古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柳生鷲神社

 前項「麦倉鷲神社」の北側裏手には、廃川となった「合の川の河川跡」があることは解説した。この合の川は利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっていて、利根川が埼玉県加須市飯積地域で北へ分流し、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れる。その後麦倉鷲神社付近で北方向に流路が変わり、板倉町下五箇で谷田川に合流するのだが、流路が北方向に変わるその右岸一帯はほぼ柳生地域にあたり、柳生鷲神社はその地域北側の河川跡の東側に鎮座している。
 この柳生鷲神社は、麦倉鷲神社同様に嘗て存在していた河川に隣接した地に鎮座していて、共に現在「天穂日命」を主祭神として祀っているのだが、地形的な特徴を鑑みると、本来は水田を守り、度重なる河川の氾濫を防ぐ水神を祀るための社ではなかったかと漠然と考察している次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県加須市柳生2378
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧柳生村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
「北川辺西小学校前歩道橋」交差点から北西方向に走る埼玉県道415号柳生停車場線に分岐するY字路を左斜め方向に進行する。この道路は「合の川の河川跡」に沿った道であるのだが、道幅が狭いので、周囲の道路状況に注意しながら北方向に600m程進む。その後「久保山集会所」がある方向に左折するのだが、左手には旧河川の堤防が一面に見え、如何にも河川沿いを連想させる風景が広がる。「久保山集会所」から直線方向にて400m程北側に柳生鷲神社は境内を巨木・老木に囲まれている中、静かに鎮座している。
        
                  柳生鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「柳生村」の解説
 東は小野袋村の西に位置し、北西は間の川跡を隔てて上野国邑楽(おうら)郡下五箇(しもごか)村・海老瀬(えびせ)村(現群馬県板倉町)。柳の茂った原野を元亀年中(一五七〇〜七三)開発したという。日光道中から中山道へ通ずる脇往還は、村内で海老瀬村に至る道と麦倉村へ通じる道の二条に分れた(風土記稿)。
 検地は寛永六年(一六二九)関東郡代伊奈忠治、寛文五年(一六六五)下総古河藩が行った(風土記稿)。田園簿では水損場と記され、田高三一九石余・畑高四七〇石余であるが、明和九年(一七七二)には一四六石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
『新編武藏風土記稿 埼玉郡柳生村』
「往昔は柳樹多く茂りたる原野なりしを、元龜年中開發して一村となせし故、かく村名を唱へりと云(中略)日光道中より中山道への脇往還かゝる、村内にて二條となり、一條は上州板倉道と號し、麦倉村へ出づ、一條は同國飯野道と唱へ、邑樂郡海老瀬村へ達す」
「間ノ川 村の北西国境にあり、此川當村の地先より川上の方は今川蹟となりて陸田等を開けり、又東の方小野袋村によりし方より川下は、水流通じて田間の惡水等落合ひ、川幅も七十間に至れり、こゝに板橋を架して對岸海老瀬村に達す、是前に云飯野道なり、川にそひて堤あり」
 

   鳥居の左側に設置されている案内板    鳥居・社号標柱の右側にある「鷲明神社記恩碑」
        
                               東向きの広々とした境内
 案内板によると、柳生鷲神社の創建は天正15年(1587915日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。現在の社殿は昭和2410月新築・竣工されたもので、内陣には神像・神輿が奉安されているという。また柳生薬師堂は、鷲神社内にあり、もと鷲山宝蔵院東光寺の薬師堂にて薬師如来が安置されている。鷲神社二隣接していた東光寺は、天正13年(1585)の草創で、開山は恵雄和尚で、寛文七年(166735日寂した。なお、宝蔵院は明治6年(1873)神仏分離により廃寺となったという。
鷲明神社記恩碑」は読みづらい箇所が多数あり、全体の解説はできないが、「水旱疾疫」「水患凶」と読める所もあり、嘗て利根川及びその支流が乱流するこの地域に生きた人々が苦労しながらも、「神明之徳人心自正協力相助克堪」と記しているように、協力・相助しながら必死に耐えてきた歴史を克明に記録した碑文なのであろう。
        
