古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下中森長良神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字下中森86
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1944132,139.4761404,16z?hl=ja&entry=ttu
 上中森八幡宮から一旦北上して群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流後、そこを右折、同県道を1㎞程東行した十字路を再度右折し、450m程南下した利根川土手のすぐ北側に下中森長良神社は鎮座している。
本来ならば、上中森八幡宮から土手伝いに西行するほうが、近道で当社に到着できるのだが、実際には社同士直通する道はなく、道が入り組んでいて少々説明しづらいので、県道を通るルート説明となった。
 また社周辺には適当な駐車スペースはないため、近郊にある「下中森公民館」の駐車場を利用してから参拝を開始した。
        
                 
下中森長良神社正面
              画像左側には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「下中森村」の解説
 [現在地名]千代田町下中森
 北東は大輪村(現明和村)、西は上中森村、南は利根川を隔てて武蔵国埼玉郡須賀村(現埼玉県行田市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では中森村とのみある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に下中森村高九三五石七斗余、田三六町三反余・畑五九町六反余とある。天和二年(一六八二)幕府領、旗本中根・新見領の三給となる。村高八八四石二斗余(分郷配当帳)。

 群馬県千代田町は利根川沿いにある為、太古の昔から今に至るまで、利根川から被害と恩恵を受けながら発展してきた。川沿いの舞木・赤岩・中森・瀬戸井等の部落は現在南に堤防が高く続いている。明治四十三年の洪水以後に築かれたものであるが、それ以前は江戸時代初期以来十余度の洪水に遭遇している。中でも元禄十二年の洪水の被害は大きく、その後、享保、天明、文政、明治年間に大洪水が繰返されてきた。下中森地域も同様で、過去利根川破堤の歴史、及び自然災害は途切れることなく発生していた。
・寛文11年(16717月 下中森破堤
・享保18年(1733) 下中森破堤
・天明3年(1783 75日〜8日浅間山爆発し、砂二寸も積もる。焼石、焼岩利根川に押し入り魚多く死す。硫黄の水も流出。浅間山史上最も著名な噴火である。
・明治43年(1910811日午前2 、下中森大輪境破堤、流失家屋四十六戸、耕地の被害田二百二十六町一反三畝、畑三百五十二町二反四畝、富永村において救助を受けたる戸数七百一戸、金額ーー、九四六円三厘という。
 このような水害をもたらした利根川は、一面陸上交通の発達しなかった時期には水上交通の動脈として大きな役割を果たしてきた。舞木赤岩・上五箇上中森には河岸が設けられ、物資の交流に役立っていたが 、その後、鉄道開通によりその機能を失った。
 利根川を控えた本村においては、舞木.赤岩・上中森• 下中森•上五箇には河岸や渡しがあって、対岸の埼玉県を通って東京(江戸)への通過地点として重要な役割を果してきたのである。
        
                   参道右手にある建物。神楽殿だろうか。
 土地の伝承によれば、明治四十三年の利根川の大洪水以前は、川巾が狭く、埼玉県側との人馬の交流が盛んであったという。なお、渡船は埼玉県側との間に次のような連絡がとれていた。下中森と埼玉県の須賀村、上中森と下中条村、上五箇と酒巻村、赤岩と葛和田村(これは現在も運行)、舞木と俵瀬村、このうち、俵瀬村は古くは赤岩村の一部であったが、寛永の頃埼玉県側の俵瀬村となったといわれ、赤岩からの分家の記録もあったという。上•下中森方面は、埼玉県の羽生市と、瀬戸井、上五箇方面は行田市と、赤岩、舞木方面は熊谷市との経済交流もあり、同方面への高校進学者もあり、また婚姻関係も密接であった。
 このように、埼玉県側との交流は古くから盛んであったことは、本村における習俗の面にも影響を及ぼしていたことであろう。
 社会生活の面でも、利根川の大洪水の影響がみられていて、洪水体験も各大字に伝承されているし、水防についてもいろいろな方法が考えられているのである。上五箇地域のように、大きな災害を何度も受けてきたことが今に伝えられる例もあれば、古海地域の用水取入ロの砂の取払い人員としての古海役とか、利根川の土手刈りなど、この地方の特色を示した習俗といえよう。
        
                    拝 殿
                      創建時期・由緒等は不明。
『千代田村の民俗』によれば、下中森長良神社の春、夏、秋の祭りに、下中森の宮総代がキリハギを作って悪魔除けとして、下中森と上中森の境界の道端に立てたという。

