古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

腰越氷川神社


槻川は埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発し、外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東北東方向から東方向に向きを変える。
 
東秩父村安戸地域から小川町腰越地域に下る際に、一旦南に流路を変えそれから北東側へ曲流しながら小川盆地へ向かう。山の多い日本では河川は山の間を屈曲して流れ、支流、またその支流が複雑に入り組んでいる場合が多いが、この槻川も例外でなく、外秩父山地から東松山台地、比企丘陵方向に流れこみ、山の麓をすり抜けるように流れるように頻繁に屈曲を繰り返して流れている。
 この外秩父山地に囲まれた小川盆地の西端に位置する腰越地区の槻川西側内陸部に、腰越氷川神社はひっそりと鎮座している。
所在地   埼玉県比企郡小川町腰越1382
御祭神   建速素戔嗚命、奇稲田比売命、大那牟遅命
社  格   旧指定村社
例  祭   10月18日
       
 腰越氷川神社は埼玉県同11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、東秩父村安戸宿交差点を小川町方向に進むこと約500m程で左手にコンビニがあり、そのすぐ先の交差点を左折する。丁度この位置は東方向に流れていた槻川が南方向に、そしてしばらくするとまた北東方向に急激に流路を変える場所にあり、また槻川支流の館川の合流地点でもある。この支流館川に沿って300mほど進むと右側に「指定村社 氷川神社」の社号標が見え、そこのT字路を右折し道なりに車を走らせると程なく正面に氷川神社の鳥居が見えてくる。
          
 
                   槻川支流の館川沿いの道路上にある社号標
          
                                                    一の鳥居

            
                              拝     殿
 社殿の左手には「天王山」と言われる嶮岨な岩山の切り立った崖が聳えている。現在の社殿は、昭和五十一年に岩山を削って再建されたもので、それまでは鳥居の正面に社殿があったらしいが、この社の立地条件やこの地域の歴史を考えると、はるか昔はこの岩山や山自体をを祀っていた社ではなかったろうか。近くには「腰越の立岩」と言われる岩山もあり、「日本の100岩場」とも言われていて、石灰岩で出来ているという。
 東秩父村白石地区を外秩父山系の峰々が取り囲んでいるが、その中の「笠山」、「堂平山」、「大霧山」は昔から「比企三山」と呼ばれていて、古くから信仰の対象の山だという。槻川支流の館川の上流部奥にある笠山(標高837m)は別名乳首山とも呼ばれ、東峰には笠山神社が鎮座している。その社の伝承では、111年に日本武尊が東夷征討の際、笠山に登り地形を賞嘆して、三大神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇太神)を奉祀したと伝える。その後、680年に大和国葛城の行者・役小角が三国伝来の白衣観音像を安置して国家安泰を祈念したといい、神道や仏教の信仰にも繋がる信仰の対象となる山であったと思われる。
 「新編武蔵風土記稿」には笠山について以下の記述がある。

新編武蔵風土記稿
比企郡巻之八   腰越村
笠山 村ノ西ニアリ。高サ五十町許ナル嶮岨ノ山ナリ。嶺ニ樹木生茂リテ笠ノ形ニ似タレハ名トセリ又乳ノ状ニ類スレハ乳首山トモ云、此絶頂ヲ當郡ト秩父郡白石村ノ界トシテ笠山權現ヲ鎮ス コハ白石村ノ鎮守ナレハ其村ニテ進退セリ。祠邊ヨリノ眺望最打開ケ東ノ方ハ筑波山ヲ望ミ、南ハ江戸ヲ越テ遠ク房總ノ山々ヲ見渡シ西ハ秩父カ嶺及ヒ浅間山連リ、北ハ日光山ヲ始トシテ上下野州山々見ユ(中略)