                                     二の鳥居
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町柳生二三七八(柳生字中耕地)
 柳生の地は、往昔乱流する利根川の河岸に柳の木が多く茂っていたことからその名が付けられた。柳生の開発は元亀年中と伝えられ、村人は水害に悩みながら少しずつ田畑を広げたという。口碑によると、当地の草分けは三三戸で、現在本家祭りを続けている人たちの先祖であると伝える。
 当社の創建は、『風土記稿』によると天正一五年九月一五日で、鷲ノ宮に鎮座する鷲宮神社より勧請したという。
 祭神は、天穂日命と武夷鳥命である。内陣には、木造の神像を安置している。
 別当は幕末までは真言宗鷲山宝光院東光寺で、天正一三年の開基である。また、鷲宮神社の神主も幕末まで当社の神楽修行を務め、毎年三月一五日には春神楽を奉奏した。
 本殿は一間社流造りである。社殿の造営については二枚の棟札が現存しており、建築年代を知ることができる。一枚は享保一一年九月一九日に本地堂を宝光院行誉法印の代の再建、一枚は、宝暦三年九月一五日に拝殿を同院の快舜法印の代の再建のものである。
 明治に入り、神仏分離により宝光院は廃され、当社に神職を置くようになった。また「デイノ権 現様」と称される十二所権現社も、この時代に合祀された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿左側奥に祀られている合祀社         社殿奥に祀られている石碑・石祠等
      左から愛宕社・浅間社        左から小御嶽山・〇・大杉大明神・天神社
       
                       社殿右側に祀られている境内社。台山社・三峰社
     
                   拝殿右側手前にあるカヤのご神木(写真左・右)
   このカヤの巨木は、加須市保存樹木(指定番号94号、幹回270㎝)に指定されている。
 柳生鷲神社の境内には、カヤの巨木の他、ケヤキ(指定番号88号号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号90号、幹回280㎝)・エノキ(指定番号91号、幹回370㎝)・イチョウ(指定番号92号、幹回340㎝)・イチョウ(指定番号93号、幹回340㎝)等が参道両脇に聳え立つ。その姿は正に圧巻である。

 因みに、このご神木の根元には「祝鷲神社基金 金貳百圓也 石島本家」と刻まれている石碑がある。
 この石島家は、『新編武蔵風土記稿 柳生村』にも「舊家者才次郎 石島氏にて當村の名主をつとむ、先祖石嶋主水助は小山小四郎に仕ふ、天正十年北條家より佐野修理太夫宗綱をして、下野國榎本の城主藤岡山城守を攻るの時、小四郎藤岡に加勢し、後詰の勢を出して、小田原の人數を追崩せり、其時主水助もしたがひて功あり。又傳ふ天正十一年七月十一日、小田原勢打向ひし時、小四郎敗北せしかば、主水助小四郎に従ひ、郡内大越村へ落ち、其後又當村に移り住せりと云、(中略)されどこの傳ふることゝ、後に載せたる文書と事蹟合せず、按に小山氏天正の始は藤岡氏に與みし、後天正の末に至り、却て小田原に與みして藤岡を責し頃、主水助も小山氏に従ひ功ありしかば、後にのせたる天正十八年庚寅の感狀を賜はりしものなるべし(以下略)」との記載がある旧家である。

     社殿の右側隣にある薬師堂        薬師堂の手前に並ぶ普門品供養・庚申・
                              大乗妙典供養塔
        
                   境内の様子
 ところで、柳生地域には独自の風習が存在しており、開発の早いちくが祭祀執行の要をなし、更にこの中に「本家祭り」を行う集団が存在することである。本家祭りは、一般に先祖祭りとも称し、柳生村開発当初からの草分けの子孫が一月一五日に行う祭りである。これは村の本家格の家より構成され、現在は転出等により二五戸になっている。
 この祭りの特徴は、子孫に祭祀執行の権利があるとともに、伝承の義務を有していること、また他の氏子にの参加は排除され、閉鎖性も強いということである。
 但し、このような祭りにおいては個人がどのように進行するかはあまり意味を持たない。重要なのは、開発当初からの運命共同体としての意識を持つことであり、この場に参加することに意義があるのであろう。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「境内案内板・石碑文」等