 ところで、瀬戸井長良神社は、邑楽郡下や一部新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十ニカ村の総鎮守であったという。
 長良神社は祭神を藤原長良公としており、土地の伝承によると、長良公が東国平治のためにこの地方に来て善政をしいたので、土地の人びとはその徳を慕ってすでに春日神社の末社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。伝承・伝説はあくまで参考資料として尊重すべき対象であるが、根源的な成立要因として、嘗て利根川水害の被害が多かったこの地形と関連づけて長良神社の成立を考えるべきであろう。
 長良神社の分布範囲が舘林市から大泉町の利根川流域(数社羽生地域にも鎮座)に限られていること、人柱伝説を伝えていることで神社は蛇ということあるいは秋の祭典にわらで龍のかたちをつくつて鳥居にかざること、この神社には龍がいて利根川の水を飲んだということなどから、同社の神格に、水神信仰との関連を推論することができそうである。
 当社は、利根川堤防に隣接するその立地条件からも「長良十八社」の一社と推測され、同じ文化・伝承を共有する社であるのであろう。
 
    拝殿上部の向拝・木鼻部の彫刻                          本 殿
        
              拝殿の左側に祀られている石祠群
 左側から(?)、正一位稲荷大明神、富士嶽浅間神社、御嶽三柱大神、三峯社、秋葉大権現・金毘羅大権現、(?)。写真には写っていないが、基段の下左端に庚申塔・(?)。
        
             社殿の右手に祀られている「英魂」碑
 
   「英魂」碑の右手に並列している石碑群    「合祀記念碑」の右側には「再建の碑」
   左から「工事記念碑」「合祀記念碑」     「凱旋記念碑」「凱旋記念碑」あり
 工事記念碑
 戦争を放来し文化の隆昌と民生の繁栄を国是として茲に(中略)利根河川改修工事等も逐年拡大補強が続けられていたのである。偶世紀の利根大堰建設に伴い、下中森地堤防の拡張が急速に促進され為に昭和401030日村社・長良神社の発展的な移転が此処に余儀なく決定されるに至った。
 世々に氏子が斎き奉る御社だけに移転の際には慎重且厳粛にその審議が進められ、結局此処に永く鎮り祀る歴史の尊厳を基調として、更に明日の部落永劫の繁栄を加護し給う〇〇十宮居を整工祀る事こそ其の局に当る者の責務也とし、先ず堤防敷地文として譲渡する197坪の土地に代え隣接する255坪を入手之工費に宛て、昭和411月着工の運びとなる(以下略)。
読みやすいように筆者修正した部分あります。
        
                   境内の風景
 この地域を含む群馬県南部利根川左岸の低地帯は「上州の空っ風」といわれる、冬時期特有の北風が吹く。この風は非常に強いため、冬を越すと堀が一年で泥で埋まるほどである。そこで、「イヤマ」と呼ばれる防風林を西北側に囲むような配置となっている。
 下中森長良神社の西北側にも防風林がしっかりと配置されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等

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上中森八幡宮


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町上中森11291
             
・ご祭神 誉田和気命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭 315日 915
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932841,139.4759106,16z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県行田市から「利根大堰」を渡り、群馬県に入る。そのまま北上して「上中森」交差点を右折し、群馬県道368号上中森川俣停車場線を300m程進んだ信号のある交差点を右折、「道祖神橋」を渡って突き当たるまで南下すると、進行方向右側で利根川の堤防手前に上中森八幡宮は鎮座している。
 社の北側近郊には「上中森公会堂」があり、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始する。目の前には利根川の長大な堤防が、そして周囲一面田畑風景が広がる低地帯の中にポツンと静かに社は鎮座している。
        
                  上中森八幡正面
        瀬戸井長良神社同様に利根川に向かって社殿は鎮座している。
『千代田村の民俗』による上中森村の解説
・名称 称呼ノ起因不詳建置已来上中森村卜称ス
所属 上古不詳 中古ヨリ邑楽郡赤岩郷ニ属シ佐貫荘ニ隸ス 寛文元年ヨリ館林領卜云フ 明治元年九月岩鼻県ノ管轄ニ属シ仝四年二月館林藩ノ管轄ニ属シ仝年七月館林県トナル 仝年十一月栃木県ノ管轄ニ属ス 仝五年四月第七拾区ニ属シ須賀村御用取扱所ニ属ス 仝六年三月第八大区八小区トナリ御用取扱所故ノ如シ 仝年八月第拾一大区八小区二編シ御用取扱所仝上 仝九年四月十日第四大区十二小区ニ編シ須賀村御用取扱所ヲ区務所卜改メ仝村ニ置ク 仝年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ第二十三大区八小区二編シ区務所故ノ如シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属シ郡区編制ノ令ニ拠リ上五箇上中森下中森ノ三ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ本村ニ置ク 仝十三年十二月分離独立シテ戸長役場ヲ本村二置ク 仝十七年七月一日上五箇上中森萱野木崎瀬戸井ノ五ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ上五箇村ニ置ク
 また『日本歴史地名大系』での 「上中森村」の解説によれば、「佐貫庄のうちで、永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、「上野国佐貫庄上中森郷内田陸段、在家壱宇、畠壱町肆段」は大輪又太郎時秀から太田彦三郎貞康に所有が移っている」との記載があり、鎌倉時代には「上中森郷」が存在していたことになろう。
        