         拝殿に掲げてある社号額            社殿の右手、社務所の手前にある案内板

氷川神社         所在地 比企郡小川町大字腰越
 氷川神社の創立については不詳であるが、祭神には素盞鳴尊、奇稲田比賣命、大那牟遅命がまつられており、腰越の鎮守として「氷川様」と呼ばれている。
 古くは、神事として火渡りの行事や例祭十月十八日には、甘酒の振舞いも行われていたが今では途絶している。
 境内には、子授けや安産祈願にご利益があるといわれている産泰神社があり地元の信仰が厚い。
 昭和五十九年三月
                                                         案内板より引用

 比企郡神社誌によれば、腰越氷川神社の創建年代は詳かでないが、嘗て境内には、樹齢五百年を超える二股の大杉や、樹齢一千年を超える大欅があったらしく、創建は相当古いと思われる。大欅は周囲が9mもある立派なもので、現在の社務所当たりにあったが大正年間に立ち枯れてしまい、また二股の大杉も昭和24年のキティ台風で倒れてしまったという。この腰越氷川神社及びその周辺には中々侮れない歴史の古さを感じさせてくれる地域であることは間違いなさそうだ。
        
                      切り立った岩山の崖下にある本殿

社殿の左手にある鳥居 岩山を祀っていた場所か。    中には石祠が数基ある。



           
       垂直に切り立った岩山。 辺り一帯異様な雰囲気を醸し出している。

 笠山神社の由来に登場している役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した呪術者である。姓は君、又は公とも。修験道の開祖とも言われていて、日本各地に多くの伝説を今も残す謎の人物である。
 役小角の出自である役君氏は、出雲大社で有名な御祭神である大国主の別名とされている大物主神の後裔(一説では子とも言われている)大田田根子を祖とする三輪氏族に属する地祇系氏族で、賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれていた。賀茂氏は分類すると二系統あるようで、一つは前出の大和葛城(奈良県御所氏)を本拠地とする賀茂君。もう一つは山城国葛野を本拠とした代々賀茂神社の奉齋した賀茂県主からの一派で、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とするものたちにあたり、葛城氏と同類で神武天皇を大和に導いたという。
 山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある(『山城国風土記』逸文より)。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もあり、役小角のみならず、賀茂氏にも多くの謎が存在する。日本古代史の謎を解く鍵を握る氏族ということは、古来から多くの方が指摘し解明を試みているが、未だもって定説に至っていないのが実状である。

         境内社  八坂神社             日枝、稲荷、稲荷、疱瘡四社
           
                  社殿の左側にある境内社 産泰神社

 笠山から南東方向数キロには古刹で有名な都機山慈光寺がある。院号は一乗院法華院。開山1,300年と歴史あるお寺で、「都幾山慈光寺実録」によると、白鳳2年(673)に僧・慈訓が千手観音堂を建て、観音霊場とし、役小角も西蔵坊を設けて修験の道場を開いたという。さらにその後、奈良の唐招提寺などで有名な鑑真和上の弟子の道忠(どうちゅう)という人物が来て、釈迦如来を安置して堂宇を整えたという。慈光寺はる関東天台を代表する古刹であり、鎌倉時代には源頼朝が奥州の藤原泰衡追討の際に戦勝祈願を行い、征圧成就を記念して当寺一山75坊の営膳料と田畑1200町を寄進したり、畠山重忠の名が刻まれた板碑の存在したように、当代随一の政治家や武将の信仰が篤く、東国仏教の中心地として最盛期には都幾山一帯に75堂塔伽藍を数える大寺院にまで発展した。慈光寺は山岳信仰の霊場でありつつ東国に仏教を広める拠点でもあったといえる。

           
                         拝殿の手前にある鐘楼

 慈光寺には有名な「火渡りの神事」が毎年盛大に行われているが、案内板によると腰越氷川神社にも同じ神事が存在していたといい、決して偶然ではあるまい。比企三山の一つである笠山の近郊に位置する社であり、嘗ての山岳信仰の名残りがこの地域にはどことなく感じる、そんな感慨にふける参拝だった。

