上新郷愛宕神社
・所在地 埼玉県羽生市上新郷6728
・ご祭神 火産霊之命
・社 格 旧上新郷村鎮守
・例祭等 例祭日 6月24日
羽生市の最北端で、国道122号線が利根川を渡る「昭和橋」のたもとに位置する「道の駅 はにゅう」から、上記昭和橋を西方向に進む。栃木県道・群馬県道・埼玉県道7号佐野行田線を道なりに進行すると左カーブに曲がり、南方向に進路は変わるのだが、そこはそのまま1㎞程進むと「愛宕神社前」交差点に達し、その手前左側に上新郷愛宕神社が見えてくる。
上新郷愛宕神社一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「上新郷村」の解説
東は会の川を挟んで桑崎(くわさき)村、上岩瀬(かみいわせ)村・中岩瀬村・下岩瀬村など。旧利根川自然堤防上の村で、河畔砂丘の跡もみられる。嘗て利根川は当地で二又に分流していたが、文禄三年(一五九四)忍城(現行田市)の城主松平忠吉の付家老小笠原三郎左衛門吉次により締切られたと伝え、旧河道は会の川となった(川俣締切跡として県指定史跡)。小笠原吉次が当地西福(さいふく)寺に宛てた同年三月の会の川堤見廻り証状があった(風土記稿)。
忍領に所属(風土記稿)。天正一九年(一五九一)六月、忍城主松平家忠に宛行われた一万石のうちに「新郷・下新郷・荒木・別所」の四千七二四石がある(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。慶長一三年(一六〇八)三月一五日の騎西郡忍領之内新郷御検地水帳(漆原家文書)があり(二二冊のうち一冊現存)、上新郷・下新郷の別記がない。
二の鳥居 延宝5年9月銘
一の鳥居から一旦左側に曲がった先に二の鳥居があり、そこから正面に社殿が見えてくる。
よく見ると、鳥居の左側柱の根元に力石が1個ある。
江戸時代、この上新郷地域には八王子宿から日光へ至る日光脇往還と呼ばれる街道が通る交通の要衝にある宿場町で、本陣や脇本陣が設けられていた。現在でも社の南側には上新郷の宿場町が広がっている。当時、街道沿いでは「新市」が立ち、5と10の付く日には市が開かれていたと『新編武蔵風土記稿』には記されている。
『新編武蔵風土記稿 上新郷村』
「又八王子千人同心日光山への交代も、此道にかゝれり、毎月五十の日市ありて、諸品を鬻ぐ(ひさぐ)、其始は傳へざれど、【家忠日記】天正十九年十月二十一日の條に、新郷市日を百塚に新市を立て引んとし、同二十六日新郷市の儀大方相済とみえたり、」
参道の様子
よく見ると、社殿は小高い塚の上に建てられている。当初は高台と思ったが、調べてみると「愛宕神社古墳」とも呼ばれている古墳(円墳)であるという。愛宕神社古墳は、現在墳丘が大きく変形しているが、直径15m、高さ2.5mの円墳と推定され、かつてこの古墳から大刀、鎧が出土したとの伝承があるという。この新郷地域には、「新郷古墳群」と呼ばれている古墳群が存在していて、愛宕塚古墳・前浅間塚古墳・横塚古墳・鐘山古墳、三墓山古墳・下新郷横塚古墳・下新郷1号墳の七つの古墳が知られているが、江戸時代当時からして、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して加須市を流れる会の川筋と現在の河道を東流する筋と分かれていたという。それより遥か古い時代は、利根川、及びその支流が至る所に乱流する洪水常習地帯ではなかったろうか。行田市・酒巻古墳群のように埋没している古墳がこの地域にも存在しても決しておかしくはない。
『新編武蔵風土記稿 上新郷村』にも「百塚と云は村内の小名にして、今も其唱へあり」と載せてあり、古墳を匂わせるような地名が残っている。
どちらにしても、この地域は、自然災害に苦しめられながらも、古くから人々が集落を築き、生活を営んでいたことは間違いないであろう。
拝 殿
愛宕神社(おだきさま) 羽生市上新郷六七二八(上新郷字坂本)
新郷は両野(上野・下野)往還・日光裏街道として利根川を前にした交通の要衝にある宿場町であり、五十日(五の日と十の日)に六斎市が立つ商業の町であった。町の中心となる本宿は江戸期に上・中・下の三宿に分けられた。