    鳥居を過ぎてすぐ左側には上中森地域の土地改良記念にあたる「竣工記念」が建つ
 上記『千代田村の民俗』には、土地改修以前の上中森村の地形等を解説しているので、何故この地域に改修工事が必要だったのか、その理由が分かるので、是非参照して頂きたい。
『千代田村の民俗』による上中森村の地形等の解説
・水脈

 利根川上五箇村ノ南端ヨリ来リ本村ノ南ニ-沿ヒ東流シテ下中森ニ入ル 舟楫ノ便アリ 然レトモ霖雨暴漲ノ際汎濫ノ憂アリ 休伯堀上五箇村リ来リ中央ヲ東流シテ下中森村ニ入ル 則本村ノ用水ナリト雖モ已南ハ灌漑ノ利ナク已北ハ其便アレドモ夏候渇水ノ憂アリ 谷田川ハ本村ノ西北隅ヨリ始リ北境ヲ東流シ大輪沼新田ニ入ル 本川ハ悪水落二シテ霖雨ノ際流通宜シカラス悪水ノ害アリ
・地形全般

 地形稔魚に似タリ 閨村平担ニシテ南境ニ利根川ヲ帯ヒ舟楫ノ利アリト雖モ霜雨激潦ノ際汎濫ノ憂アリ 堤塘東西ニ旦リ休伯堀中央ヲ東流ス 則本村ノ用ナリ 然モ水量浅クシテ夏侯渇水ノ憂ヲ免レス
 
北部ハ窪地ニシテ谷田川ニ沿へ悪水ノ害ヲ被ル頃年ノ如シ
       
            鳥居を過ぎて参道左手側に富士塚大神
   嘗て千代田村では 、「富士講」は大正末から昭和の初期まで盛んであったという。
         社の境内にある石碑にもその足跡が残されているようだ。
 
  富士
塚大神の並びに祀られている境内社    境内社二社の右並びに祀られている石祠群
     境内社二社の詳細は不明       左から両社八幡宮 水神宮 稲荷宮 八幡宮 不明
         
                     拝 殿
 当社の起源は文献等なく、往古は不詳。寛政8年(1796 2月、別当である杉戸山常福院秀観の代に、社殿を造営し、その後大正卯411月には、社掌である南室傳氏の代に本殿・拝殿の大修繕を行っている。
 また『千代田村の民俗』によると、明治511月より村社に列している。
        
             境内に設置されている「移転改築記念」碑
 移転改築記念  村会議長 栗原忠重書
 八幡宮ハ上中森ノ守護神トシテ永年コノ郷ニ鎮座マシマスモ偶利根川堤防拡張ニ当リ昭和四十年十月二十三日境内地大福ニ買〇サレ参道ハ殆ド無クナル状態トナリ宮ノ尊厳保持ニ大ナル影響ガアルノデ敬神ノ念極メテ厚イ氏子一同ハ相談ノ結果村長川島源〇氏ニ協力ヲ求メ建設省ニ対シ社殿移転費捻出方ヲ歎願シタルトコロ快諾ヲ得タノデ直チニ建設委員会ヲ組織シ移転改築工事ニ着手ス玉垣建設ニツイテハ氏子ノ寄附ニヨル境内ノ整地其ノ他ハ総テ勤労奉仕ニヨルモノデアリ昭和四十一年三月立派ニ工事ヲ完成シタノデアル(中略)
                                     記念碑文より引用

        
                  境内の一風景
           利根川の堤防がすぐ目の前にある事がわかる。


参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等
  

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上五箇愛宕神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字上五箇8351
            
