古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大佐貫長良神社

 親鸞は西本願寺、東本願寺で著名な浄土真宗の開祖である。承安3年(1173年)日野有範の子として京都に生まれた。9才で出家し比叡山で修行を続けたが、既成の教えに満足せず、29才の時、専修念仏を提唱し浄土宗を開いた法然の門に入った。やがて専修念仏が国家により禁止されると越後の国へ流罪となった。後に罪が許され京都に帰ろうとしたが、尊敬してやまなかった師、法然がこの世にいないことを知り、京都に行くのを諦め越後から信濃を通り常陸の国に向かった。当時鎌倉幕府が開かれ新興の地であった関東への布教もあったわけである。常陸へ行く途中、佐貫荘(大佐貫付近)に立ち寄り、建保2年(1214年)、この地で真の他力本願に目覚めたことが、親鸞の妻である恵信尼(えしんに)の文書に記されている。この後茨城県笠間の草庵で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著し、浄土真宗を立教開宗した。元仁元年(1224年)「(前略)三部経(さんぶきょう)げにげにしく千部読まんと候し事は、信蓮房(しんれんぼう 長男)の四の年、武蔵国やらん、上野の国やらん佐貫と申所(もうしどころ)にて読み始めて、四、五日ばかりありて、思かへして読ませ給はで常陸へはおはしまして候しなり(後略)」。
 恵信尼が末娘の覚信尼(かくしんに)にあてた書状である。
 親鸞が越後からの旅の途中、ここ佐貫まで来たとき、人々のために千部経を読もうと思いたったのであるが、ただひたすらに阿弥陀仏にすがる専修念仏を説いてきた自分が、自己の力によって人々を救おうというのは矛盾していることだと悟ったと書かれている。ここ佐貫こそ親鸞が真の他力本願を再認識した重要な土地なのである。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大佐貫97
             ・ご祭神 藤原長良公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 919
 大佐貫(おおざぬき)地域は群馬県邑楽郡明和町の中にある地域のひとつで、町内の西部に位置し、矢島地域の南側にあり、地域北部は工場や住宅地によって形成されているのに対して、南部、特に東南部一帯は長閑で広大な田畑風景が広がっている。
 途中までの経路は矢島長良神社を参照。同社から400m程南行すると、進行方向右手に大佐貫長良神社の鳥居が見えてくる。但しこの一の鳥居付近には適当な駐車場所はないので、社の西側に隣接する東光寺の駐車スペースを利用して参拝を行う。
        
            社号標柱のある大佐貫長良神社の一の鳥居
  一の鳥居は東向きであるが、社殿は南向きであるので、参道は途中右側へ直角に曲がる。
『日本歴史地名大系』 「大佐貫村」の解説
 東は中谷村、北は矢島村、南は川俣村・須賀(すか)村。村中を日光脇往還が通る。鎌倉時代末期と思われる足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に大佐貫郷の名がみえ、南北朝期以後は鎌倉府の御料所となり、御家務料所として年貢三分の二を免除されていた。
 大佐貫の地名は伝承によると、鎌倉幕府の御家人佐貫氏が居住していたことによる。慶長一〇年(一六〇五)の大佐貫郷新開田畑年貢割付帳(薗田文書)は、同八年に造成した新田畑に対し年貢を割付けたもので、田方籾は一〇石六斗余、畠方代は一貫三一一文である。

 嘗て舘林から邑楽郡明和町一帯にかけての地域には、「佐貫荘」が広がっていた。「讃岐庄」とも「佐木荘」とも書き、郷名でも見える。
 この佐貫荘の起こりは1112世紀頃、豪族・佐貫氏が自己の所有地を被支配民に開墾させたことに始まる。邑楽郡は利根・渡良瀬の両川に挟まれた平地で、古来度重なる洪水の度に土砂が運ばれ、自然堤防の小高い丘陵ができた。そこに人々が居住し、荒廃地や原野を開墾して耕地を広げ、村落を形成したのである。このような開発には豪族の力を必要とし、豪族は人々を使役し、自墾地とした。佐貫氏は豪族の中で最も勢力が強く、豪族らの中心的存在であったと考えられている
 
