古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今泉氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町今泉254
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 今泉氷川神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で信号のある十字路を左折すると、すぐ正面左側に、遠目からでも今泉氷川神社の鳥居が目視できる。
 
駐車場も完備していて、広く舗装もされている。休憩も兼ねてゆっくりと参拝を行った。
        
                            今泉氷川神社 正面鳥居
 鎮座地の今泉地域は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置する。度重なる荒川の氾濫に悩まされてきた当地の人々が、川を鎮める神として武蔵国一の宮の氷川神社の分霊を永仁5年(1297)勧請したという。明治4年村社に列格、明治45年弁天社を合祀している。
        
                        参道の先には社殿が鎮座する。
 境内は集会所と広場も並列されている。多くはないものの古木もよく残り、日頃から神域として整然としている印象を受ける。奉納品などからも、今泉村の鎮守として崇敬を集めていたことが伺われる。
        
                                  拝 殿
 氷川神社 吉見町今泉一一九九(今泉字竹ノ町)
 口碑によれば、当社は、永仁五年(一二九七)に武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)の分霊を勧請したものであるという。鎮座地の今泉は、荒川右岸の自然堤防及び低地に位置し、度々水害を被ってきたことから川を鎮める神として氷川神社を祀ったものと思われる。
 江戸時代、当社の祭祀に当たったのは、真言宗の遍照寺であった。遍照寺は氷川山と号し、当社の南二〇〇メートルほどの所にあったが、神仏分離の後は廃寺となり、今では墓地と観音堂に名残をとどめるばかりである。『風土記稿』では、当社のほかに村内の神社として、東光寺持ちの弁天社、南学院持ちの稲荷社、長福寺持ちの八王子社の名が見える。東光寺は天台宗、南学院は修験、長福寺は真言宗の寺院で、いずれも村内にあったが、神仏分離によって廃寺になった。また、これらの諸社のうち、弁天社は明治四十五年六月に当社に合祀された。
 当社は、更に、文久二年(一八六二)には本殿、慶応三年(一八六七)には拝殿が造営されたと伝えられ、明治四年に村社となった。境内は、集落の北端近くにあり、樹齢三〇〇年以上といわれる本殿裏の神木の杉に、歴史の古さが感じられる。当社の境内には、本殿と拝殿の造営に伴って奉納されたと思われる手水鉢が一基ずつあるが、そのうち慶応銘のものは手水鉢には珍しく猫足である。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        社殿に掲げている扁額               本 殿
        
                    参道右側には石祠あり 
                        左から大神宮 三峯大権現 (坂?)田大明
         

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一ツ木氷川神社

        
           ・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木165
           
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
           
・社 格 旧村社
           
・例 祭 不明
 一ツ木氷川神社は旧一ツ木村鎮守。地頭方天神社からほぼ東方向500mに鎮座していて、鳥居右側横が砂利道になっていて奥に駐車可能なスペースあり。嘗て一ツ木村は『新選武蔵風土記稿』によれば、足立郡箕田郷に属していたというが、寛永11年(1635)伊奈備前守が荒川を堀替して、堤を築いてから比企郡下吉見領に属していたとの記載がある。
        
               道路沿いにある一ツ木氷川神社の鳥居
 境内の規模は参道も長く、結構大きそうだがやや寂しい雰囲気。当日の雨交じりの天候故か、境内は鬱蒼とした社叢林が広がっていて、昔ながらの雰囲気を残しているように感じる。この社叢林が現代まで留めているのが却って歴史の深さを感じるのは、筆者の勘繰りだろうか。
        
                    境内の様子
            
                             参道左側に九頭竜大神の石碑あり。
 嘗て物資の輸送手段として舟運が盛んであったころ、荒川の流域には沢山の河岸があった。
当社の鎮座する一ツ木もそうした河岸の一つとして栄えた村であり、荒川右岸の地域性は勿論ではあるが、「九頭竜大神」も水を司る神でもあり、「水神」に対しての崇拝が高い地域であったと思われる。
 