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安戸身形神社


「秩父七妙見社」。筆者もこの秩父郡の神社の参拝後の編集中に初めて知った聞きなれない言葉だが、「秩父志」に江戸末期に武蔵国秩父郡の総鎮守である秩父妙見(秩父神社)の分社を郡境の交通の要所七ヶ所に攘災の守り神として配置したのが秩父七妙見社であるとのことだ。
 俗にいう妙見信仰とは、一般的には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいうが、その本来の姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰とも言われている。ゆえに秩父神社を北極星として、七妙見を北斗七星に見立て、江戸時代末期から明治時代前半に考えられたものであろう。
 その秩父七妙見社の一社に安戸身形神社であり、地元の方々から「妙見様」と尊称されている社である。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村安戸872
御祭神   宗像三女神(市杵嶋姫命・多記理毘売命 ・湍津姫命)
社  格   旧村社
例  祭   2月3日

        
 安戸身形神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を東秩父村役場から約3㎞ほど小川町方向に進む。進行方向左側は県道整備のため山の稜線を削り、その斜面上に大霊神社の鳥居がそそり立つように見えるが、そのすぐ先のT字路を右折する。槻川を超えるとすぐ右側に身形神社の石製の鳥居と社号標が見えてくる。駐車スペースは鳥居のすぐ先の道を右に曲がると帯澤集落センターがあり、そこには十分な駐車スペースが確保されているので、そこに停め参拝を行った。
           
                        安戸身形神社一の鳥居と社号標
 「新編武蔵風土記稿」によると、当社は現在帯沢の地に鎮座しているが、古くは御堂村小名宮地に鎮座していた。移転した原因は、槻川の流れが変わったためで、かって槻川は帯沢と宮地の間を流れ、村を二分していたという。
           
 一の鳥居を過ぎ、静かな山村の風景が参道の周りに見られ、気持ちも落ち着き、心地よい時間が流れる。 参道を歩いていくと、山の斜面上に社の社叢が見えてくる。
                      
                    石段の先にある両部鳥居である二の鳥居
              
                             拝     殿
 安戸身形神社の現在の御祭神は宗像三女神と言われる市杵嶋姫命・多記理毘売命 ・湍津姫命の3柱だが、口碑や氏子の話では、妙見様は三姉妹いて、長女が小川町木部の三光神社、次女がここ安戸身形神社、そして三女が秩父神社であるという。また社名「身形」もこの三女神を意味する「三形」ではないかと言われている。
           
                 拝殿上部に掲げてある「妙見宮」と表記された扁額。
          
                              社殿左側にある大杉の御神木
           
                             本     殿
    
                  本殿のすぐ左側にもやはり大杉の御神木がある。 

 前出にて紹介した秩父七妙見社の由来は、実はそんなに古くはない。天保八年(1837年)から明治20年(1887年)、約50年の歳月をかけて大野玄鶴が撰述した「秩父誌」に具体的な所在地が記述されている。それによると7か所の所在地は以下の通りとなるようだ。
 ・小鹿野町藤倉
 ・皆野町金沢
 ・長瀞町矢那瀬末野神社
 ・東秩父村安戸身形神社
 ・都幾川村(現ときがわ町)大野神社(武蔵国郡村誌では身形社)
 ・飯能市上名栗星神社
 ・飯能市北川喜多川神社

 
現在小鹿野町藤倉の地にあったといわれる妙見社は所在不明であり、皆野町金沢妙見社も現在なく、長瀞町末野神社には合祀されていると言われているので、何度も参拝しているが、それらしい妙見社はない。但し大里郡神社誌によると、それに若干関連あるのか合祀社として「天御中主神社」の記述がひっそりとある。飯能市の神社についても文献の解釈によって比定地が混同しているところもあり、七妙見社としてはっきりしている社は安戸身形神社とときがわ町大野神社2社のみである。


 
       
                         拝殿前の石段より撮影


 


 