        西方向に伸びる参道          北方向に曲がる地には赤い両部鳥居と
                            幾多の庚申塔がある。
 藤原北家小黒麻呂流、ないしは同家秀郷流の流れをくむといわれる佐貫氏は、『尊卑分脈』によれば、淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したといい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する佐貫広綱は、「吾妻鏡」などによると、上野国佐貫荘(現群馬県邑楽郡明和町大佐貫)出身の武将で、足利重光の子であり佐貫綱照の養子であるともいわれている。史実によれば、治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に初めてその名が出てくる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)720日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経・畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が北条鎌倉幕府を倒すために兵をあげたが幕府は朝廷を打ち破った(承久の乱)。このとき佐貫一族も宇治川で参戦したが、その時の手負いの人々の中に佐貫右衛門六郎、同八郎、同兵衛太郎、佐貫太郎次郎等の名前が出てくる。
        
                   境内の様子
 元弘3年(1333年)、北条鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされ「建武の中興」が行われたが、すぐに破綻し、僅か2年後には足利尊氏が反旗をひるがえし、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存する南北朝時代という王権の完全な分裂状態に陥る。建武21211日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った際、佐野・佐貫・山名氏等は足利方で活躍する。
 その後、南北朝から室町時代にかけて続く戦乱の世に、佐貫荘も分断され、佐貫氏も衰退、徐々に赤井氏、富岡氏に権力が移っていく。
 佐貫氏は一族の氏神に長柄神社を崇拝していたが、徐々にその信仰は在地庶民の中に浸透し、地域(村)の守護神として祀られるようになる。そして佐貫荘内には長柄神社(長良神社)がまつられ、現在も邑楽郡の東・南部に存在し信奉を集めているという。
        
                    拝 殿
『明和村の民俗』
 大佐貫の長良様は古く、千代田村に鎮座する瀬戸井の長良様は、ここから分社したものといわれている。長良神社の祭典は、春祭りが四月十五日、秋祭りが九月十九日で、ナカノクンチにお祭りをしている。秋祭りのことは、お日待といっている。このときには、村からわきへ嫁に行った娘たちを呼んだり、親戚へ赤飯 (重箱に入れて)を配ったりしている。よそへ出たものは、お土産をもって、お客さんに来た。泊りこみでお客にきた。よそへ出た人は、お日待によばれてくるのが楽しみであったという。
 また、昔は天王様は七月十日〜十二日に祀り、笛を吹いて毎戸を廻り、祭り当番は若衆二十人位でやった。ここの天王様は女性であるという。
 
        拝殿に掲げてある扁額          拝殿内部に飾られてある奉納額等
 
  社殿奥に祀られている境内社・石祠等    境内右側奥に祀られている石祠等
  一番左側の石祠が猿田彦大神以外は不明     一番右側手前は道祖神の石祠 
        
               社殿の西隣にある十一面観音堂

 大佐貫の観音様の縁日は十七日。八月十日が賑やか。もとは旧七月十日が縁日であった。ここの観音様は、十一面観音で、子育てと安産の観音様として知られている。身持になると、観音様のおさご(御散供)といわれる神や仏に参ったとき供える米,または祓(はらい)や清めの目的でまき散らす米を借り、これをお産の前に食べた。安産のあとおさごを倍にして返してきた。ここのお守りを受けていって、五ヵ月目の腹帯をしめるときに、腹帯の中にまきこんだ。また、さらしも借りていった。これをまいたものを一丈借りて、一反(三丈)かえ た。なお、嫁にきたものは、二日目にムラまわりをするが、このとき、神社へお参りをしたり、観音様へお参りしたりしたという。
        
                社殿から見る境内の一風景

 また、この地域の「薬師送り」は、戦前まではあった。年寄の人が、白い手甲に脚胖をつけ、白装束で、菅笠をかぶり、「南無遍照金剛」と言いながら、歩いて廻ってきた。村々では、大師様(弘法様)を寺に飾っておいた。そこへ寄ってお参りをしたものである。村の人(寺世話人)が出ていて、廻って来た人を接待した。おにぎりを飯台に一杯つくっておいて、お参りに来た人をもてなした。これは、三月二十一日一日だけ。このことを、大師めぐりとか、大師送りといった。弘法大師を信仰する人たちが廻ってきたもの。子供達は、その人たちがまわってくると、「大師だ」といって、その行列のあとをついていったりした。この行列( 一行)は館林の普済寺を出発した。明和村関係では、新里­中谷⇒大佐貫矢島⇒青柳の順であったという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」「Wikipedia」等

