古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新島大雷神社(大電八公社)

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市新島328
            
・ご祭神 別雷命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 夏祭り 727日・28日 お日待ち 4月15日、1015日 
 新島大雷神社は国道17号を熊谷方向に進み、「新島」交差点を左折する。手押し式信号である為、一見分かりづらいかもしれないが、道路の両側にはドラッグストア、パソコン家電があるので、それを目印にすれば分かりやすい。左折後やや道幅の狭い道路を道なりに進行すると、Y字路となるので、右側の道を選び、暫く進むと新島大雷神社が鎮座する場所に到着する。
 実のところ、原島稲荷神社からも南西方向に300m程しか離れていない。新島大雷神社周辺には適当な駐車場がないため、伊奈利神社の社務所兼自治会館前の駐車場に置いて、徒歩にて参拝に向かう。
 住宅街の中にポツンと取り残されて鎮座いている社、という印象。
        
                     新島大雷神社 社殿は西向きで鳥居2基も西側にある。
  この西側には一見畑が広がっているように見えるが、他の周囲は住宅街となっている。
        
                         二の鳥居
        
                                     拝 殿
・風土記稿新島村条
「当村は古玉井村の地なりしを、文禄の頃、新島右近なるもの開墾す。新照寺は新島右近が開基にて、右近は慶長十一年三月十四日死す」
「新島」という地域名は、もとは玉井村の内であったのを文禄のころ新島右近が開墾し一村となしたので、開墾者の名をとって村名にしたものとみられる。
 慶長十三年検地帳には「玉井村新島分、正保年間の田園簿に玉井新田と称す」と書かれ、その後元禄年間に「新島村」と記されていて、その歴史的な経緯も垣間見られる。

 また『武蔵志』慶長十三年検地帳には「玉井村新島分、正保年間の田園簿に玉井新田と称す』の文化32月の条に「京円島村改新島村」と記され、「京円島(キョウエンジマ)村」が古い名前で、新島村に改められたことがわかる。
 一説によると、玉井村の地籍であった時は、京円島村とよばれており、その後大きくなり、独立して一村をなした時、新しくできた島(シマには村落の意味もある)ということで新島村と改められたと思われる

 
   拝殿右側にある『大雷神社 由来』木碑           本 殿

『大雷神社 由来』木碑は所々剥がれていて、読めない場所もあるが、そこは承知の上で記載する。。
『大雷神社 由来』
 当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字新島〇〇り、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、○〇〇〇熊谷市大字新島となる
 当社は古くは大電八公○(○○○○○クシャ)として現○○熊谷市大字新島大天○○○○○○八番地に○○○○○祭神は別雷命(ワケ○以下一行判別できず)の守護神として祀り○○○○○○○○○○後に○○雷神社と改め、明治四十二年四月○○○○○○○○神 ○○○○○○○○○○(祭神 大己貴命)、箱根社(祭神 伊○○○・伊○冉尊)を〇祀し、風の神、安産の神○して近郷の人々の信仰を集○○しました。後に風の神が風邪の神として子供のク○○○○(○のジフテリア)の悪疫除の神様として崇拝されまし○

 新堀に鎮座する大雷神社も同じく「大電八公社」の扁額が拝殿に掲げており、同じ系列の社と思われる。新堀雷電神社は「水神」を祀っていたところから、新島雷電神社も同じく水神を祀っていたと思われる。
        
      社殿右側には末社祠があり大黒天の石像と道祖神の石祠が祀られている。

 熊谷市のホームページには『
郷土こぼれ話』が掲載されていて、その中に「大雷神社 新島)」があり、全文掲載する。

 大雷神社は、新島地区の氏神様です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等が活躍した時代、新島右近によって創建されました。
 大雷神社は、別雷命(雷の神様)を祀り、五穀豊穣の神様です。また、江戸時代病気が流行したとき、医者にかかることができなかった人々は大電八公様(大雷神社)に病気が治るように願をかけました。神社の拝殿にかけられていた馬のわらじを借りてきて、病人の枕元においておくと不思議と病気が治ったと言われています。お礼に馬のわらじを一つ加えてお返ししたそうです。
 大雷神社は人々を叶えてくれる神様でもあったわけです。御神輿はありませんが、人々の手を煩わせないやさしい神様でもあります。
現在、総代と年番という役員さんが中心になって神社をお護りし、祭事を執り行っています。1月2日には歳旦祭が、7月27日、28日には夏祭りが行われます。また、春(4月15日)と秋(1015日)のお日待ちには、地域の人たちがお参りに行きます。大晦日には、初詣のための準備をしています。
        
                  社殿から鳥居方向を撮影
           社の神様は今の風景をどのように眺めているのだろうか。

 江戸時代中山道に沿って家の数は少ないながらも、新島は神様を中心にして一つにまとまって発展してきました。400年以上たった今もこれからも同じようであって欲しいと思います。これから、社会はますます変わっていくと思いますが、新島地区の人たち皆が氏子として参加し、地域の人が一つにまとまって欲しいと思います。住んでいる人たちが行事に参加し、地域の文化を吸収して、さらに活用しながら次の世に伝えていくことはとても大切なことだと思います。神様に手を合わせること 大雷神社(新島)は、自然を崇めることであり、自然を大切にすることでもあります。そして、私たちは自然からたくさんの恩恵を戴いていることを忘れないようにしたいと思います。