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麦倉鷲神社

 
        
              
・所在地 埼玉県加須市麦倉124
              
・ご祭神 天穂日命
              
・社 格 旧麦倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 211日 春祭り 43日 夏祭り 77
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1123
「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている「埼玉大橋」を越え、1.5㎞程北上した「北川辺消防署前」交差点を左折する。その後、同県道369号麦倉川俣停車場線を西行すること1㎞程にて「加須市立北川辺西小学校」に到達し、そこから県道沿いに進むと、進行方向右手に麦倉鷲神社の一の鳥居が見えてくる。
        
                  麦倉鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「麦倉村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は大曾村・柳生村、南は利根川を限り、北は間の川跡を隔て上野国邑楽郡下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。田園簿によれば田高六二一石余・畑高七九六石余。宝暦一一年(一七六一)前々古新田改出の二〇五石余が新たに加わり高一千六二三石余となる(「村鑑帳」小室家文書)。反別は寛文四年(一六六四)に田方一〇三町二反余・畑方一六八町六反余(「麦倉村検地帳」同文書)。宝暦元年立野たての新開畑五町三反余が検地をうけ、前掲村鑑帳では田方一〇三町三反余・畑方一七四町九反余となっており、江戸時代を通して畑方の開発が促進された(同文書)。
        
                          南北に100m程続く比較的長い参道
「埼玉の神社」によれば、麦倉の地は明応年間(1492年〜1501年)のころに開拓が行われた所であり、当地の領主である石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄11年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人「鳥海多津儀」は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈り、以来同家は当社の社家となったという。
『新編武蔵風土記稿 麦倉村』
「當村明應の頃開闢して、石川權頭義俊と云人居城を構へ則領主として住せしが、羽生の城主木戸相模守と合戦に及び、石川焼打にせられ、利を失てより一村悉く廢地となれり。其時石川義俊の家臣に鳥海丹後と云もの、城中を遁れいで、野州に立退き、彼が子孫慶長の頃、又當村に来り再び開發せりと云」
 また麦倉鷲神社の創建は、当地が開発された時期と同じく、明応のころ勧請された村鎮守であると記されている。
「鷲明神社 村の鎭守なり、當社は明應の頃勸請する所なりと云」
「南光院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、元弘山と號す、本尊不動を安ず、當院は延元の頃開て其後廢せしを、明應の頃再び建立せしと云、及傳と云僧を祖とす、俗稱を石川主膳と云、石川權頭義俊が一族なり」
         
                     拝 殿
           拝殿中央部には鷲神社らしく鷲の図柄が描かれている。
    因みに拝殿の手前で、参道を横切る道があるのだが、この道は上州板倉からの旧街道という。

 鷲神社  北川辺町麦倉一二四(麦倉字本村)
 麦倉の地は明応のころに開拓が行われた所である。領主の石川氏の館を倚井館と称し、その跡地である今の北川辺西小学校には記念碑が建てられている。
 領主石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れるが、残った家臣は天正年中この地に入り開拓に努めた。その一人鳥海多津儀は、旧領主が延徳二年に勧請したと伝える当社の神主となり、麦倉の安泰と村民の安穏を祈る。以来同家は当社の社家となる。
『風土記稿』によると、鷲明神は明応のころ勧請された村鎮守であると記され、また、神主鳥海家については、丹波の代で京都吉田家の支配を受けるようになり、その先祖は石川俊重の臣で多津儀という者が神主になったとあり、麦倉の地に残る口碑と一致する。
 鳥海家は神社脇に居を構え、大正一〇年ごろまで神職を務めていたが、その後昭和三〇年代の末に焼失してしまった。鳥海家の後には、上田金助が神職となり、今は武良が跡を継いでいる。
 当社の合祀は早く、明治五年に耕地中の神社を合わせたといわれるが、今日確認できるものは筑道の熊野神社(権現様)、本田上耕地の愛宕社の二社で、これらは終戦後それぞれの元地に戻っている。
 祭神は天穂日命で、一間社流造りの本殿には正徳二年七月七日付の京都吉田家からの幣帛が納められている。
平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している
                                                                    「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に記載されている麦倉地区の領主であった石川氏は、俊重の代に羽生城主木戸氏と争い、永禄一一年に敗れているのだが、その敗れた原因を「時期的に丁度とうもろこしの伸びたころで、敵が隠れるには好都合だったために敗れてしまった」との由緒が残されており、石川家と一部の氏子はとうもろこしを作らないといわれている。
        
