中江袋剱神社
・所在地 埼玉県行田市中江袋17
・ご祭神 素盞嗚命
・社 格 旧中江袋村鎮守 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1679954,139.4333215,16z?entry=ttu
行田市中江袋地域は南河原・河原神社から直線距離にして1.5㎞程の近距離に鎮座し、南東方向に位置している。南河原・河原神社から埼玉県道178号北河原熊谷線を暫く東行し、400m程進んだY字路を右方向に進み、その後「士発田集会所」の先の十字路を右折する。
左手に「南河原浄水場」入口が見える南北に通じる一直線の道路を道なりに約1㎞進むと、右斜め方向に中江袋剱神社の鳥居と境内の木立等が遠目からでも見えてくる。
専用駐車場はないが、社から東西真っ直ぐに伸びた参道の突当たりに対して反対車線上に駐車可能な路地スペースが確保されており、そこに停めてから参拝を開始する。周囲は長閑な田園風景が広がる中に、ポツンと鎮座しているような印象だが、境内も含めて社殿も改築されているようで、境内周囲の垣根も綺麗に整備されていた。
東西方向に参道は伸び、その先に社は鎮座する。
境内には「中江袋集会所」もあり、地元の鎮守様という第一印象を受けた。
『日本歴史地名大系』での 「中江袋村」の解説を紹介する。
[現在地名]南河原村中江袋
南河原村の南にあり、南は星川を隔てて下池守(しもいけもり)村・上池守村(現行田市)に対する。地名の由来は河流の湾曲地形によるかともいわれる。小名に条里制に関係する掃除町・瓦町などの町地名が残り(風土記稿)、古墳時代後期の集落遺跡も発見された。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る中条丹後(永五一貫文)は当地に帰農したという(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高四〇〇石。
境内の様子
境内に設置されている「社殿改修工事竣工記念」碑
「社殿改修工事竣工記念」
当剣神社の創建については現在不詳であるが、大字内に条里制の遺構が存在したことを考えても千年以前に遡るものと思われる。
主祭神は素盞嗚命であって字屋敷の天神社・字士発田の伊奈利社が合祀されている。
社殿は天保13年の再建と伝えられ、150年余の歳月と共に損壊も甚だしく再建は氏子一同長い間の念願であった。
此の度中江袋環境総合整備建設委員会の発足に当たり、事業の一環として社殿の改修と境内の整備を完了したことは目出度い極みである。
「境内石碑文」より引用
南河原・河原神社からこの社までの経路途中、「南河原浄水場」付近に南北方向で一直線に通じる道路があった。周辺の田畑に関しても、嘗ての条里制の名残りと思わせるような真っ直ぐな道が今なお存在する。
拝 殿
劔神社 南河原村中江袋
当地は、県北部の星川沿いに古くから発達した集落で、遺跡などからも水田耕作地域であったことがうかがわれる。
当社と同社名の神社には、日本武尊の伝説を伝える社が多い。当地に近い行田市内にもこの伝説の残る剣神社があることから、当社にも何らかの伝承があったと思われるが、現在は知ることができない。
また、当地は、忍城主成田家の家人であった中条丹後が忍城落城のに後、当村に住み、姓を江袋と改めて代々名主を務めていた。当社境内には、この江袋家とのかかわりがうかがえる寛延二年の同家名を刻む宇賀神の石祠がある。
当社の創建については不詳であるが、天保一三年の覆屋再建棟札が現存する。往時の別当は、本山派修験榛沢郡黒田村万光寺配下の本覚院が務めていたが、明治初めの神仏分離により、その管理を離れ、同院が復飾して姓を松本と名乗り、神職となった。明治五年に村社となり、同四〇年には同大字字土発田耕地の伊奈利社、字屋敷耕地の天神社を本般に合祀した。
明治中期まで祀職は松本家が務めていたが、その後、茂木庫之助、六郎、正次、茂、貞純と継いでいる。
主祭神は素戔嗚命で、合祀神は字賀之御魂命・少彦名命である。
「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 中江袋村条』には中江袋村・長徳寺に関する説明もあり、そこには「江袋氏」を名乗る経緯も記載されている。
「長徳寺は寛永年中村民孫蔵が先祖、江袋三右衛門勝重なるもの開基して、この一寺となせりと、勝重は寛文二年十一月二十九日卒す。勝重の父は中条丹後と称し、成田の家人にして、永楽五十一貫文を所務せしこと分限帳に見ゆ、天正十八年忍落城の時、当村へ来り、氏を江袋と改めしより、子孫連綿して今の孫蔵に至れり」
「江袋」を名乗る前は「中条」が本名であったという。中江袋地域の西側には上中条地域があるが、そこは嘗て武蔵七党横山党の出・中条氏の本拠地でもあった。
社殿の右手に祀られている境内社
右側「塞神」のみ解読可能。
他は案内版の記載にある「宇賀神」「天神社」「伊奈利社」あたりであろう。
中条氏は武蔵国中条保(埼玉県北部)を本領とする中世武家である。武蔵七党横山党の流れをくみ中条保を領した義勝房法橋成尋(異称中条法印)の子家長が,下野国の雄族八田知家の養子となり,藤原姓中条氏の祖となった。源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の成立に他の武蔵七党の諸氏と共に尽力。横山党の嫡流である横山氏が和田合戦で滅びた後も幕府内で評定衆を務め、尾張の守護を長く務めるなど勢力を保った。
社殿から見た境内の一風景
一族は後に三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)の地頭になり、挙母を本拠地とする。同じく三河に所領を有する足利氏と縁が生まれ、南北朝時代には足利氏の北朝に味方し、室町時代には奉公衆に取り立てられた。3代将軍足利義満などに仕えたことで出羽、信濃などに勢力を広げたが、6代将軍足利義教の時代には義教の不興を買い失脚するなど衰退、戦国時代には駿河、遠江、三河国を領する今川義元やその傘下の松平元康にたびたび侵攻され勢力を弱め、最後は桶狭間の戦いで義元を討ち三河へ勢力を広げようとした尾張織田信長の侵攻で一戦も交えず退散する。これ以降、挙母城にあった中条氏は織田信長に仕えたという。
南側には星川が悠然と流れる。
武蔵国中条保に残った一族もいた。この一族は上杉憲実、上杉房顕の与力となったり、成田下総守親泰の配下として存続していたが、天正十八年忍落城の時に、帰農してこの地に移り住み、苗字も江袋と改めたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内碑文」等