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安戸能気神社


安戸能気神社の鎮座する東秩父郡安戸地区は東秩父村東部に位置し、北辺で比企郡小川町勝呂・木部・笠原・飯田・増尾各地区と、東部で比企郡小川町腰越地区と、南西で御堂突くと、西で奥沢地区と隣接する。小字は宿・小滝・町北・大都・帯沢・在家が挙げられる。槻川沿いに東西を貫く埼玉県道11号熊谷小川秩父線が東側で安戸橋を渡り小川町へ通じている。県道沿いと帯沢川・入山沢の谷あいに集落が散在する山村である。
 安戸地区は東秩父村では槻川沿いに決して広大ではないが、谷底平野がみられ、田畑と同時に水田が作られている。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村安戸382
御祭神   誉田別命
社  格   旧指定村社
例  祭   9月18日

        
 安戸能気神社は大内沢神社から小川町方向に進み、東秩父村役場を過ぎて約2㎞程行くと、Y字路になるので、そこを左折する。この通りには民家も多く、地形を見ると、北西方向から南東方向に流れる槻川が山に遮られ一旦北側に流路を変え、暫くするとまた南方向へと曲流し小川町腰越地区に移動するように、山間独特の地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れているようだ。
 県道11号から左折し、暫く進むと左側に「指定村社 能気神社」と彫られた社号標石が見える。そこをまた左折し、上り坂の道を真っ直ぐ約400m程進むと、丁度終着地の如くこの社に行き着く。駐車スペースはこの社のすぐ手前に多目的運動場である安戸グランドがあり、専用駐車場があるので、そこに停めて参拝を行った。
        
          「指定村社 能気神社」と表記されている社号標石
 安戸能気神社は槻川の支流である入山沢に対して上流に遡って行く途中にあり、緩く長い稜線上に鎮座するため、社殿から南に目を転ずると、田畑や集落を一望することが出来る。当社は、創建当時は個人の氏神として祀られていたが、やがて、根岸・高野・大久根・鷹野などの旧家が氏子となり、ついには村(安戸)を挙げて祀る社になるに至ったと伝える。社殿の造営は、覆屋・拝殿は「明神宮建立帳」に1774年再建と載るが、一間社流造りの柿葺き本殿の建立年代は不明である。
       
               安戸能気神社入口付近から撮影

      石段の先にある鳥居        石段を登り終えるとその先に拝殿が鎮座する。
        
 
                   拝    殿 
 秩父地方には「秩父三十四ヶ所観音霊場」と言われる観音信仰から発生した札所巡りがある。西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所とともに日本百観音(日本百番観音)に数えられていて、札所としての創建は、鎌倉時代の文暦元年(1234年)と伝えられている。室町時代の長享2年(1488年)の札所番付(32番法性寺蔵)が現存していることから、遅くとも室町時代までには札所が成立したことが明らかになっている。長享の番付によると、当時は三十三ヶ所であり、札所の順番も現在とは異なっていたようだ。その後江戸時代になると観音信仰が庶民の心の支えとして、隆盛をみるようになった。
 安戸能気神社が鎮座する東秩父村安戸地区は、江戸時代より
江戸-川越-安戸(東秩父村)の宿から粥新田峠を経る道程、所謂「川越通」が秩父札所巡りの主要ルートとなったようで、その門前町として栄えた地域である。
 ちなみに「安戸」という地名は、粥新田峠や定峰峠等を出たところにある休場を意味する「休戸」を安戸と書くようになったことに由来しているという。 

 社殿の左側にある境内社 榛名社、大黒天社、三社合社(写真左)と右並びにある三笠山、御嶽山、鳥海山神と彫られた石標(同右)
           
     拝殿より南側で石段方向を撮影。その先には安戸地域の風景が一望に広がる。
     

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坂本八幡大神社

 東秩父村坂本地区は村の北西部に位置し、北で大内沢、大里郡寄居町西ノ入と、東で奥沢と、南東で御堂と、南で皆谷と、 西で皆野町三沢と隣接する。埼玉県道11号熊谷小川寄居線沿い及び槻川の西側斜面に民家の散在する静かな山村地区である。
 坂本八幡大神社は坂本地区の中心部あたり、槻川の左岸の山の中腹に鎮座している。わが郷土の英雄である畠山重忠と関連のある由緒ある社である。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村1541
御祭神   誉田別命 他13柱
社  格   旧村社
例  祭   秋大祭 113

