上村君避来矢神社
天文年間(1532年〜1554年)に、下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝したことに始まるとされる。そのため、当時は、飛来石神社と称していたという。それが、藤原秀郷公が百足退治の礼として龍宮の王から授かったと言われる伝説の大鎧(飛んでくる矢が当たらないといい、源平合戦前は「真経腹巻之具足」と呼ばれていた)である、その後、避来矢(ひらいし)と結びつき、現在の社名並びに形となったという。
・所在地 埼玉県羽生市上村君191
・ご祭神 藤原秀郷公
・社 格 旧上村君村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭 7月14日に近い日曜日(獅子舞)
発戸鷲宮神社から用水路沿いの道路に北行して戻り、合流後右折する。仰ぎ見れば、鮮やかな青色の夏空の中、綿菓子のような雲とのコントラストが見事なまでに盛夏の雰囲気を醸し出している。運転をしながらふと左手を見ると、そこには利根川の堤防が東西に延々と続き、周囲は長閑な水田地帯が広がる中、700m程先にある丁字路を左折すると、利根川の堤防が見えるその南岸に真新しい上村君避来矢神社が見えてくる。
社の東側に隣接して駐車場も綺麗に完備され、しかも今風のスロープもあり、安心して参拝に望めることは大変ありがたい。
上村君避来矢神社正面
『日本歴史地名大系』 「上村君村」の解説
利根川沿いに発戸村の東に位置し、東は下村君村。古くは同村と一村であった。文明一八年(一四八六)東国巡遊の旅に出た聖護院門跡道興は「むら君」を通過する際、「たか世にかうかれそめけん朽はてぬ其名もつらきむらきみの里」(廻国雑記)と詠んでいる。
永禄六年(一五六三)五月二八日の広田直繁判物写(武州文書)には「太田庄北方村君之郷」とあり、村君郷が太田庄北方に含まれていたことが知られる。
拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上村君村』
避來矢社
村の鎭守なり、相傳當社は俵藤太秀鄕を祀る所にして、古へ相州朽木村より飛來りし故、元は飛來と書しを、享保十一年神祇伯吉田家へ神位を請し時、今の文字に改め記し來りしと云、
〇雷電社 〇通殿社 〇稻荷社 〇天神社 以上總德院の持、
拝殿手前にある上村君地区の「獅子舞」の案内板 社殿右側にある社務所
指定文化財 獅子舞(上村君地区)
無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34年10月1日
前獅子、中獅子、後獅子の三頭で構成されます。他の役割は花笠、笛方、旗持ち、万灯があります。現在は7月14日に近い日曜日に祭が行われ、その日の夕方はここから雷電神社まで天下泰平、村内安全、五穀豊穣の幟を先頭にして往復します。
当日の午前中はここから出発し、地域内をくまなく回る村回りを行います。
舞いは前庭と本庭からなり、曲目は「花笠」「四本ずく」「八丁しめ」「辻がかり」「弓がかり」「ささ蛇」「鐘巻」などがあります。
「辻がかり」は悪病が来ないようにと村境で舞われるもので、本番での獅子舞は棒術に続いて行われます。
元亀・天正の頃、羽生城の救援に出陣した上杉謙信が将兵の士気を高めるため、上野国からささら舞師を招き、避来矢神社に奉納したのが起こりという伝承があります。
平成14年3月20日 羽生市教育委員会
案内板より引用
境内にある「「避来矢神社移転建築記念之碑」
本殿の後ろに祀られている「甲石」
旧下野国栃木邑から飛来したという「石」という。
『羽生昔がたり』には、「栃木邑から飛んできた甲石」という昔話がある。
羽生昔がたり「栃木邑から飛んできた甲石」
上村君地区のこの話は、今から千年以上もの古い話から始まります。
平将門は朝廷にむほんをおこし、下総国(千葉県北部及び茨城県の一部)の父の遺領地に帰りましたが、遺領地をめぐって一族の争がますますひどくなって大さわぎになりました。
そして将門の勢力をのばして、武蔵国のお役人たちまで困らせるなどの反乱をおこしたので、武勇にすぐれた藤原秀郷(俵藤原太郎)と平貞盛の二人の武将は力を合わせて、朝敵将門を討伐しました。
武蔵国も下総国も平和となって、秀郷と貞盛の手がらは人々からほめたたえられました。将門の乱を平定した秀郷は功績をみとめられて、武蔵国と下野国の二国の守に任ぜられ、東谷(羽生)に国府(役所)を開いて政治をとったといわれます。人々をさいなんから守り、神様のようにあがめられました。
ところがそれから六百年もたったある日のこと、下野国(栃木県)栃木邑から、たたみ一枚ほどもある大きな石が上堤根邑(上村君)に飛んできたということで、村は上を下への大さわぎになりました。紫がかったこの石は形が「かぶと」によく似た石です。「もしかしたら秀郷将軍が石になって村を守るために飛んできたんだんべ」と里人たちはこの不思議な石をめぐってワイワイガヤガヤ…結局勇猛な秀郷の化身と信じ「ありがてえ、ありがてえ」「やたらに人の目にふれたら神様にバチがあたる」と地表に少しおすがたを見せて地中に安置しました。
丁度その頃が戦に明け暮れた戦乱の世だったので、秀郷が将門の乱を平定した時のようにと里人たちは甲石をご神体にして信仰しました。
秀郷が愛用した「避来矢のよろい」は栃木県の唐沢神社の宝物になっているそうですが、上堤根村ではよろいの名をとって避来矢神社を建立し、秀郷を祀り、村の平和を祈りました。
舘林城主、松平左近将監は(今から二百年位前)領内を巡行した折に、甲石を興味深く見ていかれたという記録があります。
社の境内から道路を挟んで北側に石碑や石祠、庚申塚等が多数祀られている。
一番右側に建つ「社殿移転記念之碑」
社殿移転記念之
当避来矢神社は古老の口碑によれば
古来下野国栃木邑より飛来せし大石を里人
甲石と称して崇敬し天文年中日本武尊と
併せ奉祀したるものと伝えらる
其の後飛来石神社と称し地区民崇敬の中心
なりしも詳かならず明治六年避来矢神社と
改称し村社となり今日に至る
昭和三十四年建設省関東地区利根川上流
引堤工事の確定により此の由緒深き神殿の
移転に当り地中に埋設せし伝説の御神体
甲石を始めて掘り出し氏子一同の奉仕により
昭和三十五年三月三十日現地に遷座す
尚天神社通殿社浅間社三宇も遷座合祀せり
昭和三十五年三月 小林一雄撰文
社殿から鳥居方向を撮影
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP 羽生昔がたり」
「Wikipedia」「境内案内板、記念碑文」等