・ご祭神 火霊産命
            
・社 格 旧上五箇村鎮守・旧指定村社
            
・例祭等 春祭り 3月24日 夏祭り 724日 秋祭り 9月24日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1975842,139.46029,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を1㎞程西行すると、上五箇愛宕神社が進路左側に見えてくる。実は当神社を更に1.3㎞程西行すると瀬戸井長良神社が鎮座しており、当初ブログに紹介する社をどちらにするか迷ったが、千代田町地域の中心的な社である事を考慮して、最初に瀬戸井長良神社を紹介した次第だ。
 周囲には適当な駐車スペースはないため、路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                 上五箇愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』 「上五箇村」の解説
 [現在地名]千代田町上五箇
 東は上中森村、西は瀬戸井村、北は萱野村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・下中条村(現埼玉県行田市)と利根川中央で境界とする。用水として休泊堀が瀬戸井村から当村の中央辺を東流している。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に「上五ケ村」とあり、田方七石五斗余・畑方四六三石四斗余とある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高八〇五石五斗余、田一一町八反余・畑六六町八反余である。天和二年(一六八二)幕府領、旗本筧・柴田・奥山領の四給となる。
 因みに「上五箇」と書き、「かみごか」と読む。なかなか個性ある地域名称だ。
              
        鳥居左側には「指定村社愛宕神社」と刻まれた社号標柱が建つ。
        
      鳥居を過ぎたすぐ左手には、出羽三山講の塚と共に「芭蕉句碑」が設置されている。
 上五箇地域は「さんやま講」という江戸時代から大東亜戦争終了まで続く出羽三山信仰が盛んな地域であったようだ。[千代田村の民俗』でも、「羽黒山の先達 吉永家の先祖は羽黒山の大先達で、この地方の信仰を高めた。免許状に「紋秀院紋十郎 天保元年十二月二十日生 信心好羽前羽黒山入門 大先達号賜 万延元年九月一日 上野東數山輪王寺宮殿下紋秀院授与」とある。この人は大正三年九月一日歿 享年八十五才となっている」と記載がある。当地の「吉永家」が中心となって、年輩のもの(五十 六十才位))の男性が集まり、人数は16人くらいで、信心者が集まって講をつくっていたという。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。この3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
 
 二の鳥居手前で、左側に祀られている旭向(ヒノムク)八幡神宮(写真左)・三山敬愛神社。塚上には出羽三山の神が刻まれた石碑がたっている(同右)。
 元々この旭向八幡神宮(祭神は八幡太郎義家)は上五箇の小字福田に鎮座していた。これは上組の福田で祭っていたものだが明治43年のとき、愛宕神社へ合祀した(明治時代の大洪水が関係しているのであろう)。祭日は914日である。この八幡様には、つぎのような伝説がある。
「八幡太郎義家が蝦夷征伐に行くとき、利根川を渡って陸上(五箇地先)へあがったときに、太陽があがったので旭向ということになったという。なお、埼玉には、しぐれ八幡があり、邑楽町には鞍掛というところがある。鞍掛というのは、義家が、そこまで行ってつかれたので乗っていた馬の鞍をかけたので、そこをそう呼ぶようになったという」
 今でも福田の人々が主になって祭っている。ここは利根川の沿岸近くにある 昔八幡太郎義家が蝦夷征伐に来て、埼玉側から群馬側へ五箇の渡しを使って利根川を渡り始めた。その時は日暮れだったが、渡りきったら日が上がっていたので埼玉側に「日暮れ八幡」を祭り、こちら側に旭日(ヒノムコウ)八幡を祀ったという。
 因みに現在旭向旭向八幡神宮は愛宕神社拝殿内に祀られている。
        
                上五箇愛宕神社 二の鳥居
        
                    拝 殿
上五箇村鎮守愛宕大神御身鉢ノ由来大略」
 本村鎮守愛宕大神ノ御尊像ハ村民モ是ヲ知ルニ由ナシ 然ルニ大正四年八月二十八日(旧七月十九日)三山講社ハ鎮守ノ御神前ヲ借リー七日ノ水行執行中鎮守ノ神勅ニ依リ申佐久 我上五箇村ハ往昔戦乱ノ為メ在京ノ公卿東下シテ此地二落付守護神ナル京都ノ愛宕大神ヲ奉祭セント今 ノ地上二築キ 愛宕大権現卜名ニシテ崇拝セリ 又駒形ノ地ニ一堂宇を建立シ祖先ヲ祭ラント 今ノ阿弥堂コレナリ 石ヲ今年去ル四百十六年以前朝廷ヲ返乱セントスルヲ 京都ノ愛宕大神ノ御尊像ヲ負ヒ来リ関宿付近ニ安置ノ場所ノナキ故 利根川ノ水源ヲ極メテコレヲ安置セントテ当村ヨリ戸数三戸ニシテ社アルヲ発見シ 今ノ阿弥陀堂ニ至リ是ヲ安置シ京都ニ帰リ 然ルニ京都ニテハ其御尊像ヲ八方捜索セシヲ更ニ見当ラ ズシテ後ニ神体ヲ彫リテ安置セリト云 上五箇始祖ハ吉永ノ祖先吉永五計ナリ 故ニ後世ニ伝フ可キト申渡サレタリ 故ニ茲ニ録ス 鎮守ノ御尊像ヲ彫シタル今ヲ去ル弐千九百九十九年
 右是文ハ鎮守神勅ニシテ性吉永ノモノ講社モ多キ故 煩シキ恐茲ニ申渡シアリテ大正四年秋此箱ヲ作リ記念是事記スルモノナリ 九月一日
                                「千代田村の民俗」より引用