       
 坂本八幡神社は前出皆谷天神社から埼玉県道11号を落合橋に戻ること約2㎞程、小川消防署 東秩父分署の道を隔てて槻川を渡った先に鎮座している。大内沢神社と同じで赤い神橋が目印となっている。広い境内ではないが、山の稜線を巧みに利用して3つの平地面をつくり、石組で補強している構造で、石垣のような石組が第一印象で飛び込んでくる。駐車スペースは広くはないが神興庫の左側にやや広い空間があり、そこに停めて参拝を行う。
            
                                    槻川に架かる神橋を渡ると立派な一の鳥居がある。

  一の鳥居の手前には「神代里神楽」と記された標識があり(写真左)、一の鳥居の先ですぐ左側には神興庫(同右)がある。
            
                               神楽殿
  当社では毎年113日秋の大祭に村指定無形民俗文化財に昭和561220日指定された神代里神楽が奉納される。この里神楽は安政年間(18541860)より伝えられる里神楽で昔、衣装・用具を保管していた倉庫が火災になり、一時中断したが、深谷市上野台より飯塚利平氏を招いて再興したという。神楽は、舞方6名・はやし方3名で行われ、舞は前儀による清めを含め18座からなっているという。

           
拝殿前に聳え立つ村天然記念物である「タマグス」の御神木。畠山重忠の手植えの木と案内板に記されている。
           
                      二の鳥居と石段の先にある拝殿
 『新選武蔵風土記稿』坂本村の項には、当社について、「建久年中(1190年~1198年)重忠創建のよし云伝ふ、慶安二年五石一斗余の御朱印を賜ふ、社地九町四方、村中の鎮守なり、例祭八月十五日(中略)石段を登ること廿余級にして本社に至る云々」とある。
 勿論ここに記されている「重忠」とは鎌倉時代の武将で、幕府の有力御家人であり、「坂東武者の鑑」と謳われた畠山重忠である。畠山重忠は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山郷」(現深谷市畠山)に生まれ、幼名は氏王丸。父は畠山重能、母は三浦義明の娘。畠山氏は、坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・梶原・秩父・大庭・長尾)のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗る。
           
            拝殿の奥に3段目の石組があり、その上に本殿が鎮座している。

 そもそも重忠が属する秩父氏は鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある不思議な名族だ。平将恒は父武蔵介・平忠頼(将門の従兄弟)と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称したという。忠頼の父・良文は将門と親しかったものともいわれ、忠頼の息子である将恒の「将」の字も将門から引き継いだものと思われる。
 将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。武綱の息子である秩父重綱の代には、「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。秩父重綱の長男、重弘の子は畠山氏、二男である重隆の孫は河越氏を称し、三男、重遠は高山氏、四男の重継は江戸氏を称した。こうして武蔵国各地に移った一族は平氏の血筋を武器に在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大し、秩父平氏(秩父党)を形成していった。
 畠山の家督を継いだ秩父重隆は、下野国の藤姓足利氏や上野国の新田義重、その保護者・同盟者である源義朝と争っていた。また義朝と結んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していた。重隆は源義賢を娘婿に迎えて対抗したが、両人は1155年(久寿2年)に大蔵合戦にて源義平に討たれ、家督は畠山重能に移る。この重能の長男が重忠である。
 1156年(保元元年)の保元の乱で、河越重頼は源義朝の下で戦ったが、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が敗死。その後は平家に従った。1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏の一族ははじめ平家方につき、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は衣笠城合戦で三浦義明を討ち取った。源頼朝が再び安房から南下して武家政権を打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総で頼朝軍を足止めしている。しかしその後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは頼朝に服属し源氏方として平家と戦い、宇治川の戦い・一の谷の戦い・奥州征伐等で活躍、鎌倉幕府設立に尽力した。

