である。
 主な奉納物としては、文久二年奉納の川中島合戦の大絵馬や、当地の村人が伊勢参りの記念として上げた伊勢参宮の図がある。
 また、境内には、弘化四年の三峰大権現の石祠があり、このころに三峰講が盛んに行われていたことをうかがわせる。
 現在、当社の所有地は境内の前方に約九百坪ほどあり、これは往時、願掛けをしてこれがかなったため寄附をしたものといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   拝殿手前で左側に建つ伊勢講記念碑等      社殿の右側奥に祀られている石祠等
                       左側は不明。隣の石祠は境内社・三峰大権現

 氏子区域は下岩瀬の下組で、氏子数は約九〇戸であるという。当地は、現在水田稲作を中心とする農業地帯であるが、戦前は陸稲(おかぼ)や豆を栽培していた。また、養蚕も盛んであり、当地には蚕の種類も多く、取れた繭は羽生の仲買に出荷していたという。
       
          社殿のすぐ近くに聳え立つ大松のご神木(写真左・右) 
『日本歴史地名大系』 「下岩瀬村」の解説
 中岩瀬村の西にあり、南東から南にかけては会の川左岸の自然堤防で小松村に続く。古くは上・中の岩瀬村と一村で、宝永年間(一七〇四〜一一)三村に分れたともいうが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに岩瀬村一村で高付されている。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等  

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