文化元年上新郷村名主須永某の書き上げに「愛宕神社は俗におだき様と呼ばれ除地壱反六畝六歩、免地町並三番壱反拾二歩、祭神火産霊之命、本殿梁間三間桁行三間屋根瓦葺、内宮八尺四方屋根柿葺(こけらぶき)、拝殿梁間二間桁行四間屋根瓦葺、石灯籠寛文年紀、石手水鉢正徳年紀、石鳥居延宝年紀」とあり堂々たる神社であったことが知られる。
当社の別当は、境内地にあった真言宗愛宕山勝軍寺が務めていた。慶応四年三月八日、当社本地仏勝軍地蔵は松平家の武運長久を祈ったものとして官軍に焼かれたとの口碑がある。
現在の本殿は、明治二五年に社殿が暴風雨により倒壊し、再建したものである。
明治四五年、下宿の天神社、上宿の寄木神社、小須賀道の道祖神社、西新田の諏訪神社を合祀し、更に大正一二年に下宿の東照宮社を境内社として合祀している。右のうち天神社は、合祀後、旧氏子区に疫病がはやったため返還する。境内末社に根本神社があり、コッパ天狗を祀るという。また、昭和の始めまで口が鳥のようになり背中に羽根がある天狗の木像を安置していた。
「埼玉の神社」より引用
社殿から境内方向を撮影
この交差点は社が丁度出っ張り部となっていて、二の鳥居から南側には県道が通っている。
まるで、嘗て社の参道がかなり南側に伸びていたような配置である。
石段を下りると、すぐ左側には社務所があり、その隣に境内社が横一列に並び、祀られている。
左から根本神社・寄木神社(写真左)。その右隣には、諏訪社・合祀社が祀られている(同右)。合祀社には、塞神・秋葉社・三峰社・道長千波神・金毘羅社・東照宮が祀られている。
因みに、境内社の根本神社は、古くはブリキで作った草鞋や羽団扇を描いた絵馬が上げられた。寄木神社は利根川を流れ着いたという「大明神」と刻した木片を祀り、古くは子供たちが行灯をともしたという。道祖神社は旅の神といわれ、出かける時に大きな草鞋と竹筒二本に神酒を入れて供えたという。
境内にある、所謂神興庫であろうか。
祭礼日は六月二四日で、古くは前日の宵祭りには露店も多くにぎわった。また、翌晩は本祭りで、近くはもとより、群馬方面からも若衆が遊びに来たという。夜には芝居があり、夕方六時には神興が出た。
祭り当日には「西新田の獅子舞」が行われた。奉納される場所は、愛宕神社・中宿八坂神社・本陣・祥雲寺・別所問屋新井久兵衛家の五カ所である。宝永二年に始めたと伝え、「新道角助流・地獄佛門破」と白字に抜いた小豆色染の旗がある。舞は「花掛」「注連掛」「笹掛」「弓掛」「獅子隠し」「鐘巻」「門掛」「極掛」があったが、昭和五〇年を最後に、それ以降は中止されている。現在は、宵祭りに舞台を掛けカラオケ大会を行い、神興を境内に飾っているという。
上新郷愛宕神社遠景
このような角度から見ると、やはり古墳に見えてくる。
この古墳の主は、当地域の経済的な優位性、つまり、利根川水系の舟運による交易に従事し、財を成した人物である可能性はあるのではなかろうか。
上新郷愛宕神社から北側利根川沿いに「勘兵衛マツ」と呼ばれる松並木がある。
上新郷の日光脇往還沿いに松が植えられたのは、寛永5年(1628)と伝えられている。この年の4月、江戸幕府第3代将軍の徳川家光が日光東照宮を参拝しており、景観を整えるためか、当時の上新郷村を治めていた忍城主が家臣の勘兵衛に松の植樹を命じたと言われている。そのためこの松並木は「勘兵衛マツ」と呼ばれるようになったという。
江戸時代には100本以上を数えたという勘兵衛マツは、明治8年(1875)の調査では69本になる(「新井家文書」)。その後、台風による倒木などにより数を減らし、昭和56年(1981)の調査では9本が確認されたが、平成30年(2018)3月現在、江戸時代から現存する勘兵衛マツは黒松1本のみとなっている。
勘兵衛マツは埼玉県指定天然記念物(大正15年2月19日指定)樹高 約11.7m 幹周り 約2.4m。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「羽生市 HP」
「Wikipedia」等