だが頼朝亡きあと実権を握っていた北條時政にとって邪魔な存在となり、元久1年(1204)11月、子の重保が京都で平賀朝雅と喧嘩したことから、翌年、牧の方(北条時政の後妻)が女婿の朝雅の訴えを受けて時政に讒言し、そのため時政は謀反の罪で畠山氏一族を討滅する格好の機会をとらえ、同年(1205)6月22日、菅谷館から鎌倉へ向かう途中、北条義時が率いる幕府軍に二俣川(神奈川県横浜市旭区)で待ち伏せされ、壮烈な最期を遂げた。重忠享年42歳。墓と伝える五輪塔が、深谷市畠山にある。

 重忠は治承・寿永の乱で活躍し、また源頼朝の忠臣として知られ、鎌倉時代より現代まで、その人物像には多くの脚色が加えられ、伝説の中には文字通り史実のものもあれば、重忠人気に便乗した後世の多くの付会と思われるものもある。伝説は所詮伝説と割り切ってしまえばそれまでだが、伝説をつくり語り伝えた主体像に焦点を向けると、そこに新たな歴史的状況が浮かび上がってくることがある。
           
                      拝殿の左側には境内社 天満天神社
           
  天満天神社の左側には五社稲荷神社、五社とは 熊野社、愛宕社、稲荷社、金山社、浅間社の五社

 埼玉県内の畠山重忠に纏わる伝承・伝説の類のその大部分は荒川流域の西部地域に存在する。重忠は本拠地は深谷氏畠山及び武蔵嵐山町の菅谷館であるが、その一方秩父一族嫡男家であり、惣領家として秩父庄司とも名乗っていた。その意味において武蔵国の荒川以西地域は重忠にとって勝手知ったる自分の庭であり、活動範囲ではなかったろうか。勿論比企能員が領有していた比企地域等在地豪族はいただろう。重忠の武蔵国における直轄的な領有地は限られた地域であったと思われる。ここで筆者が言いたいことは重忠の領有地域ではなく、武蔵国内の広域な活動範囲である。

 話は変わるが、埼玉県内には約2万基以上以上の板碑が確認されているが、これは質・量ともに全国一といわれている。主として荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる石で、たがねなどで割ると板状に薄く割れる性質があり、柔らかく加工しやすいため、美術的にも美しい出来上がりとなるらしい。この緑泥片岩は青色を帯びているために青石塔婆とも呼ばれていて武藏形板碑と分類されるが、その発生時期は鎌倉時代中期頃から造られ始め南北朝に全盛期を迎え、室町時代そして新しいものとして安土桃山時代のものもあり、そして江戸時代には全く造られなくなるが、板碑と鎌倉街道は大いに関連があるらしい。
 重忠は古代鍛冶、鋳物師集団の頭目ではないかと以前記したことがあるが、その他に実は石工の棟梁ではないかとも考えている。畠山本田の昔話に「 東鑑建久三年永福寺の庭園造成の際、重忠は3m余もある石を一人で抱え池の中を歩き頼朝の指図通りの位置に据え付けた」と記述されている。単なる怪力の話かも知れないが、巨石を動かす技術を持ち合わせている昔話ではないだろうか。板碑発生の由来ははっきりとしていない点が多く、定説はないが、その由来の一つが畠山重忠にあると考えると何となく歴史のロマンを感じるものだ。
            
                           拝殿部より境内を撮影
 重忠の活動範囲内にこの東秩父村も入っている。現在の埼玉県道11号(小川町から東秩父村に行くルート)と294号沿いは鎌倉街道上道の裏街道に位置し、このルートは昔から存在していたであろう。また坂本八幡大神社から埼玉県道11号沿いに定峰峠を通り秩父に入るルートは秩父盆地から外秩父、更には武蔵国内地に通じる数少ないルートの一つであり、重忠は当然知っていたであろう。

