古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上村君雷電神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市上村君809
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧上村君村鎮守
             
・例祭等 梵天祭 331日 夏祭り 715
 上村君避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれた社。避来矢神社から埼玉県道・群馬県道304号今泉舘林線に東行し、右折後300m程進んだ十字路を左折する。車一台分程の道幅しかないような狭い農道、周囲一帯が田畑風景の中で、さすがに人気が全くない道を進むと、前方にポツンと「上村君新田集会所」が見え、その並びに上村君雷電神社が静かに鎮座している。
        
                                 
上村君雷電神社正面
 当社は、同地域内に鎮座する避来矢神社と共に上村君の鎮守と呼ばれ、両社の年中行事も重なるものが多い。従って氏子区域・役員・運営費もまた重複し、氏子個人の初詣や初宮参り・新婚宮参り等の参詣は両鎮守へ行くことが多いという。
 この地域は上村君避来矢神社で解説したように、古くから落雷が多い土地柄で、昔は雷の大きいのが鳴ると蚊帳の中にうずくまり「雷神様、雷神様」と唱えたものという。また、耕作地に落雷があり作物に被害を受けると、注連を四方に張り、被害が広がらぬように祈ったという。
 また戦後、日照りが続いた年があり、陸稲が弱ったため、区長の発案により雨乞いが行われた。まず神前で祈願し、鳥居の前にある池の水を氏子全員で汲み出したという。
 
     
境内地正面の左右両端部の場所に青面金剛の庚申塔がある(写真左・右)。
 
 境内に並んだ「太々御神楽」「伊勢講記念碑」     境内東側には力石がある。

 羽生市では上村君・桑崎・下手子林の3団体が獅子舞保存会を結成して活動をしており、市指定無形民俗文化財に指定されている。そのうち「上村君の獅子舞」は、戦国時代末期の元亀・天正年間(15701592)に羽生城の救援に訪れた上杉謙信が将兵の士気を鼓舞するため、上野国(現在の群馬県)からささら舞師を呼んではじめられたという伝承がある。
 獅子舞は避来矢(ひらいし)神社と雷電神社で奉納されていて、現在は714日に近い土曜日または日曜日に実施されている。
        
                                     拝 殿
 雷電神社 羽生市上村君八〇五(上村君字新田)
 当地は村君郷と称し、江戸初期には上村君・下村君に分村する。村君郷の初見は文明一八年の道興准后の『廻国雑記』に「誰世にかうかれそめけん朽はてぬ、その名もつらきむら君の里」と歌われ、当地を通った旨が見える。更に『風土記稿』には、「下村君永明寺に蔵する永禄六年廣田式部少輔直繁の文書にも、太田庄北方村君の郷と見えたり、されば当村は古へ太田庄の内北方に属せしならん」と載せる。
『明細帳』には「往古上君村下村君村一村タル時総鎮守二シテ其後上下村君分村ノ時両村鎮守争トナリシカ到底ハ本村二帰セシモノト口碑二伝フ其他詳ナラス」と記され、その創立を当地が村君郷と呼ばれていた時代にさかのぼっている。
 祭神は別雷命である。神仏分離以前の別当は総徳院が務めた。口碑によると、総徳院の住職が博打で負けて、その形に神社の立木を大小残らず取られたため、これに驚愕した前新田・後新田の両氏子が協議の上で寄附を募り、慶応三年一○月に五五両で買い戻したといい、境内に『當雷電神社樹木奉納寄進記』の石碑が残る。時代は下り、戦後の学制改革により当地にも中学校新築が告げられたが、終戦直後の経済的窮迫から建築費捻出を氏子の共有地と意識される当社境内の大木の売却に求め、多くが伐採された。幕末期において氏子が資力を尽くしたにもかかわらず、鎮守の森の景観はこれを機に一変した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
上村君雷電神社から東側少し離れた場所にポツンと祀られている石祠

 どの神様を祀ったものなのかは判明せず。但し「埼玉の神社」には両鎮守の境内及び飛び地境内にはそれぞれ天神社が祀られ、戦後までは天神講が盛んに行われたという。この石祠はその天神社であろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「羽生市HP」等

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