古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江波・上根神社

【江波神社】
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市江波315
               ・ご祭神 菅原道真公
               ・社 格 旧村社、旧江波村鎮守
               ・例 祭 春季祭 旧2月25日 秋季祭 旧9月25日
               *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。(旧)は旧暦。
 江波神社は八ッ口日枝神社から南北に走る道路を南方向に道なり700m程に進むと、一面の田畑のなかに浮かぶようにポツンと静かに鎮座している。駐車スペースは専用の場所は見当たらないが、東側に面している空間は広くあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                                      江波神社正面
 話は神社とは少しかけ離れるが、熊谷市江波地区には「かめの伝説」がある。

「江波に富翁と呼ばれていた長者(大金持ち)がいました。ある日、長者は馬に乗って近くの川を渡っていたとき、馬の様子がおかしいので振り返ると馬の尻っぽに何かぶら下がっているようです。よく見ると亀でした。その亀をはずそうとしたのですが、なかなか離れず、腹を立てた長者は、亀をつかまえて家へ持ち帰り、鎖をつけて柱につないでおきました。長者の家には気のやさしい女中がいました。その女中は亀をかわいそうに思い、餌(えさ)を与え、川に放してやりました
 それから少しして、女中が川へ洗濯に行ったとき、川底にキラキラ光る物を見つけました。手に取って見るとびっくり仰天。彼女が今まで手にしたこともない黄金の小判でした。女中は誰かが落としたのではないかと思い、あたりを見回しましたが誰もいません
 その時でした。川の中を亀がスーと泳ぎ去っていくのが見えました。女中は「あの時の亀かな?」と思いながら家へ帰りました。それからというもの川へ行くたびに小判が川底に落ちていて、そのたびに亀の姿も見かけました。そんなことが続いて女中は大金持ちになりました
 やがて、そのことは村人の知るところとなり、誰となく女中を「お福」、川を「福川」と呼ぶようになったのです。

 伝承・伝説は信憑性に欠けるものと謂われていて、他愛もない、とても信じられないといったものかもしれないが、心豊かであった遠く祖父母の時代から伝わってきた大事な文化的な遺産ともいえよう。この「かめの伝説」は荒川支流である「福川」の名前由来も含まれるが、わざわざ江波地区にその由来の起源を設定したという箏は、何か特別な意味があるのだろうか。
 
       参道正面の鳥居            参道も短く、社殿がすぐ見える。
        
         ご神木と判別はできないが、社殿の左手前に聳え立つ巨木
        
                                        拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』の江波村の項に天神社があり「村ノ鎮守トス 寶蔵院持」とある。『埼玉の神社』には「明治四十一年の改正まで天神社であったことから、氏子にはいまだに天神様と呼ばれている。(中略)明治四十一年、字西嬉愛の宇知多神社(妙見社)と字道上の稲荷神社の無格社二社を合祀した」とあり、「お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようだ。
        
                                    江波神社 扁額

 熊谷市江波地域最北端は、河川により形成された自然堤防上に所在する「上北浦(かみきたうら)遺跡」と言われる、今から約
3,000年前から始まる縄文時代後・晩期の集落遺跡が存在する。縄文時代後・晩期では、竪穴建物跡8軒、土坑6基を検出していて、多量の縄文土器のほか、岩版、石棒・石剣、耳飾り、土偶、骨角器など呪術(まじない、占い)や儀礼に使用した道具が多数出土している。
 

          神輿殿               社殿右横に並ぶ石祠群

『岩版』とは、材質が泥岩ないしは粘土からなる版状の遺物である。破壊した状態で出土することが多く、また赤色塗彩を施したものがあることから、宗教的な遺物の一種と考えられている。縄文時代の晩期に発達し、その分布は大きくみて東北地方と関東地方の二地域を中心とする。…岩版・土版を護符とする説は、これまでにそういった用途を示すような出土例はないものの、今日最も一般的な見解となっている。
        
                               江波地域に広がる田園風景

 縄文時代の後・晩期の遺跡は、水害を受けにくい台地の縁辺部やその直下にある例が多い中、利根川の氾濫の影響を大きく受ける低地帯に存在し、また利根川に近い妻沼低地での縄文時代の遺跡の調査例は少なく、貴重な資料といえる。
 熊谷市江波地区には、想像を豊かにしてくれる、縄文文化が確かに存在していた。



【上根(かみね)神社】
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市上根588-1
             ・ご祭神 菅原道真公 素盞嗚命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 上根神社は江波神社から一旦南下して埼玉県道303号に交わるT字路を右折する。県道303号線はそのまま進むと右カーブで北上するルートとなるので、カーブする地点で左折し、福川に沿って道なりに1㎞程東進すると道路沿いで左側に上根神社が見えてくる。
 道路を隔てて社の向かい側には薬師堂があり、適当な駐車スペースもあるので、そこを利用して参拝を行う。
        
                                   上根神社正面
 
          正面鳥居             鳥居を過ぎた先には神牛がお出迎え
 上根神社は上根の中央部に当たる字本郷に鎮座していて、その創建については明らかでないが、「新編武蔵風土記稿」に「天神社 大性寺持」と記されるように、元来は天神社と称していた。このことは、本殿に安置されている菅原道真公座像や、明和五年(1768)の本殿棟札に見える「天満大自在天神宮」の墨書などからも伺う事ができるとの事だ。
        
                             高台の上に鎮座する拝殿
「明細帳」によれば、明治八年(1875)八月に村社となった。明治四十一年(1908)十月大字上根字出口の稲荷社、字宮前の神明社、字本郷の八坂社を合祀し、更に大正二年(1913)四月には大字田島字奈花郷の稲荷社を合祀して社名を上根神社と改めた。
              
                    
神域整備碑
 神域整備碑
 天神に八坂を合祀する当社は、霊験あらたかなるも、北を走る町道は県道太田熊谷線から長井中央部に通ずる幹道で、沿線の開発が進み、平成元年五月東武鉄道妻沼線跡地が緑道に再生するに及び、交通量が急増したしたため、区民から歩道の設置が強く望まれた。
 特に当社の西北は湾曲して危険なため、宮司氏子総代が区民と謀り、町の道路改良に協力して、二百二十㎡余の境内地を提供し、鳥居伏牛像碑御影石柵等の施設を移転した。
 更に社殿の一部を改修して、西南に擁壁を造成し、併わせて平成二年十一月、今上陛下御大典記念植樹と年番長金井薫氏の厚意により、児童遊具を更新する等、神域を整備し神威の高揚に大きく寄与された。茲に其の大要を碑に刻し氏子の篤き信心を称え、地区の安寧を祈念して永く後に伝える。
                              碑文より引用 句読点は筆者加筆



*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷市web博物館」等

       

拍手[1回]