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矢島長良神社

 群馬県邑楽郡明和町矢島地域は邑楽郡明和町の西北部谷田川右岸の位置にある。この地域は、古くから開発されてきた地域である。というのも、昭和333月谷田川中小河川改良事業と併せて行われた明和村土地改良区の事業の際に発見された「矢島遺跡」は、縄文時代から古墳時代までにわたり当時の人たちが暮らす貴重な遺跡や遺物が多く発見されており、文化的価値が非常に高い遺跡として知られている。この遺跡は国道122号線を中央に挟み、西側に2か所、東側に1が所の合わせて3ヶ所にある。当時の明和村教育委員会が最初に現地を試掘調査したあと本調査が実施され、明和村立明和西小学校の児童による遺物採集の協力もあり、多数の深鉢、壷、貝輪状土製品、石器等が採集され、縄文時代中期末から古墳時代に及ぶ複合遺跡であることがわかった。その後、昭和59年千葉大学考古学研究室の麻生優氏により、前回の遺跡付近を発掘調査したところ、縄文時代晩期の住居跡と平安時代の住居跡などが発見された。
 平成元年、
2年と東京電力が送電線の鉄塔を立てることになり、その予定地を明和村教育委員会が試掘調査をしたところ、縄文時代晩期のさまざまな遺物が発見された。その後、本調査である発掘調査をした結果、縄文時代中期から晩期にかけての土器や石器等の多彩な遺物を採集することができた。その後、同教委は幾たびも発掘調査を行った。主なものをあげれば、平成144月矢島遺跡の隣接地に東京ガスの輸送導管を埋設する事業を行うことになり、その事前試掘調査をした後に本調査の発掘をした。遺跡からは、縄文時代中期後半から晩期にかけての土坑(人為的竪穴)、深鉢、土器破片、炉の跡、石器類等の遺物が採集できたという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町矢島14501
            ・ご祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 
                 菅原道真公 大山祇命 他八柱
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王祭) 715
                               秋祭り 1015日。(*それぞれ15日に近い日曜日) 
 国道122号線を北進し、「川俣駅入口」交差点で右折、群馬県道361号矢島大泉線を100m程進んだ十字路を左折し、「矢島公民館」が見えるすぐ先の十字路右手に矢島長良神社の正面鳥居が見えてくる。前出矢島公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
       
                  矢島長良神社正面
『日本歴史地名大系』「矢島村」の解説
 谷田(やた)川右岸にあり、東は南大島村、南は大佐貫村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿村(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。
        
                   境内の様子
        鳥居から社殿に向かう参道は、若干上り坂となっているようで、
      更に社殿前には石段があり、周囲より一段高いところに鎮座している。
             
                石段上にある「御大典記念碑」
『御大典記念碑』
 村社 長良神社
 祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 菅原道真公 大山祇命
       宇迦之御魂命 素戔嗚命 市杵島姫命 大海津見命
       久那戸神 八衢比古命 八衢比売命 木花開耶姫命
 御本社長良神社ノ沿革ヲ〇フルニ其由緒古クシテ舊記ニモ見エズ口碑二依レバ長良神
 社ハ瀬戸井村長良神社ノ分祀ナリト云フ而シテ文政六七年以前二ハ字大宮二在リシガ
 須賀村破堤ノ際荒蕪野地ト爲リ氏子参拝二不便ナル爲字北谷二輔祀セリ其後神社合祀
 ノ令二依リ明治四十二年縣ノ許可ヲ〇〇字北谷二祭祀セル村社長良神社及境内末社水
 神二社稲荷神社愛宕神社富士嶽神社〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 神社字遍照寺無格社長良神社及末〇稲荷神社道祖神愛宕神社厳島神社〇〇〇〇〇〇〇
 格社清瀧神社字南谷厳島神社ヲ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 合祀シ後二長良神社ト改稱セリト云(以下略)                       記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 
   拝殿左側に祀られている根本山神       社殿奥に祀られている石碑三基
                      出羽三山社、食行霊神・角行霊神、磐長姫命

