古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秀安鷲宮神社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市秀安112
              ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              ・社 格 旧秀安村下郷鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 318日 秋例祭 1015
 羽生市秀安地域は、平均標高1416m程の加須低地の中、旧利根川によって形成された自然堤防上に位置している。途中までの経路は須影八幡神社を参照。埼玉県道412号南羽生停車場線を400m北上し、十字路を左折、暫く進むと進行方向右手に「加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」が見え、そこの路地を入ると「秀安第一集会所」が見え、その集会所の北側隣に秀安鷲宮神社は鎮座している。
        
                  秀安鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系 』「秀安村」の解説
 旧利根川によって形成された自然堤防上に位置する。自然堤防は当村から北隣の下羽生村にかけて連なる。室町初期と推定される岩松持国本領所々注文(正木文書)にみえる「応永十一年頃、岩松持国本領所々注文、武州秀泰郷」の「秀泰郷」を当地とする説がある。田園簿によると田高二八一石余・畑高一七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と鷲宮領・長泉寺領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)からで、天明五年(一七八五)絶家となって上知(「寛政重修諸家譜」など)。

 当地域は、幕政期、「上郷」「下郷」に分かれ、それぞれ鎮守様を祀っていた。上郷鎮守は御嶽権現社で、『風土記稿』編集時はこの御嶽権現社が秀安村の鎮守社であり、鷲宮神社は単に下郷鎮守社でしかなかった。その後明治4の社格制定の時に御嶽神社は無格社に、鷲宮神社は村社となり、上郷の人々は当社の氏子となったのだが、いつのころか旧「上郷」「下郷」の区域に分かれ、氏子も下郷のみとなってしまったようである。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社(おわすさま)  羽生市秀安一一二(秀安字下郷)
 当社は下郷地区の西外れに集落を見守るように鎮座する。
 往時、同大字内の真言宗御嶽山医王院長泉寺を別当としていた。享保七年に造立され、祭神は天穂日命・武夷鳥命の二柱で、それぞれに金幣を祀る。
 本殿は一間社流造りであり、当社の造営修復等の記録として現存する天保九年の棟札には「右御本社享保七辛卯長泉寺恵〇代造立氏子助進 天明元辛丑年建替今年逅六十年目同寺秀宜代氏子寄進 天保九戊戌祀本社建替拜殿新造立 天明ヨリ今年迄五十八年目 氏子寄進」とある。
 明治二五年に屋根替え、昭和二六年に建て替えを行って、現在に至っている。
 また、年代は不明であるが、字下郷の諏訪屋敷と呼ばれるところから、諏訪神社を合祀したとされ、社殿内に当社と並んで、一間社流造りの本殿が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 秀安鷲宮神社は、「おわす様」の名で親しまれているが、その名称由来は「お鷲様(おわしさま)」と思われる一方、本殿内に並立鎮座している諏訪神社の「おすわ様」とも関連があるかもしれないとも考えた。というのも、嘗て8月には夏祭りが行われていたのだが、その祭りは合祀社である諏訪神社の祭典といわれ、お祭り当日、参道では夏の虫を全部焼き殺すためといって、氏子たちが麦藁を持ち寄り、お焚き上げと称して燃やしたという。但し、この風習・行事は農薬の普及により廃されたようだ。
        
  境内北側にある「伊勢参宮記念碑」と、その奥にある「
加羽ヶ崎秀安 土地改良記念碑」

 伊勢講は現在でも数年おきに行っており、現在、12月に忘年会を兼ね、下郷地区で会食を行っている。その際、床の間に神様のための膳を供え、新穀感謝祭を行うのだが、氏子はこれも伊勢講と呼んでいるという。
 また、この下郷地域は現在でも「榛名講」が氏子の大半により結成され、318日の祈年祭の後、4枚の代表が榛名神社へ辻札・嵐除け札・筒粥表などを受けに行く。また、七年に一度、総立ちといって講員全員で参拝に行く。代参から帰ると、神札を他の地域との境に立てる。榛名講は戦前、養蚕が盛んな頃に養蚕倍盛祈願として行ったが、その後養蚕農家がいなくなってしまったので、今は豊作祈願の信仰と変わったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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