                              社殿から参道方向を撮影

 ところで、麦倉鷲神社の北側裏手には、廃川となった「合の川の跡」があり、グーグルマップ等の地図にもこの流路跡はしっかりと確認することができる。この合の川は、利根川の旧流路の一つで、現在は廃川となっている。合の川は、利根川が埼玉県加須市飯積で北へ分流した流れで、加須市と群馬県邑楽郡板倉町の境界(旧武蔵国埼玉郡と上野国邑楽郡の境界)を東へ流れ、板倉町下五箇で谷田川が合流した後、加須市小野袋へ至って旧渡良瀬川へ合流していて、古代には利根川の本流が流れたとする説もある。
 元和7年(1621年)に新川通が新たな利根川本流河道として、加須市佐波(飯積から下流へ2km)から旗井(久喜市栗橋の北1km)までを開削し、渡良瀬川に接続し、これに伴い、合の川への利根川分流水量は増水時を除けば僅かとなる。その後、天保9年(1838年)に流頭が締め切られ、廃川となった。旧渡良瀬川へ至る下流部は谷田川へ譲った。
『新編武蔵風土記稿』
「利根川 新利根川なり、もと利根の流は飯積村の地先より佐波村の方へ流れしに、水路不便なれば寛永十九年伊奈備前守奉り、新たに當村の地さきより新川を掘割、かの飯積村の本流に通ぜしよし、元の流れは古利根川と呼び、土人此川を新利根川と唱へり、夫より二里餘を東流し、新古の二流合してより、此名は唱ずしてたゞ利根川と呼べり」

 合の川は人工的に締め切られた経緯から、流路内の比較的水深のあった場所は池沼として残り、流路跡に散在している。その他の流路跡の土地利用としては主に水田などの農地として利用されている。流路跡のほぼ中央部には谷田川へと至る水路が所在している。また、流路跡の両岸には当時の堤防が残されており、堤防上は道路などとして利用されているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等


 
  

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飯積鷲神社

 埼玉県旧北埼玉郡北川辺町は、県の北東隅に位置し、利根川の左岸(北岸)にある県内唯一の町で、都心から60㎞圏内に入る。東西6.5㎞、南北6.9㎞。東は渡良瀬川を境に茨城県古河市、南は利根川を挟んで大利根町(現加須市)・加須市、西は群馬県邑楽郡板倉町、北は谷田(やた)川を境に栃木県下都賀(しもつが)郡藤岡町に接する。利根川と渡良瀬川合流点の沖積低地に位置し、地形は河川の乱流により形成された自然堤防・後背湿地、流路跡からなる。標高は1315mを示し西部が高く東部が低くなっている。飯積(いいづみ)地域の自然堤防上で古墳時代後期の土師器・須恵器などが出土しており、集落跡と考えられ、「東」と墨書された土師器も発見された。また古代から中世にかけて、現在の渡良瀬川三国橋辺りは古河渡として知られ、「万葉集」をはじめとする多くの歌に詠まれる名所であった。
 古くから洪水に悩まされたが,近年は治水対策が進み,堤防が完備。県下の穀倉地帯の一つで,米作,野菜の施設園芸が行なわれる。南部を流れる利根川の瀬替えによって埼玉県側と切り離された孤立地域となっていたが,埼玉大橋が開通して解消された。
 1955年(昭和30)川辺村と利島村が合体して北川辺村となり,1971年(昭和46)町制施行。2010年(平成22)、騎西町・大利根町と共に加須市に合併している。
        