         境内社 秋葉神社          社殿手前・左側にある石碑
                     文字が刻まれているが、読み取れなかった。
        
                                         拝 殿
 一ツ木氷川神社について、『埼玉の神社』はこう述べている。
「当社の裏には、近年まで、長さ一三〇センチメートルほどの石棒が立っていた。この石棒は、竜宮に通じると伝え、その先が揺れると境内の北側にある宮川という沼の水面も揺れたという。」
 一ツ木村は南北に長く、「宮川」境にして上下が分かれていて、上の鎮守が荒神社、下の鎮守が氷川神社となったのではないか。因みにここに記した荒神社は氷川神社の北方200m程の荒川西岸・土手面に鎮座している社である。
       
    社殿前にある対にある巨木以外にも、存在感のある老木も存在する。(写真左・右)

 一ツ木氷川神社の北側には「碗箱淵」と言われる南北に細長い沼が存在し、一説によれば、荒川の「切れ所跡の沼」ではないかとも。江戸時代に編纂された『新選武蔵風土記稿』にはこの沼を「宮川」と記載されている。
*碗箱淵
「村の中程にあり、或は宮川とも云、昔此沼に怪異あり、農家に来客多き時、沼中へ書を投て請求れば、椀具用に随て辨ずと云、故に沼に名くとぞ、長三百三十間幅四十間」
                                  新編武蔵風土記稿より引用
 もしかしたらこの付近に宮川という河川が流れていて、荒川瀬替えによる河川の後退で、その淵部位(水深が深い箇所)が現在の沼として残っているのかもしれない。
        

 また沼にまつわる伝説も多いようで、上記「碗箱淵」には道路沿いに案内板がある。

「この池の伝説によると、武田信玄の家臣の原美濃守虎胤の妻は、諏訪湖にいた竜神の化身で、子供が出来てから宝珠を残して湖に帰ったが、その後、虎胤は吉見領に移り諏訪湖から遠く離れてしまった。その子孫の良方、良清の代には、そばの大沼に向って祈ると膳や椀など不足なく出たという。そのため、この淵を椀箱淵といい、諏訪湖と通じているといわれていた。
 このため、淵のほとりには龍神を祀った塚があり、かつては耳を患う人の信仰が厚かった。
時を経るに従い、淵も逐次埋め立てられ、面積も縮小されて昔日の原形はとどめないが、今は貯水池として農業用に、また、防災用に地域のため大きな役割を担っている。」
                                吉見町・埼玉県案内板より引用
        

 碗箱淵の案内板に出てきている「原美濃守虎胤」は戦国時代、「甲斐の虎」として名高い武田信玄の家臣であった武将で、信玄亡き後、勝頼の代に武田氏直系は滅亡する。その滅亡後原一族はこの地に土着して子孫を残したという。
 原氏に関して『新編武蔵風土記稿』は以下の事を記している。
*家者徳太郎
「當村草創の民なり。先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり。甲州没落の後、久しく當郡松山に住す。文禄年中當所に土着して民家に下る。其の後良房慶長六年七十一歳にして卒す。其子右馬祐良清は寛永十六年六十五歳にして卒す。墳墓龍ヶ谷にあり、此の正統は則徳太郎なり。良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は今名主作兵衛是なり」

上記に記されている「原隼人正」とは原昌胤のことで、碗箱淵の案内板に登場する「原美濃守虎胤」とは苗字は同じでも虎胤は千葉氏一族であり、原昌胤は土岐源氏の庶流であるため、別系統と言われている。原昌胤は信玄の信用も高く、武田二十四将の一人にも挙げられるが、1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死する。

「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろうと言われている。
 また余談ながら一ツ木氷川神社の北側200m程に鎮座する「荒神社」
の創建に関しても、「原氏」と関係していて、文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。

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中新井神明神社

       
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中新井892
              ・ご祭神 天照皇大神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 中新井神明神社は吉見町中新井地区北東部に鎮座し、旧中新井村鎮守。荒川右舷に位置する。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」交差点の次の十字路を左折し、300m程進むと右側の道路の角地に鎮座する。「中新井農業集落センター」が隣接しており、玉砂利が敷かれた駐車スペースにより、数台分駐車可能。
             