 根本山(ねもとさん)は、栃木県と群馬県に跨がる山で、標高1,199m。
 栃木県佐野市飛駒町と群馬県桐生市梅田町五丁目・みどり市東町沢入に跨がる。桐生市梅田町の最高峰である。桐生川の最上流部に位置する。中腹に根本山神社があり、江戸時代に山岳信仰の対象として庶民の信仰を集めた。江戸時代には信仰により多くの参詣者が訪れ、根本山の周辺地域には根本山への里程標「根本山道標」が設置され一部現存している。
 根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰であり、江戸時代には参詣案内書が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展したという。

 ところで、明和町矢島地域には、「御影田(みかげだ)」という地名に関しての伝説があり、『明和町の文化財と歴史』には「富士山供養塔」との名で紹介されている。どちらも話の内容は同じであるので、後者の話を全文紹介したい。
「富士山供養塔」
 矢島地区旧国道を横切る佐貫排水路の脇に高さ1m15㎝、幅35㎝の富士山供養塔が立っており、傍に植えた松が覆うように茂っている。昔、北国から富士登山を行う一行があった。
 その中に一人の年寄りがいたが、寄る年波に身体も意の如く動かず、ただお参りしたい一念で旅立ちはしたものの、一行より遅れて矢島村に差し掛かった時には、もはや力もつきはてて路傍に倒れてしまった。無念のあまり遠く富士を望んだところ、不思議にもその一念が通じたのか、水田の水面に鮮やかに富士山の霊姿が写り、有り難く伏し拝みながら遂に息絶えたと伝えられている。その後、人々はこれを非常に哀れみ、その弔意から路傍の一里塚に富士山供養の碑を建てて一句を刻んだと言われている。
 今でもこの地を御影田と呼んでいる。
「昔此の田に富士の影写りしかばふじの雲裾ひきあげて田うゑかな 翁(せいおう)

        
                境内より鳥居方向を撮影



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」    
        「Wikipedia」「境内記念碑文」等
                

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田島長良神社

 明和町は梨の産地である。社の鎮座する県道沿いにも梨園、及び直売店が数多く見られる。梨の栽培適地は火山灰土や砂地などといわれているが、この田島地域は他の明和地域より若干標高が高く、土壤も砂質で梨の栽培には適しているという。
「明和村の民俗」によると、田島地域の梨つくりは明治6年頃から明和村へ入ったといわれているが、そのころはそれほど盛んではなく、大正78年ころ陸稲つくりがひろがり、旱魃にあいやすいので、桐の木を畑に植える人が出たりしたが、その後、梨つくりが流行した。羽田(場所は不明)が先進地で、そこから大きい木を買い、植えて拡張したもので。それから苗木から仕立てるようになった。梨は旱魃の影響がほとんどなく、田島の梨は裁培を始めてから四代目となり、すっかり地域の特産になっている。
 因みにこの地域での梨の肥料には有機質を使用していたという。大豆粕・油のしめ粕・堆肥等で、堆肥は麦のから(麦わら)を積んで、利根川の草を刈り、人糞尿をかけて何回も積みかえをしてつくる。稲藁は梨畑の地面に敷く。そら豆をつくって緑肥としてふみこんだのは大正初年頃のことであるという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町田島165
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格 不明
             ・例祭等 不明
 田島は、群馬県邑楽郡明和町を構成する地域の一つである。大部分が田畑となっているが、県道沿いには住宅などが集中する区域も見られる。また、邑楽郡明和町内の中央部に位置しているこの地域は、西側には新里、南は江口、北には南大島等の地域と隣接している。
 新里菅原神社から埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中進行方向左側に明和町立名和中学校が見え、そこから更に800m程進むと、県道沿い左手に田島長良神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する田島長良神社
『日本歴史地名大系』 「田島村」の解説
 南大島村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。
        