             
・所在地 埼玉県加須市飯積2001.
             ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             ・社 格 旧飯積村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 211日 例祭 43日 新嘗祭(秋祭り) 1123
 埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かる埼玉大橋を越えた最初の信号のある交差点を左折、一旦南下して麦倉八坂神社に到達後、埼玉県道368号飯積向古河線を利根川上流沿いに2㎞強西行すると、飯積鷲神社が鎮座する地に到着することができる。すぐ先は群馬県板倉町である。
        
                  飯積鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「飯積村」の解説
 利根川左岸に位置し、東は麦倉村、南は利根川を隔てて大越村(現加須市)、西北二方は間の川跡を境に上野国邑楽郡島村・下五箇(しもごか)村(現群馬県板倉町)。天正二年(一五七四)一二月二日の御料所方書上(喜連川家料所記)によると、向古河(むこうこが)近辺の「いゝつみ」は古河公方領で、町野義俊に知行地として宛行われたが、同元年までは羽生勢に押領され、このときは上野館林城の長尾氏に妨害されていた。
 田園簿では水損場と記され、田高三一一石余・畑高六〇六石余。寛文四年(一六六四)検地があった(風土記稿)。明和九年(一七七二)には一五〇石余が高入れされており、新田が開発されたことがわかる(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。

 また「埼玉の神社」による地域名「飯積」の地名由来として、御諸別王(みもろわけおう)東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。
        
                綺麗に整備されている境内
 境内には「飯積鷲神社移転記念碑」が建っており、その碑文によると、国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所が計画実施した「大高島地区高規格堤防河川防災ステーション」整備事業により収用され、北川辺町大字飯積字本村18811及び13番地から、飯積字本村2001及び2番地に移転新築したものであるという。
        
                                       拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡飯積村』
 鷲明神社 村の鎭守なり、萬治年中の勸請にして享保五年二月九日正一位の神位を請ると云、
      金剛院持、
 金剛院    本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下にて、上田寶藏寺と號す、本尊不動を安ず、
       開祖宥傳寛永二年二月十六日寂す、


 鷲神社  北川辺町飯積一五二(飯積字本村)
 鎮座地飯積の地名は、御諸別王東夷平定の時、当地において飯(いい)を炊きだしたのに由来する説と、古利根川自然堤防の小高い所に集落をなしたのでこの名があるとの説がある。なお、「イイ」とは自然堤防の小高い所を呼び「スミ」は住むであるといい、古くから開かれた所であると考えられる。
 当社の創建は、社伝によると現宮司上田武良の祖である本山派修験上田山宝蔵寺金剛院が、万治二年鷲宮から同院の境内に勧請したという。この年は上田家の先祖が戦いに敗れて、当所に定住してから三〇年を経た時であるという。当社に限らず、当地方の鷲神社は万治年中の創建を伝えるものが多いが、それが何を物語るかは不明である。
 享保四年一一月三日に正一位の宣旨を受け、更に相殿の稲荷社に対する山城国紀伊郡本宮(伏見稲荷大社)からの天保八年七月一日の分霊証書がある。明治五年に村社となる。
 社殿内、中央に一間社流造りの当社本殿があり、その右に明治末期に同字中新田から合祀した鷲神社、左に新屋敷から合祀した鷲神社があり、各々一間社流造りがある。ほかに幕政期、同字編照院持ちの稲荷社・浅間社・愛宕社を同時に合祀したが、昭和三三年旧氏子の要請により返還した。境内には明治期に同宇内から集めた石仏類がある。
 *現在の鎮座地は移転の為、住所は違うが、敢て文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
             拝殿手前右側には「天満宮」の石碑や、伊勢参拝記念碑等が並ぶ。

 境内北側の道路沿いには石碑・石祠群が横一列に並んで祀られている。
 
左から?・青面金剛仏・
青面金剛像・庚申塔・   青面金剛像や十九夜・十九夜念仏供養
 庚申塔・二十六夜塔・?・稲荷社・水神社      稲荷社等の石祠・石仏が並ぶ。