      社の規模は決して広大ではないが、こじんまりとして纏まっている印象。

中新井神明神社の創建年代等は不詳ながら、貞元年中(976-978)或は貞和元年(1345)の大地震によって石剣が出土、祠を建立し石剣を祀り、中新井村の鎮守としたと伝えられる。その後、大洪水により大洪水により土中に埋没してしまったものの、応永8年(1401)に再興したという。
            
                 皇上即位記念修廟之碑
 
社殿手前、左側に鎮座する境内社・頭殿大権現社  頭殿大権現社の奥に境内社・熊野社が鎮座  
   頭殿大権現社石碑の左側は三峰社か           手前の石祠は不明。
         
                                          拝 殿
 神明神社 吉見町中新井八五四(中新井字御造作)
『明細帳』並びに境内に建つ大正四年の「皇上即位記念修廟之碑」によれば、当社の由来を次のように記す。貞元年中(九七六-七八)の大地震の際、村の東南端にある林中の塚から石剣が出土したため、これを奉じて祠を建立し中新井村の鎮守とした。その後、大洪水によって土中に埋没したが、応永八年(一四〇一)に至り、この旧跡に天照皇大神と素盞嗚命を奉斎して再興を果たした。
 一方、氏子の間に伝わる口碑には次のようにある。貞和元年(一三四五)の大地震によって石剣が出土したことから、これを祠に祀り、中新井村の鎮守としたが、その後の大洪水により土中に埋没した。応永八年にこの地に天照大御神・吾我津比賣神・伊弉册尊の三柱を奉斎し、以来中新井村・御所村・今泉村の人々から崇敬されるようになり、江戸中期においては社殿の造営や祭事の再興が相次ぎ、天保二年(一八三一)には京都の八坂神社から八坂大神を勧請して配祀した。
 この二つの由来には、創祀年代と応永八年再興に奉斎した祭神について相違が見られるが、いずれが正史であるのかは明らかでない。
 明治四年に村社となり、同四十一年に字陣馬木の東天神社・熊野社・弁天社、字天神通の西天神社・頭殿社の五社の無格社を合祀した。
                                   
「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿             社殿右側に鎮座する境内社・天神社
   

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地頭方天神社

 嘗て日本の古代国家は、全国の土地と人民は天皇のものという「公地公民制」の原理で成り立っていた。この「公地公民」は、奈良時代の墾田永年私財法(743)・平安時代の荘園制度を通じて次第に骨抜きにされ、平安後期の武士の台頭により有名無実化する。
  1185年(文治元)鎌倉の頼朝は、逃亡した義経を探索するため、後白河法皇に迫って各国に「惣追捕使(そうついぶし)・地頭」を設置することを認可することに成功する。この制度が後の「守護・地頭」制度のベースとなっている。
 一般に地頭は、鎌倉幕府が平家方から没収した荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職として、武力に基づき軍事・警察・徴税権を担保しながら支配にあたるものとされている。そして、これらの地頭を国ごとに指揮する役職が、守護とされる軍事指揮官・行政官である。
 鎌倉幕府発足時の地頭の公認については当然ながら在地の荘園領主・国司からの反発があり、その設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定されたが、その後承久の乱を経て、朝廷側の所領約3000箇所を没収し、その土地は西日本一帯であったため、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住する。
                                  「Wikipedia」より引用 

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町地頭方526
              ・ご祭神 天照皇大神(推定)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭 724
 地頭方天神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進むのは、これまでアップした吉見町内の各社と同じであり、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到着する。周囲もほぼ田園地帯が広がり、時々住宅地が点在する長閑な農道を道なりに進むと道路は大きく右回りにカーブし、その回り終わった直後の最初の手押しボタンの交差点を左折すると右側に吉見町立北小学校が見える。その小学校を過ぎた最初の十字路を右折し、暫く進むと左側に地頭方天神社が鎮座する場所に到着する。
 