                    拝 殿
            この社も創立年代・由緒・社格・例祭等不明
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・八幡社      社殿奥に祀られている石祠二基
                               詳細不明
 田島長良神社の詳細は不明であるが、「明和町HP 明和町の文化財と歴史」によると、この地域には「正和の板碑」と称する鎌倉時代後期に造られた板碑が田島地域の青木氏屋敷内で出土している。
 この板碑は井戸掘りをしている途中出土したものといわれ、高さ89㎝、幅29㎝、鎌倉時代後期の正和4年(131536日に造立したものである。板碑は鎌倉時代中期から造立された塔婆形式の一つで、関東地方では埼玉県秩父郡長瀞町付近から産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)が主として用いられている。その始まりについては五輪塔の地輪を長くした板塔婆、あるいは長足塔婆の形状を木製から石材にしたものと推察できる。この造立の目的は、亡者の追善供養に建てたものは墓地に、生前に後生を願うために建てたものは路傍などが多いようである。この板碑の梵字は阿弥陀仏を表している。阿弥陀仏は平安時代末期、法然上人によって立教開宗(りっきょうかいしゅう)された浄土宗によって広められたものであるが、身分の高下、職業の貴賤を問わず、またどのような罪深い人でも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は阿弥陀仏の救いにあずかり、必ず極楽往生できるという平易な教えであったため、庶民の間に急速に浸透していき法然死後も浄土真宗を開いた親鸞上人等によって後生次第に発展していったようである。
 正和の板碑は、明和町の文化財に指定されている。
        
                             境内に祀られている富士塚
      塚上に石祠が一基、塚の左右に「烏帽子磐」と「小御岳」の石碑がある。



参考資料「日本歴史地名大系」「
明和町HP 明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

        


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新里菅原神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町新里113−1
             
・ご祭神 菅原道真公(推定)
             
・社 格 不明
             
・例祭等 石経様 527日 厄神除け 628 
 東武伊勢崎線川俣駅から350m程東側の地に位置し、埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線沿いに鎮座する社である。熊野那智大社文書に「永正二年(1505)、上野国佐貫庄新里雅樂助・同名太郎左衛門」とあり、嘗て新里地域には、佐貫氏族新里氏がおり、邑楽郡佐貫庄新里村に移住し、当地名「新里」を名乗ったという。因みに「新里」と書いて「にっさと」と読む
        
                
新里菅原神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「新里村」の解説
中谷村の東に位置する。永正二年(一五〇五)八月二一日の旦那願文写(熊野那智大社文書)によると佐貫庄の新里雅楽助・同名太郎左衛門らが紀州熊野那智山に参詣している。両人は新里の住人であろう。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三二六石余・畑方一八四石余。弘化三年(一八四六)の国役金掛高帳(「明和村誌」所収)によると利根川国役普請役を課せられていた。
        
                          一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
                  二基の鳥居の社号額には「天満宮」と表記されているが、
                グーグル等の地図等には「菅原神社」として案内されている。

『明和村の民俗』によると、
嘗ての新里の村構成は以前六〇戸で、「本当の新里は六〇戸」等という言い方をする。三十年程前までは、地縁により東ドウバンと西ドウバンの二つに新里を分け、東ドウバンがギョウバン様(地蔵寺)の祭を担当し、西ドウバンが天満宮の祭を担当した。その後三つの地域に分けて、それぞれ一番組、二番組、三番組とよび、祭り番はギョウバン様、天満宮ともに一年交替で行っていた。
 ドウバンの中は、さらに組合に分かれていたが、現在でも冠婚葬祭はこの組合を中心に行う。組合とは別に十戸単位で隣組というのがある。隣組は納税組合と回覧板をまわす単位になっているという。
        
                         綺麗の手入れされた境内
        
                    拝 殿
 拝殿の規模といい、境内に祀られている境内社や庚申塔の数からみても、旧
新里村鎮守社・旧村社の社格如きは当然であろうと思われるのだが、創立年代や由緒を記した物が手元になく、残念ながら社格には「不明」と記してしまった次第だ。
    