 飯積鷲神社は耕地の神様として、また鷲大明神というところから、明神様の名で親しまれている。主祭神は天穂日命・武夷鳥命である。氏子は幕政期本村のみの鎮守であったので、四〇戸余りであったのだが、明治末期に新屋敷・中新田からそれぞれの鎮守鷲神社を合祀したため、百余戸と増加し、現在は飛び地の三軒と高野を含めて一八〇戸と推移している。
        
                                社殿から参道方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「境内掲示板」等

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小見久伊豆神社

 小見久伊豆神社は、旧小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当をつとめていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位区伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われている。明治6年に村社に列格、明治43年には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているのだが、現在は「小見集会所」と繋がっているような造りとなっていて、小ぢんまりとした社となっている。
        
               
・所在地 埼玉県行田市小見935
               
・ご祭神 大己貴命 事代主命
               
・社 格 旧小見村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例祭 1015
 国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折すると右側に真観寺、及びその本堂の裏山のような形で現存する全長112mの小見真観寺古墳が見え、県道を挟んで北側には推定墳長約60mの前方後円墳である虚空蔵山古墳がある。この虚空蔵山古墳の100m程先にある丁字路を左折し、暫く進むと正面に小見久伊豆神社が見えてくる
        
                 
小見久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「小見村」の解説
 北は星川を隔てて荒木村、東も見沼代用水を境に同村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高六七〇石余。田園簿によれば田高二六〇石余・畑高四〇九石余で、旗本四家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで続く。国立史料館本元禄郷帳ではほかに真観しんかん寺領がある。城付谷郷組に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人七八・水呑一、家内人数四八〇(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には本人八二(忍領石高社寺人別帳)。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小見村』
「土人の說に當所は昔小見信濃守登吉が領知なりしゆへ、後に村の名に唱へしといへり、彼登吉は成田氏の家人にして、百貫文を所務せしこと其家の分限帳に載せ、近き世の人なれば、此人當村に住せしをもて、却て在名を氏となせしも知べからず、又同書に小見源左衛門
・小見源蔵と名を記す、是も登吉が一族なるべし」

『新編武蔵風土記稿 小見村』に記載されている「小見・麻績(おみ)」氏は、日本の氏族の一つで、平姓小見氏(小海氏)、源姓麻績氏(小見氏)、藤原姓小見氏(麻績)等の一派があり、そのうち武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏は、藤原姓小見(麻績)氏の出といわれている。この氏族は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族であり、戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まりという。
・田原族譜「佐野越前守成綱(正和五年卒)―小見左衛門尉是綱―小見左衛門佐盛綱―小見小太郎左京進義綱―小見左京大夫行綱―小見左衛門佐行清―小見三郎行秀(武蔵守、武州小見城主)―小見出羽守秀政―小見下総守正国―小見左兵衛門伊勢守行国(弟池林三郎行久、其弟池上四郎行家)―小見越後守行春、弟佐山二郎行武(後安芸、佐山城主)、其弟鯉塚右京大夫行氏(伊賀介、鯉塚城主)、其弟箱田左門行吉(安房守、藤岡住)。出羽守秀政の弟若小国伊豆守秀房―砂永右京助政行(武州成田住)―砂永大膳吉行(入道一徳)」
 
 参道左側に祭られている境内社。詳細不明。  その右側並びには「久伊豆神社改築碑」あり。

 この境内社に関しては、明治43年217日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているので、その合祀社であるか、同2年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めた境内末社ではなかろうか。
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  埼玉県行田市小見九三五
 当社は小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当を務めていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位久伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われる。
 文化十年の奉納額に「武蔵なる小見邨の鎮守、本地は馬頭観世音にして毎歳祭礼七月十九日也とききぬ、御口は本迹無二の誓約ならめと仰ぎ奉り得る、久伊豆の大明神も水草の外に余念の無き馬頭尊、癸酉夏六月廿四日、密宗八十二翁道本」と記してあるほか、専蔵院時代の記録はない
 明治九年一月の「久伊豆営繕常備金貸付帳・第十四区小見村」をはじめとして文書十数点を蔵する
 明治六年に村社となり、同四十三年二月十七日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀する
 本殿は一間社流造りであり、祭神は大己貴命・事代主命である。境内末社は、明治二年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めたものという
 大正十二年、関東大震災により拝殿全壊、同十四年再建する
 社有地は山林四畝十五歩を残し、明治期合併により得た土地は農地解放により失っている
                                   「埼玉の神社」より引用