社務所等適当な駐車スペースはないため、北小学校の北側にある吉見町・北公民館に駐車してから参拝を行った。
        
                                     境内周辺の様子
 天神社の社殿は平成30年建立だそうで大変新しい。天神社が鎮座する「地頭方」。また一風変わった地域名だが、この地名由来としては、日本の中世における地頭側が支配した地が、現在にまでその名残として残されている。          
        
                                        鳥居正面
 鳥居の扁額は「天満宮」となっていて、ヤフーマップもグーグルマップでも「天満宮」と表示されている。
 
 地頭方天神社には鳥居が2基並列されていて、正面の鳥居が天神社、左側にあり、正面鳥居よりやや小ぶりの鳥居(写真左)は境内社頭殿神社(同右)のものと思われる。
 現在は地頭方天神社の中に遷座されているが、元々は五反田地区から移したのだという。
        
                                       拝 殿
 天神社 吉見町地頭方九九九(地頭方字矢島)
 地頭方は荒川右岸の低地に位置する。地名の由来は荘園の管理のために補任された地頭の存在に由来するという。
 『明細帳』によると、当社の創建は天明二年(一七八三)三月のことである。その後の事歴を境内の石造物から拾うと、まず寛文八年(一七九六)の「願主当村総氏子中・斎藤林右衛」による石灯籠の奉納、次いで翌九年の「当村惣氏子中」による石鳥居の建立、更に天保三年(一八三二)に再び「当村氏子中」による石灯籠の奉納があった。また嘉永七年(一八五四)には「地頭方邑氏子中・世話人脇屋平次郎(外三名)連経中」が手水鉢を寄進した。下って昭和九年の伊勢参宮記念碑には「吾々一同伊勢参宮記念トシテ土地ヲ買収シ表参道ヲ改築シ之ヲ奉献ス」と刻まれている。これらの奉納物は、当社が創建当初から村の鎮守として崇敬を集めてきたことを如実に物語る。
 『風土記稿』には「天神社 村の鎮守、法水寺の司る所なり」とある。これに見える法水寺は今泉村金剛院末の真言宗の寺院であるが、すでに廃寺となっている。
 明治四年六月に村社となった。その後、同二十六年十月に社殿が焼失したが、翌二十七年三月には再建を行った。
 なお、『明細帳』に大正元年に字西通の弁天社と字東通の稲荷社を当社に合祀した記事が載るが、二社共に今も旧地に鎮座している。
                                  「埼玉の神社」より引用
                       
                               境内社御嶽・八海・三笠山等

 鎌倉幕府の成立段階では、荘園領主・国司の権力は依然として強く、一方地頭に任命された武士は現地の事情と識字と行政に疎い東国出身者が多かった。このため、独力で遠隔地の荘園の経営に当たれる現地沙汰人を準備し、年貢運搬の準備、荘園領主側との交渉、年貢の決解・算用などの事務的能力を必要とした。また幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあり、地頭の力は単純に大きいものではなかったようだ。
 但し地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなく、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などを通じて荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭は無法な重税に因り多大な利益を搾取するケースが多かった。そして、この制度により地頭は荘園・公領を徐々に横領していった。

 それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)が行われることもあった。中分には、両者の談合(和与)で決着する和与中分(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分(したじちゅうぶん)があったという。
 下地中分は鎌倉幕府が仲介した日本人らしい方策の一つであり、荘園領主(領家)の土地の取り分に対する地頭の取り分が地頭方であるという。天神社が鎮座するこの「地頭方」という地名は嘗ての歴史的事実の名残りを示す貴重な歴史の証人ではなかろうか。
                                  

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北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社

北下砂氷川神社】
        
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北下砂11
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。この交差点周辺は「吉見町 ふれあい広場」という広い競技場やイベントホールである「フレサ吉見」、道路の向かい側にはコンビニエンスもあり、分かりやすい。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で道路が上り坂になる手前の十字路を右折し、150m程進むと右側にこんもりとした社叢が見え、手前にある鳥居も目視できる。
 駐車スペースはない。周囲はほとんどが畑なので、進行車両等の邪魔にならないような場所に停めて急ぎ参拝を行った。
 