拝殿向拝部や木鼻部に施された色鮮やかな彫刻    拝殿手前で左側にある力石、手水舎・石燈籠
                                        石燈籠は「嘉永六昭陽赤奮若 龍集九月下荀五日」
        
             境内にある記念碑・庚申塔・石碑など
  左から凱旋記念碑・庚申・庚申・庚申塔・(?)・庚申・羽黒山 湯殿山 月山の石碑
        
      社殿左側横にある明和町指定史跡である「経塚附石経圓塔」を納めた祠
 明和町指定史跡 経塚附石経圓塔
  昭和五十六年四月七日指定
  所在地 明和町新里一一三番地
  所有者 菅原神社
 新里地蔵寺中興の祖、行鑁上人が疫病退散を祈願、心身を清め一石一字真心を込めて大般若心経を書写し正徳三年(一七一三)神社の北西に埋めた。
 明和八年(一七七一)地蔵寺僧慶陳がこの圓塔を建て所在を明らかにした。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会 
                                                                             案内板より引用
 また、令和2331日発行の『明和町HP 明和町の文化財と歴史』には「「ぎょうばん様」を以下の記述により紹介されている。
「ぎょうばん様」
 小比叡山地蔵寺の中興開山行鑁上人(ぎょうばん様)の略伝には、「寛永 17年(1640年)に奥州白河(福島県)に生まれ育ち、才智が非常にすぐれており、仏の教えをよく守り、徳行ともに人並みより優れ、希にみる高徳の僧であり、永く仏徒・村民の模範とすべきである」と記されている。
 ある時上人は、一石一字、大般若経六百巻、光明真言百万遍を書写して、この世の疫病による災難を救おうと一大念願を起こした。近隣教化の途中淨石を拾ってきて、その石に一字を書くごとに三礼をしながら書写した。それが終ったのは正徳3年(1713年)527日、その石を鎮守社(新里天満宮)の北西の隅に埋め、石経圓塔と称する塔を建てた。その後は、毎年病にならないよう法要(石経様)を行うようになった。これ以降、その功徳により村は永いこと疫病の憂いから解放された。たまたま近隣に悪疫が流行した時には、石経圓塔を発掘して村人に拝ませると悪疫は去っていったと伝えられる。この石経圓塔は町の指定史跡に定められている。上人は臨終に「67月は疫病の流行する時期であるので、我が法要は6月に行うように。」と遺言して息絶えた。時に享保2年(1717年)927日、享年77才だった。以降、上人の遺徳を偲び、毎年527日には法要(石経様)を天満宮にて続けている。また、7月下旬には行鑁堂で法要を行い、境内にて行鑁祭(夏祭り)が盛大に
経塚附石経圓塔行われている。
『明和町の昔話』にも「行ばん上人と厄よけだんご」として上記と同じような話が掲載されている。
        
               本殿奥に祀られている合祀社
        諏訪大明神・稲荷大明神・長良大明神の額が掛けられている。
        
                   静かに佇む社



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「
明和町HP」「明和町の文化財と歴史」等

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千津井三嶋神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町千津井5152
            
・ご祭神 大山祇神(推定)
            
・社 格 旧千津井村産土神・旧村社
            
・例祭等 春祭り 315日 夏祭り 7232425
                 
秋祭り 1115
 群馬県邑楽郡明和町千津井地域は、利根川中流域左岸にあり、江口地域の東側に接している。途中までの経路は江口諏訪神社を参照。そこから、東方向に進む道を650m程進むと、左手に千津井三嶋神社の鳥居が見えてくる。
「千津井」、なかなかの難解地名であるのだが、鎌倉時代に記録のある地名のようで、「せんづい」と読む。因みに、埼玉県旧騎西町には苗字として「泉津井(せんづい)」と名乗っている家が数戸あるというのだが、何か関連性があるのであろうか。
        
                 
千津井三嶋神社正面
            参道や鳥居も新しく整備されているようだ。
『日本歴史地名大系』 「千津井(せんづい)村」の解説
 江口村の東、利根川左岸に位置する。中世は佐貫庄に含まれ、嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文に千津井郷がみえる。下って天正一五年(一五八七)一一月一九日の北条家朱印状写(「紀伊続風土記」所収)には館林領千津井郷とみえ、梶原源吉に郷内八八貫八二〇文の知行を与えている。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方一四四石余・畑方三五〇石余。
        
