下中森長良神社
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字下中森86
・ご祭神 藤原長良公(推定)
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1944132,139.4761404,16z?hl=ja&entry=ttu
上中森八幡宮から一旦北上して群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流後、そこを右折、同県道を1㎞程東行した十字路を再度右折し、450m程南下した利根川土手のすぐ北側に下中森長良神社は鎮座している。本来ならば、上中森八幡宮から土手伝いに西行するほうが、近道で当社に到着できるのだが、実際には社同士直通する道はなく、道が入り組んでいて少々説明しづらいので、県道を通るルート説明となった。
また社周辺には適当な駐車スペースはないため、近郊にある「下中森公民館」の駐車場を利用してから参拝を開始した。
下中森長良神社正面
画像左側には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「下中森村」の解説
[現在地名]千代田町下中森
北東は大輪村(現明和村)、西は上中森村、南は利根川を隔てて武蔵国埼玉郡須賀村(現埼玉県行田市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では中森村とのみある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に下中森村高九三五石七斗余、田三六町三反余・畑五九町六反余とある。天和二年(一六八二)幕府領、旗本中根・新見領の三給となる。村高八八四石二斗余(分郷配当帳)。
群馬県千代田町は利根川沿いにある為、太古の昔から今に至るまで、利根川から被害と恩恵を受けながら発展してきた。川沿いの舞木・赤岩・中森・瀬戸井等の部落は現在南に堤防が高く続いている。明治四十三年の洪水以後に築かれたものであるが、それ以前は江戸時代初期以来十余度の洪水に遭遇している。中でも元禄十二年の洪水の被害は大きく、その後、享保、天明、文政、明治年間に大洪水が繰返されてきた。下中森地域も同様で、過去利根川破堤の歴史、及び自然災害は途切れることなく発生していた。
・寛文11年(1671)7月 下中森破堤
・享保18年(1733) 下中森破堤
・天明3年(1783 )7月5日〜8日浅間山爆発し、砂二寸も積もる。焼石、焼岩利根川に押し入り魚多く死す。硫黄の水も流出。浅間山史上最も著名な噴火である。
・明治43年(1910)8月11日午前2時 、下中森大輪境破堤、流失家屋四十六戸、耕地の被害田二百二十六町一反三畝、畑三百五十二町二反四畝、富永村において救助を受けたる戸数七百一戸、金額ーー、九四六円三厘という。
このような水害をもたらした利根川は、一面陸上交通の発達しなかった時期には水上交通の動脈として大きな役割を果たしてきた。舞木•赤岩・上五箇•上中森には河岸が設けられ、物資の交流に役立っていたが 、その後、鉄道開通によりその機能を失った。
利根川を控えた本村においては、舞木.赤岩・上中森• 下中森•上五箇には河岸や渡しがあって、対岸の埼玉県を通って東京(江戸)への通過地点として重要な役割を果してきたのである。
参道右手にある建物。神楽殿だろうか。
土地の伝承によれば、明治四十三年の利根川の大洪水以前は、川巾が狭く、埼玉県側との人馬の交流が盛んであったという。なお、渡船は埼玉県側との間に次のような連絡がとれていた。下中森と埼玉県の須賀村、上中森と下中条村、上五箇と酒巻村、赤岩と葛和田村(これは現在も運行)、舞木と俵瀬村、このうち、俵瀬村は古くは赤岩村の一部であったが、寛永の頃埼玉県側の俵瀬村となったといわれ、赤岩からの分家の記録もあったという。上•下中森方面は、埼玉県の羽生市と、瀬戸井、上五箇方面は行田市と、赤岩、舞木方面は熊谷市との経済交流もあり、同方面への高校進学者もあり、また婚姻関係も密接であった。
このように、埼玉県側との交流は古くから盛んであったことは、本村における習俗の面にも影響を及ぼしていたことであろう。
社会生活の面でも、利根川の大洪水の影響がみられていて、洪水体験も各大字に伝承されているし、水防についてもいろいろな方法が考えられているのである。上五箇地域のように、大きな災害を何度も受けてきたことが今に伝えられる例もあれば、古海地域の用水取入ロの砂の取払い人員としての古海役とか、利根川の土手刈りなど、この地方の特色を示した習俗といえよう。
拝 殿
創建時期・由緒等は不明。
『千代田村の民俗』によれば、下中森長良神社の春、夏、秋の祭りに、下中森の宮総代がキリハギを作って悪魔除けとして、下中森と上中森の境界の道端に立てたという。
ところで、瀬戸井長良神社は、邑楽郡下や一部新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十ニカ村の総鎮守であったという。
長良神社は祭神を藤原長良公としており、土地の伝承によると、長良公が東国平治のためにこの地方に来て善政をしいたので、土地の人びとはその徳を慕ってすでに春日神社の末社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。伝承・伝説はあくまで参考資料として尊重すべき対象であるが、根源的な成立要因として、嘗て利根川水害の被害が多かったこの地形と関連づけて長良神社の成立を考えるべきであろう。
長良神社の分布範囲が舘林市から大泉町の利根川流域(数社羽生地域にも鎮座)に限られていること、人柱伝説を伝えていることで神社は蛇ということあるいは秋の祭典にわらで龍のかたちをつくつて鳥居にかざること、この神社には龍がいて利根川の水を飲んだということなどから、同社の神格に、水神信仰との関連を推論することができそうである。
当社は、利根川堤防に隣接するその立地条件からも「長良十八社」の一社と推測され、同じ文化・伝承を共有する社であるのであろう。
拝殿上部の向拝・木鼻部の彫刻 本 殿
拝殿の左側に祀られている石祠群
左側から(?)、正一位稲荷大明神、富士嶽浅間神社、御嶽三柱大神、三峯社、秋葉大権現・金毘羅大権現、(?)。写真には写っていないが、基段の下左端に庚申塔・(?)。
社殿の右手に祀られている「英魂」碑
「英魂」碑の右手に並列している石碑群 「合祀記念碑」の右側には「再建の碑」
左から「工事記念碑」「合祀記念碑」 「凱旋記念碑」「凱旋記念碑」あり
工事記念碑
戦争を放来し文化の隆昌と民生の繁栄を国是として茲に(中略)利根河川改修工事等も逐年拡大補強が続けられていたのである。偶世紀の利根大堰建設に伴い、下中森地堤防の拡張が急速に促進され為に昭和40年10月30日村社・長良神社の発展的な移転が此処に余儀なく決定されるに至った。
世々に氏子が斎き奉る御社だけに移転の際には慎重且厳粛にその審議が進められ、結局此処に永く鎮り祀る歴史の尊厳を基調として、更に明日の部落永劫の繁栄を加護し給う〇〇十宮居を整工祀る事こそ其の局に当る者の責務也とし、先ず堤防敷地文として譲渡する197坪の土地に代え隣接する255坪を入手之工費に宛て、昭和41年1月着工の運びとなる(以下略)。
*読みやすいように筆者修正した部分あります。
境内の風景
この地域を含む群馬県南部利根川左岸の低地帯は「上州の空っ風」といわれる、冬時期特有の北風が吹く。この風は非常に強いため、冬を越すと堀が一年で泥で埋まるほどである。そこで、「イヤマ」と呼ばれる防風林を西北側に囲むような配置となっている。
下中森長良神社の西北側にも防風林がしっかりと配置されている。
参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等