        
                 拝殿上部にある扁額
   この扁額は江戸時代の儒学者にして書家の亀田鵬斉によるもの。亀田鵬斉は当地出身者。
        
           社殿右側に合祀されている境内社・末社四基
「千代田村の民俗」に「山王社 浅間社 湯殿社 八幡宮 神明社 八坂社」と記されているので、それらのどちらかであろう。

  境内社・末社四基のすぐ目の前にあるもう一つの芭蕉句碑(写真左)とその石碑(同右)。
   この二つの芭蕉句碑は指定外ながら千代田町のHPには文化財として紹介されている。
       
                     芭蕉句碑の並びに建てられている石碑群

 この上五箇地域には、「上五箇のササラ」という獅子舞が盛大に行なわれていたという。愛宕神社の祭日は三月二十四日七月二十四日九月二十四日の三回あり、夏祭りの七月二十四日(以前は旧六月二十四日)には、ササラと呼ばれる獅子舞が盛大に行なわれていた。
 愛宕神社のササラがいつ頃から始まったか記録はない。いい伝えでは、昔はここも天王様の祭りで、暴れて多くけが人が出るので、川向こうの埼玉県須賀村下中条(現行田市下中条)の長楽神社から獅子を取り入れたものという。
 獅子舞には色々の種類があり、演じることをスルという。今晩は「ハナ」をスルべとか、「橋」をスルべとかいって練習する。二十三日の祭宵には「ハナ」をスルきまりで、二十四日の祭日には総代の家へスリこむ時に「橋」をスル。また、千秋楽には「弓」をスルことになっている。「ハナ」は造花のボタンの花と桜の花を一対ずつ置いて舞うものである。「橋」は模型の橋を置いて、男獅子二頭が先に渡り、残された女獅子が後から渡るしぐさを舞にしてある。「弓」は舞っている途中で小道具の弓を出すと、獅子が何だろうと探ってみるしぐさをする。「四本づくし」は幣束を四隅に立てて舞うものである。
 獅子の行例は次の道順で村を回りながら、要所要所で獅子舞をする。愛宕神社(六〇分舞う)⇒小宮四社(一〇分ずつ四〇分舞う)⇒三橋神社(一〇分舞う)⇒県道⇒中道⇒駒形神(舞う)⇒堤防⇒渡船場⇒愛宕神社(昼食、再出発)⇒長生寺(弁天様を六〇分舞う)⇒社総代(三人のうち一人の家に寄り、六〇分舞う)。
 この巡行は社内の厄神除けに回るもので、道中笛を吹きながら一行が進む。身体の弱い子は親に頼まれて獅子頭をかぶせてやると、丈夫に育つ呪いになる。道順は決まっていて、社総代の家以外には個人の家には寄らない。昼食は愛宕神社で食べて再出発するが、同じ道を二度と通らない。道中の家々ではバケツに水を用意しておいて、一行に水を飲ませてくれる。信心でもあり、余興にもなっていた。 
       
 上五箇愛宕神社の北側で、栃木・群馬県道38号足利千代田線沿いに三橋神社は鎮座している。         
   境内に設置されている「亀田鵬齋(かめだ           拝 殿
   ぼうさい)誕生の地」の案内板
 亀田鵬齋(かめだぼうさい) 儒学者
17521826)宝暦(ほうれき)2年 上五箇に生まれ、本名長興(ながおき)堂号 善身堂(ぜんしんどう)
「この子に最高の学問を授けたい。」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
 息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者に学び、どこでも頭角を現わした。
 時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。しかし、「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
 だが、日頃から豪放磊落(ごうほうらいらく)、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺(せんがくじ)に赤穂義士(あこうぎし)の顕彰碑(けんしょうひ)を建てたりした。
 越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。
 仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
 墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
 また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
 七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
                           『千代田町HP
 郷土の偉人より』より引用