                    拝 殿
              この社は南向きで、利根川に向かって社殿は配置されている。
   境内周辺には由緒等記している案内板はなく、創立年代等はハッキリとは分からず。

 千津井の産土神は三島神社で、明治の神社合併で愛宕様・天神様・八幡様・戸食様・稲荷様・雷電神社も合祀されている。三島神社は梅原にも一社あるが、あとは上の方に一社あるだけといわれている。昨年、本社に氏子たちが参拝に行って来た。御神体としては丸い鏡で、藤原という名のある柄鏡の柄をとって祀っている。河川改修で利根川の流れの中に入ってしまい、大正二 年に現在地に移転し今年完成した。
 三島神社の祭りとしては、春は三月十五日、夏は七月二十四日で、このときは二十三・四・五日の三日間あり、秋は十一月十五日の三回ある。七月の祭りは二十三日に神社で祭典があり、雹害と五穀豊穣の八丁締めを立てる。高い所へ立てるので氏子が梯子等を用意していて立てる。二十四日には早朝、有力者の先輩の家の庭で舞う。また希望を受けてやる。
 ニ十五日はササラをする。ササラに参加する者は、青年の場合と村全体の場合とがあった。
 ニ十六日は祭りに使った道具を整理、洗濯をして、収納箱に納めてから慰労会(直会)をした。例によってやることで、貰った御神酒なども処分した。残ると耕地毎に分けた。
                                 「
明和村の民俗」より引用
        
             拝殿には「正一位三島大明神」と表記

 嘗て利根川に橋がないころは、県の費用で渡し船を利用していた。渡し場は千津井・川俣・梅原・江口・斗合田と大体2㎞間隔位にあった。その中の「千津井の渡し」は、埼玉県と交代で人夫船(頭)に出て人々を渡した。斗合田境と江口境の二か所あり、その間は700mある。津井の渡し場には河岸があり昔は問屋が立ち並んだようだ。
        
             境内に祀られている庚申塔や馬頭観音等
 
        社殿横に祀られている末社群           末社群並びにお狐様が並んで祀られている。
  左から小天狗・大天狗・愛宕山神社・(?)        狐といえば稲荷神社であるが、
    辨財天・
(?)・庚申塔・道祖神        稲荷神社が近くに祀られているのであろうか。
        
                           社殿から見た利根川堤防の一風景

「明和村の民俗」によると、明和町で獅子舞を伝承している地域は、斗合田・下江黒•千津井・江口・梅原の五ヶ所あるという。その中の千津井では、三島神社の夏祭に獅子を出した。神前で舞ってから、笛.太鼓を鳴らしながら各戸を歩いた。 雄獅子(2)、雌獅子(1)棒使い(2)で構成し、道具持ちが付いて行く。演じる人は長男が多く。小学校四、五年生のうちからやった。 最初に棒使いをしてから、獅子舞に移る。()は高さ1m程の草刈、菴形の菴の中に一人入って蛇を持ち、笛の曲に合わせて蛇を出し入れするが、しまいには回りで舞っている獅子が、その蛇を飲む所作をする。「カネマキ」という名称である。「花」は花笠を被った四人が四隅に立ち、互いに縫うように踊る。
        
            社の東側の道端に大切に祀れている地蔵様
    周囲の木々の手入れもしっかりとされ、地域の方々の篤い信仰心を物語るようだ。 

「弓くぐり」は二人で長さ2mの弓を引っ張って、くぐって踊る。獅子舞の笛は竹製で、朱塗りのいい笛があり、座敷に上って吹く。
 七月二十四日が三島神社夏祭の本番で、獅子舞は申し込まれた家々を回って演じた。悪魔除けのため、お祓いを持って座敷に上り奥まで一巡してから、庭へ出て踊って行く。家族が獅子頭をかぶってもらうと悪魔除けになるという。
        
               千津井地域の利根川堤防の眺め



参考資料日本歴史地名大系」明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

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