        
                   社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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真名板久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市真名板1312
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧上下真名板村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 1015
 行田市・真名板地域は同市東端部に位置していて、西で下須戸・藤間・小針、南で関根、北で羽生市下新郷、東で加須市串作・阿良川・外田ヶ谷に接する。埼玉県道32号鴻巣羽生線が縦断し、北端の概ね羽生市との境界線上を埼玉県道128号熊谷羽生線が通過していて、西端で見沼代用水に接している。
 真名板高山古墳から南北に通じる埼玉県道32号鴻巣羽生線を隔てて北西方向で、目視でも確認できるくらい、近距離に鎮座している。周囲は一面広々とした田畑風景の中に、ポツンと社叢林が見えるので分かりやすい。
        
                 
真名板久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「真名板村」の解説
 西は藤間村、北は下新郷村(現羽生市)、東は串作(くしつくり)村(現加須市)。薬師堂境内に真名板高山古墳があり、墳丘には「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)一月九日および同四年一月六日の弓始の条にみえる真板次郎、同五郎次郎の館跡土塁が一部残るという。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領分役高一一六石余、旗本領分役高四〇〇石余。

「真名板」という地域名は難解地名の一つといわれていて、調理で食材を切る際に台として用いる「まな板」を連想させる名前であるため、料理用具に関連する地名かとも思える。但し、『新編武蔵風土記稿』にもこの地名があるため、この地名は少なくとも江戸時代以前からあったと考えられる。また、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、「吾妻鑑」にも鎌倉幕府の御的始に十一回出場の弓の名手と云われた「真板五郎次郎経朝」が登場する
吾妻鑑巻三十五「真板五郎次郎経朝」
・ 〃 
巻四十二「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」
 尚、現行田市真名板地域には、新義真言宗花蔵院という寺院があって、明治時代に廃寺となっているのだが、吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑がある。
 この「真板」氏は「まないた」氏とも読み、「真名板」とも表記する。
        
                                   参道の様子
 さて、この「真名板」地名由来として、地形に関係しているという説がある。つまり、「まな」=「まな+ご(真+砂)」という意味で、小石や砂利を指しているという。この地域の北側には古利根川(会の川)が流れていて、河川が運んできた小石や砂利が地形を形成し、そこから名前がおこったと考えられるとの事だ。
 考えてみると、近くにある真名板高山古墳は、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3m埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約910m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明している。
「真名板」地名も当然地形を表す地名という事になろう。

    参道右側にある伊勢参宮記念碑       参道左側にも伊勢参宮記念碑が建つ。
  その左側には
辨才天の石祠が祭られている。   この社には伊勢参拝記念碑が多くある。
       
                                       拝 殿
 久伊豆神社  行田市真名板一三一二
 当社の由緒は不詳である。境内近くに真名氏の館跡と伝える花蔵院通称薬師堂があるが、社より寺の方が古いかもしれぬと氏子は言う。正式には真言宗薬王山花蔵院と称し、現在は曹洞宗全龍寺が管理している。「風土記稿」によると花蔵院が当社の別当であった。なお、明治年間に花蔵院が焼け、関係文書も焼失したので、近世以前の事が全く不明となってしまった。
「明細帳」によると、主祭神は大己貴命であり、明治四年に村社となり、同四一年に上・下耕地の八坂社、三ツ家の浅間社を合祀している。しかし、この合祀では、下耕地の八坂社は移転せず、浅間社は薬師堂隣接の高山古墳上に移されている。また、上耕地の八坂社は境内に合祀され、現在の社号標傍らに移されていたが、老朽化のため昭和二〇年に取り壊された。
 社殿は明治二〇年に焼失し、その五か月後に仮殿を設け、同二八年に再建された。なお口碑によるとこの時、拝殿は他村より購入し、解体して運んできたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
       
                                       本 殿
       
                                  社殿からの一風景
       
                               社から見た真名板高山古墳


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「Wikipedia」等

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