    参道正面(写真左)鳥居までの参道は、未舗装で、その先に鳥居がある(同右)
 北下砂氷川神社が鎮座する場所は竜渕寺という寺院の北側で、「新編武蔵風土記稿」ではこの社は竜渕寺持ちと記載されている。また地図で確認すると、鎮座地は、北下砂地区の最北部で、北側に位置する今泉地区とは社に接する東西に伸びた田畑の畔にて区切られているようだ。
        
                           鳥居の先の参道を撮影
 当社は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長21597年没)が慶長2年(1597)に勧請、下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫)の鎮守として崇敬されていたというが、見た目社も小規模で、境内周辺もこの時期でかなり草が生い茂げっていた為、やや寂れた印象はぬぐえない。
        
                                     拝 殿
 氷川神社 吉見町北下砂一一(北下砂字宮ノ町)
 北下砂の地は荒川と市野川の間の低地にある。もと下砂村の内であったが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)に分村した。地名は北部にあることによって北の字を冠した。
 氏子の関根彰一郎家は、名主を務めた旧家で、松山城落城後に当地に土着したと伝えている。「天正庚寅松山合戦図」には、北曲輪の守備に関根将監・関根伝衛門の二人の名が見え、関根家とのかかわりをうかがわせる。
 また、関根家所蔵の「関根系記」によると、関根根元屋敷開祖兵部左衛門は慶長八年(一六〇三)に没し、金剛院に葬られた。
 一方、社伝によれば、当社は慶長二年(一五九七)に創建し、初めは下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫の範囲)の鎮守として崇敬されていたが、分村後は北下砂村の鎮守になったという。当社の創建に関根兵部左衛門がかかわっていたことは想像するに難くない。
『風土記稿』北下砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、竜淵寺持」とある。これに見える竜淵寺は氷川山と号する真言宗の寺院で、開基はこちらも関根兵部左衛門であると伝えている。
 明治四年に村社となり、同四十五年には字大根町の無格社弁天社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

 社殿は東向き。高台の上に鎮座している。盛り土か、古墳かは資料不足で不明。
 東側には標高22m程の微高地から下る位置に鎮座しており、鎮座地の標高は15mとやや低めだが、東側以外の周囲の田圃地域よりはいくらか高い場所にあると思われる。
        
                                北下砂氷川神社 遠景

北下砂氷川神社の創建に関わった「関根氏」に関しての資料を記載する。
・風土記稿北下砂村条
「龍淵寺の開基関根兵部左衛門は村民なり、慶長二年死す。村内に一族八人あり、祖先は松山の士なりと云ふ」との記載がある。
・龍淵寺
 暦応二年銘の板碑があり、
暦応年間(1338年~1342年)以前の関根氏開基であろうか。
関根氏系記
「関根根元屋敷開祖兵部左衛門・法名流光長秀信士・慶長八年七月十一日入墓所金剛院。二代目関根理右衛門」


丸貫熊野神社】
               
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町丸貫339
              ・ご祭神 熊野権現(推定)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 丸貫熊野神社は北下砂氷川神社からの道路を南下して700m程進むと、右側に地域の火の見櫓や丸貫集会所と共に社の鳥居や広い境内が見える。旧丸貫村(吉見町丸貫)鎮守。社殿は北下砂氷川神社同様に東側の荒川土手を向いていて、荒川を祈りの対象としているような位置関係となっているようにも見える。
広大な境内で、駐車スペースは十分に確保されていて、集会所近郊に車を停めてから参拝を行う。

            
                丸貫熊野神社 社号標柱
 
         一の鳥居                二の鳥居
        
                                  参道先の境内を望む。
 鎮座地は盛り土によってか、自然堤防的なものによるものか、正面社殿及び右側の境内社・荒神社が鎮座するL字状の場所のみ高台となっている。
 丸貫熊野神社は広い境内であるのも関わらず、手入れが行き届いている。境内にはゲートボール場のような広場もあり、地域住民の方々がこの社をずっと大切に守ってきたことが分かる。
 