参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「千代田町HP」「Wikipedia」等
  

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萱野白山神社


        
             
・所在地 群馬県県邑楽郡千代田町萱野1195
             
・ご祭神 菊理比咩神 伊邪那美命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭り 720
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2056524,139.4619043,15.75z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を直進する。1㎞程先には「ジョイフル本田千代田店」の大型ショッピングモールがあり、そのショッピングモールの真ん中付近にある丁字路を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。昔からある長閑な住宅街のようで、どことなく筆者の幼少期を思い出すセンチメンタルな感傷に浸りながらも、周囲の安全を確認し運転をしていると、進行方向右手に萱野白山神社の鳥居が見えてくる。ナビを利用しているが、移動するにも意外と簡単に到着ができ、ブログにも説明しやすい場所である。
 鳥居の左側には適当な駐車スペースがあり、そこの一角に停めて貰い、参拝を開始した。
        
                  
萱野白山神社正面
 手前の鳥居には「白山社」、奥の鳥居には「雷電社」の社号額。この萱野白山神社は、本殿と共に雷電神社も一緒に祀られているが、その合祀時期は不明との事。

『日本歴史地名大系』「萱野村」の解説
東は上中森村、西は赤岩村・木崎村、南は上五箇(かみごか)村・瀬戸井村・赤岩村、北は野辺村(現館林市)・木崎村。小泉城(現大泉町)の冨岡氏の所領を示す天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)に「館林領之内」として萱野がある。近世は初め館林藩領。寛永九年(一六三二)に村の一部を分離し、野辺村としたという(邑楽郡町村誌材料)。寛文郷帳に田方六五九石八斗余・畑方二六二石三斗余とあり、田方に「水損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高一千一一四石三斗余、田五二町九反余・畑五五町五反余である。
『千代田村の民俗HP』による「萱野村」の解説
名称 称呼ノ起因不詳 建置已来上中森村卜称ス
所属 上古不詳 中古ヨリ邑楽郡赤岩郷二属シ佐貫荘二隸ス 寛文元年ヨリ館林領卜云フ明治元年九月岩鼻県ノ管轄二属シ仝四年二月館林藩ノ管轄二属シ仝年七月館林県トナル 仝年十一月栃木県ノ管轄ニー属ス 仝五年四月第七拾区ニ属シ須賀村御用取扱所ニ属ス 仝六年三月第八大区八小区トナリ御用取扱所故ノ如シ 仝年八月第拾一大区八小区二編シ御用取扱所仝上 仝九年四月十日第四大区十二小区ニ編シ須賀村御用取扱所ヲ区務所卜改メ仝村ニ置ク 仝年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ第二十三大区八小区二編シ区務所故ノ如シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属シ郡区編制ノ令ニ拠リ上五箇上中森下中森ノ三ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ本村ニ置ク 仝十三年十二月分離独立シテ戸長役場ヲ本村
二置ク 仝十七年七月一日上五箇上中森萱野木崎瀬戸井ノ五ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ上五箇村ニ置ク
管轄 往昔不詳 寛文元年ヨリ天和二年迄館林城主宰相右馬ノ守綱吉之レヲ管ス 後五分シテ其ーハ前橋城主松平大和守之ヲ領ス 其四ハ旗下青山三之助 山'岡十兵衛 三浦甚橘 小出静五郎四氏ノ採地ニ属ス
明治元年九月岩鼻県管轄ノ分館林藩ニ属シ 仝年七月廃藩置県前橋藩ノ所管モ併セテ館林県ノ管轄トナリ 仝九年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属ス
        
                落ち着いた雰囲気の境内
        
                    拝 殿
 白山神社
 社格 村社明治五年十一月ヨリ村社二列ス。創建年月 不詳。
 祭神はククリ姫神。御神体はとぐろを巻いた蛇を手の平にのせている。七月二十日に夏祭りをする。獅子がでて盛んであった。獅子は厄神除けといわれている。村中の若い衆によって行われたが、獅子、ササラなどみな役割がきまっていた。七月十九日の午後と二十日は神前で獅子舞をし、二十一日は個別の家を回って、病んでいる人のわるい所をかんで厄神除けをした。
 むかし、御神木の杉があって、その皮をかじると虫歯によくきいた。不思議と痛みがとれたものである。
 白山様には雷電神社も合祀されているが、合祀の年月は不詳。千代田村は全区、瀬戸井の南室神官がとりしきっている。
                               『千代田村の民俗HP』より引用