 最後に大内沢神社で紹介した「恒望王、藤原恒儀」伝説と畠山氏との接点はあるのだろうか。恒望王は大内沢・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・黒谷・大野原・皆野・田野等広大な郷を領有していたが、その全てが秩父氏の領有地内であり、共に平氏からの出自であること、藤原恒儀は怪力男で、その点は重忠も共有事項である点、多々ある。

 東秩父村という閑散とした山村地域にも歴史の不思議さや奥深さを感じることができる。これだから神社の参拝はやめられないのだ。

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皆谷天児安神社


皆谷天児安神社が鎮座する皆谷地区は東秩父村西部に位置し、北で坂本、東で御堂、南で白石、西で皆野町三沢と隣接する。ちなみに皆谷は「かいや」と読む。槻川上流域の山間部にあたり、小字として皆谷・新田・山口・森ノ脇・大切・朝日根・小安戸・八重蔵・湯ノ木が挙げられる。
 皆谷天児安神社の御祭神である天児屋根命は春日権現春日大明神とも言われていて、岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられている。
 
皆谷天児安神社の創祀は不明と言われているが、天児屋根命を祖神とする中臣氏の一族が嘗てこの奥深い東秩父の地にいたということだろうか。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村皆谷87
御祭神   天児屋根命 
社  格   旧村社 
例  祭   11月上旬
  

        
 皆谷天児安神社は大内沢神社から東秩父村役場方向に進み、途中落合橋の交差点を右折する。埼玉県道294号坂本寄居線から県道11号熊谷小川秩父線に路線は変わり、その道を南方向約5㎞程進むと、右側に皆谷集落農業センターがあり、その向かい側の山の中腹に皆谷天児安神社は鎮座している。駐車スペースは県道を挟んで反対側に皆谷集落農業センター側に若干あり、そこに停め参拝を行う。
        
                 皆谷集落農業センター側から撮影
 
天児安神社由緒には「永禄年間、松山城主上田宗調の家臣関口帯刀丞は松山落城の後、皆谷村に居住して農に帰し、鬼子母社(当社)を祭り、金二十両を貴信す」と記述されている。東松山史話に「永禄四年秋九月、上杉謙信松山城を攻撃す。関口等の将士搦手口を守る、其の軍勢は僅か三千余人なり。天正十八年四月十一日豊臣軍の総攻撃を受け、城主上田朝広は小田原籠城に加わる。朝広は七月三十一日松山城下にたどりつくが、我が居城は既に人手に渡り、城に残した幼子又二郎は、鉢形攻めの途中、山田伊賀守の計らいで安戸の浄蓮寺へ落ちていたので、幼子の守役関口忠左衛門の御堂館に亡命し、そこで又二郎を関口氏の養子にして、上田を絶家させて余生を終った」と。また吉見町史には「上田憲定は小田原落城後、逃れて東秩父村の浄蓮寺に一時身を潜めたが、やがてこの地に土着し、家臣関口氏がここにいたので、その養子となり関口の姓を名乗ったという。その後曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。これが当社の創建であるといわれている。
 この中で書かれている鬼子母神は小田原城陥落後、一時浄蓮寺に匿われていたときに、その寺で祀っていた運慶作と伝えられている一尺一寸の鬼子母神像を持っていき、光官寺の境内に神社を創建した際にその守り神としたという。
 その後明治の世になり、神仏分離によって当社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け、天児安神社と社号を改めたとのことだ。
            
                     勾配の急な石階段上に社は鎮座している。
 参拝時期は初夏を思わせるような5月上旬。雲一つないような晴天の日で、カメラの画像も強い日差しの関係でややぼやけてしまった。また勾配が急なため、30段ほどしかない石段だが、結構きつく感じた。
            
                          石段の途中より社殿を撮影
 
 東秩父村は周囲を緑豊かな外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央に槻川により形成した幅が狭く、細長い低位段丘や谷底平地が続いていてその流域沿いに街が形成されている山村地域である。その地形上の関係からかほとんどの社は山の中腹に鎮座している。平野部に鎮座する社とは違う趣のある参拝を味わえたような気分だ。


 

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