  社殿手前で右側に鎮座する境内社・荒神社(写真左)と、その左側にある石祠(同右)
        
                     拝 殿
熊野神社 吉見町丸貫三三九(丸貫字十二所)
 当社は、紀伊国に鎮座する熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したことに始まると伝えられる。このため、鎮座地もこれにちなみ十二所という小名で呼ばれている。当地一帯は、「秋葉家文書」によると、元亀年間(一五七〇-七三)に秋葉新左衛門元矩により開発された。秋葉新左衛門元矩は、初め古河公方足利晴氏に仕えたが、弘治二年(一五五六)に晴氏が北条氏政に敗れたのを機に、北条氏の幕について当地を領した。当社は、戦国末期から江戸初期にかけて村の開発が秋葉家を中心に進められる中で、勧請された。
 別当は当社の南側にあった真言宗の雨竜山西蓮寺である。現在、寛永年間(一六二四-四四)をはじめとする同寺法印墓石が残る。西蓮寺は、当社勧請まもなく建立され、今泉村の金剛寺の末寺に加わった。
 江戸期の神社運営は、秋葉新左衛門元矩の裔が代々丸貫村の名主を務めたことから、この家を筆頭に村の重立の手により行われた。祭祀法楽は、西蓮寺住僧が行った。
 享和二年(一八〇二)の「熊埜三社大権現」社号額がある。揮毫は当地で生まれ、比企郡滑川村興長寺で得度し、加賀国大乗寺二十九世となり、名僧といわれた愚禅和尚である。
 明治期に入ると、別当西蓮寺は廃され、現在、往時の名残として辰堂と呼ばれる観音堂だけが残る。
                                  
「埼玉の神社」より引用

○愚禅和尚
比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。また、雨や水にかかわる数々の逸話が残されている。日照りが続き「雨乞い」の祈祷を頼みに来る者が多く、和尚が祈祷をするとたちまちに豪雨が降ってくるといわれる程霊験あらたかで、頼みに行く者は帰りに降られてもよいように雨具を用意するようになったといわれていた。また、「龍」の字を得意とし、この軸を掛けるとたちまち雨を呼ぶということから「雨乞いの龍」といわれ「火伏せのお守り」として掲げていた家もあり、現在も大切に残されている。文政123197歳で没す。
                  「熊谷デジタルミュージアム・熊谷の偉人の部屋」より引用 


 
 丸貫熊野神社境内にある観音堂(写真左)で、別名辰堂とも呼ばれている。元は熊野神社別当の真言宗雨竜山西連寺の堂であったが、明治維新の廃仏毀釈により廃寺になり堂のみが残ったと言う。観音堂の隣には立派な法印墓石群(同右)が並ぶ。

 丸貫熊野神社は、古河公方足利晴氏に仕えていた秋葉新左衛門元矩が、当地を元亀年間(1570-73)に開発、熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したという。調べてみると「秋葉氏」は同じ「あきば」でも「秋庭」であったようだ。風土記稿丸貫村条には稲荷社に関する記述があり、そこには以下の事が記されている。
風土記稿丸貫村条
 「稲荷社、名主広助が持。広助・秋庭氏なり、故に秋庭稲荷と唱ふ」
他にも
秋庭文書
 「この村は往古ただ下砂村とのみ号せり。三ヶ村の郷長秋庭新左衛門元矩の草創なり、元矩は古河晴氏に仕へ則ち弘治二年古河破るゞに及び、北条氏政の幕下につき、田中左京亮縁者なるにより武州横見郷を領地し引退く]
秋庭家墓地
 「秋庭仲祖・慧勝院遠行善久居士・藤姓備中守元重嫡・俗名秋庭新左衛門尉元矩・寛永九年四月十八日、覚性院元寿妙政大姉・田中左京亮女・元和七年八月十七日」
        
                   
丸貫熊野神社境内南側にあるお地蔵様等も仲良く並ぶ。
       

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