        
                           境内に設置されている「芭蕉句碑」
社殿右側に祀られている境内社・富士浅間神社     墳頂に鎮座する富士浅間神社
富士浅間神社の手前には多くの石碑が祀られている。左側から、「高尾山」「?」「?」「小御嶽石尊大権現」「富士登山真願成就碑」「宇佐八幡大神。湯殿神社・若宮八幡大神」「五社神」等。
 
 境内社・富士浅間神社の手前にある庚申塔等  道路側にも庚申塔や境内社・八坂神社が鎮座



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗HP」等

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古海長良神社

『日本歴史地名大系 』「古海原前古墳群」の解説
 利根川左岸の後背湿地に囲まれた邑楽台地の南辺西寄りに立地する。東西約八〇〇メートル、南北約五〇〇メートルで、標高二五―三〇メートルの範囲に二六基の小型墳が分布するが、大半はすでに消滅している。昭和五九年(一九八四)から一号墳と二号墳が、道路新設に伴って発掘調査された。一号墳は墳丘の大部分が削られて墳形や規模は不明であるが、現墳丘高約三・三メートル、径約三〇メートルほどである。埋葬施設は墳頂直下に上下に重なって四基検出されている。
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や規模は小さいながらも古墳が数多く存在しており、発掘調査の結果、その遺跡や古墳からは埴輪(はにわ)や土器、石器、大刀(たち)、鏡などの埋蔵文化財が数多く出土していて、古海原前(こかいはらまえ)1号古墳や古海松塚11号古墳は群馬県指定史跡に指定されている。
古海地域東側にある「古海原前(こかいはらまえ)1号古墳」は、5世紀後半に造られた帆立貝式古墳で、四重に重なった埋葬施設が検出された。埋葬施設からは、副葬品として、捩文環式環頭大刀(ねじもんかんしきかんとうたち)と呼ばれる直刀、同向式画文帯神獣鏡(どうこうしきがもんたいしんじゅうきょう)と呼ばれる鏡、鉄製の馬具・轡(くつわ)、鉄鏃(てつぞく)、玉(ぎょく)類、供献土器(きょうけんどき)類などが出土している。
古海松塚11号古墳は、帆立貝式古墳で、円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪、大刀形埴輪、須恵器甕(すえきかめ)、高坏(たかつき)などが出土した。出土遺物の特徴から、5世紀後半のものと考えられている。人物、馬形埴輪については、東日本でも最も古い段階の人物、馬形埴輪に位置付けられており、群馬県内では最古に属しているという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡大泉町大字古海2209
            
・ご祭神 藤原長良公(推定)
            
・社 格 不明
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2310908,139.4098957,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 舞木長良神社から栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を大泉町方向に2.5㎞程進行し、「新福寺」交差点を左折する。群馬県道314号古戸舘林線にかわり、その県道を道なりに900m程進むと、進行方向右手に高徳寺が、そしてその寺に隣接するように古海長良神社が見えてくる。
 古海長良神社のすぐ左側には「古海西公民館」もあり、駐車スペースも十二分にある。
        
                  
古海長良神社正面
 古海長良神社の一の鳥居に掲げてある社号額には「贈正一位 太政大臣 長良大明神」と物々しい神階で表記されていて、規模は小さいながらも格式のある社なのであろう。
        
                  参道正面先の高台上に社殿は鎮座している。
 群馬県邑楽郡大泉町古海地域、また珍しい地域名で、「古海」と書いて「こかい」と読む。埼玉県道ように群馬県も「海なし県」であるのも関わらず、地域名が「海」が付く。いつものように『日本歴史地名大系 』で調べてみると「南を利根川が流れ、東は舞木村・新福寺(しんぷくじ)村(現千代田町)、西は仙石(せんごく)村、南は武蔵国幡羅郡善ヶ島村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は吉田村と接する。天正一二年(一五八四)と思われる六月二日の北条氏直書状(大藤文書)に「自新田古海へ相動候」とあり、大藤式部丞が北条氏にくみして当地域で戦っている。同年七月二三日には同人宛に「館林古海」での働きに対し北条氏直感状(同文書)が出されている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では田方四六石二斗余・畑方六三二石四斗余で、田方に「田方水旱両損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に高七九二石七斗余、田二町七反余・畑七一町一反余とある。慶安三年(一六五〇)のほか度々小規模の検地が行われ、延宝八年(一六八〇)の村高は八二七石四斗余」と「古海村」の解説がされているが、残念ながら「古海」の地名由来までは分からず、他の資料等確認しても同様であった。
          
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や古墳が数多く存在している。この社も高台上に鎮座しているのだが、現在は土塁・塚としての分類となっているようだ。
        
                    拝 殿
                            古海長良神社の由緒等は不明。
 盛夏の暑い中での参拝であるのだが、石段上の境内は鬱蒼とした森に囲まれているためか、暑さはしのげる。昼間の参拝にも関わらず境内はほの暗い。さすがにこの天候故、日中散歩をする近所の方も全く出会わず、社周辺は人気は全くなし。
 県道沿いに鎮座していて、車の往来も適度にあるのだが、境内に入ると車のエンジン音もほとんど聞こえなくなる。いつも思う事だが、森に囲まれている社は、我々一般の日々の喧騒とは無縁な、不思議な余韻に満ちた空間とも言えよう。
        
                                        本 殿
 
  拝殿に通じる石段左側に祀られている      社殿左側に祀られている境内社三基
  「猿田彦大神」、その隣の石祠は不明          どれも詳細は不明
       
                 境内の周囲には豊かな樹木に覆われている。
        その中でも社殿奥に聳え立つ巨木は、一際目立つ(写真左・右)
        
                         石段上部から鳥居方向を撮影
      境内はほうき等により掃き清められ、こじんまりながら纏まっている社だ。 
 
 古海長良神社の東側に隣接して、高徳寺がある。太平記でおなじみの児島高徳を開祖として開山されという。規模といい、嘗ては古海長良神社の別当的な寺院であったのではなかろうか。
        
             
高野山真言宗・醫王山延命院高徳寺正面
        
              入口付近に設置されている案内板 
 児島高徳公と高徳寺
 この高徳寺は後醍醐・後村上・長慶天皇と南朝三代の天皇に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開山されました。
 児島高徳は一三一一年備前国児島の尊瀧院(岡山県)で生まれて一三三二年後醍醐天皇が隠岐へ流される時 院ノ庄の御館の庭で「天莫空勾践・時非無范蠡」という十字の詩を書いて自ら范蠡を以て任ずるの意を奏上しました。その後新田義貞の傘下で戦い義貞死後は義貞の弟脇屋義助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子義治を擁して京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(一三七三年)攝津の天王寺に行宮せられた後村上に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命をうけて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万人を京都へ向かわせるなど、新田氏との関係が深かった。
 この上州へ建徳二年(一三七一年)新田庄御滞在中の宗良親王の許へ使いしたつを契機として、この地古海に隠棲して軍口守護神であった摩担利尊像を安置し、宗良親王に仕えたり、南朝の再興にも苦慮した。十一年…永徳二年十一月二十四日(一三八二年)享年七十二でこの寺で永眠されました。
 昭和五十五年七月一日 文岡野鉄次郎
                                      案内板より引用

 児島 高徳(こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。現在の岡山県倉敷市にあたる備前国児島郡林村出身。和田備後守範長の子。三宅備後三郎と称し備前(現岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆国・船上山(せんじょうさん・現鳥取県琴浦町)に脱出するや、一族を率い馳せ参じた。建武政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永212月には、丹波守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる・新田義貞の弟脇屋義助の子)を大将としてひそかに入洛し足利尊氏らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。但し、これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。
 
        高徳寺境内           高徳寺と古海長良神社の間にある七母殿

 この人物は謎が多い。意外と歴史通の方々には認知度の高い人物であるにも関わらず、まず生没年がはっきりと分かっていない。一応、高徳の子孫の所蔵する『三宅氏正伝記』には、正和元年(1312年)生誕、弘和二年(1382年)十一月二十四日、上野国邑楽郡古海村に於いて没したと記されている。享年は七十二。この『三宅氏正伝記』は、高徳の研究に於いて重要、且つ貴重な資料とされる家伝書であるが、これらが正確かといえば、資料自体の正当性の点から疑問符が残るため、やはり生没年は不詳とせざるを得ないという。
 新田荘がある群馬県東毛地方では、高徳が晩年に古海太郎広房という武将を頼ってこの地に移り住み、出家して備後三郎入道志純義晴と名乗り、建徳2年(1371年)から弘和2年(1382年)に没するまでを過ごしたと伝えられている。また、群馬県大泉町古海には、高徳のものとされる墓や住んでいたとされる寺(高徳寺)、高徳を祀る神社(児島神社)などがある。
 古海長良神社から100m程南方ににある「児島高徳墳墓」は、昭和541130日に、大泉町指定史跡に指定されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「大泉町HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」
    「高徳寺掲示板」等
  

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