郷土こぼれ話』の後半部分は、単に新島地区の人々を指し示しているのではなく、今を生きている我々に対する教訓にも受け取れる。
 現代社会を生きていく中で、日々の喧騒等により何か大切なものを失いつつある。それでも我々日本人が決して失ってはいけない文化や伝統、精神を改めて感じさせてくれた、今回の参拝であった。


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原島伊奈利神社

 国道407号は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫していて、「妻沼バイパス」は埼玉県熊谷市妻沼から同市石原までの区間指定されている。妻沼から石原までの区間中、熊谷警察署前交差点では、東京都の日本橋と新潟県を結ぶ国道17号と交差し、直進すると秩父や山梨県に向かう国道140号(起点)に代わる。但し便宜上妻沼バイパスという名称が使用されることはあっても、国道407号線としては、最初からこちらが現道であり、バイパスという表現は正確ではなく、正式な標識にバイパスとは表記されていないようだ。
        
             ・
所在地 熊谷市原島1331
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 初午祭 旧暦2月初午の日曜日 4月上旬 「オシシサマ」
 原島伊奈利神社はその熊谷警察署から妻沼に北上する国道407号線(妻沼バイパス)沿いにある家電センターを目印に直進し、「水道庁舎前」交差点を左折すると、すぐ先に原島伊奈利神社の鳥居や参道入口があり、参道の奥に社殿が鎮座している。
 冒頭に説明した国道407号線に関して、「熊谷警察署前」交差点は国道17号と国道140号、並びに国道407号の3つの国道が交わり、渋滞も常時頻発している場所だけに、良くも悪くも県北地域における重要な交差点でもある。
 社殿右隣には前原島自治会館兼社務所があり、そこには適当な駐車スペースがあるため、そこに駐車してから参拝を行った。
        
            道路の角地の一角に鎮座する原島伊奈利神社 
                 正面一の鳥居と社号標柱
 
        石製の一の鳥居              木製で朱色の二の鳥居
        
      二の鳥居の社号扁額には「正一位 村社 伊奈利神社」と書かれている。
 熊谷市のホームページ「熊谷市Web博物館」では「原島」の地名語源として以下の紹介をしている。
「原島」語源
埼玉県地名誌では、原島の「原(ハラ)」は原野の意味ではなくて、ハリ(墾)の転化であろう。シマ(島)は、村落の意味があり、つまり-開墾地(原)に居住すること(島)によってこの名が生じた。
アイヌ語(harasyumaハラシヌマ)で広い石原のことをさす。この地もかつて荒川の流域であり、広い河原であったのだろう。
江戸時代には、徳川氏の直轄地となり、この時代を通じ、旗本知行地として終始した。
        
                     拝 殿
新編武蔵風土記稿大里郡原島村条
「禅宗曹洞派福王寺、本尊毘沙門は熊谷次郎直実の女玉津留、千代津留姫二人の守本尊なりと云」
新編武蔵風土記稿大里郡代村条
古は原島と一村なりしが何の頃か別れしと云ふ。薬師堂の本尊は熊谷次郎直実の女玉津留守護仏なりしと云ふ。禅宗曹洞派東善寺は代島山と号す、開山叱洞長牛は慶長十七年寂せり」
 原島氏は在名にて現存していないようで、代島山は代島氏の開基にて、原島氏の本名は代島氏ではなかろうか。
 また「埼玉の神社」による伊奈利神社(原島)の由緒として以下の記載がある。
『風土記稿』原島村の項にも「三島社 小名今泉の鎮守なり、稲荷社 前原島の鎮守とす、天王社 窪ヶ谷戸の鎮守なり、天神社 以上四社吉祥寺の持」と記されているように、古来、原島には鎮守が三社あり、それぞれ別の廓(村組)の人々によって祀られてきた。当社は、右の文にあるように、前原島の鎮守であり、三社のうちで規模が最も大きく、氏子数も一番多かったことなどの理由から、明治六年九月には原島村の村社になっている。
 当社の由緒については、『明細帳』には「創立不詳」とあり、氏子の間にも創建にまつわる話は何も伝わっていない。ただし、本殿には、神璽と共に伏見稲荷から当社別当の吉祥寺に宛てた分霊証書が納められており、その日付が安永四年(一七七五)四月二十七日となっていることから、江戸時代の中期には既に現在のような姿で祀られていたものと推測される(以下略)。
 
    社殿の左側手前に鎮座する合祀社             本 殿
  左から神輿殿・荒神社・八幡神社・神輿
       
             社殿の左奥にあるご神木か(写真左・右)
 
      社殿裏の石祠がある。詳細は不明    社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)あり。
        
                               稚蚕共同飼育場の建設記念碑
 郷土こぼれ話・伊奈利神社 原島 )というホームページを確認すると
祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と言い、稲の精霊が神様になったものです。五穀豊穣・商売繁昌・家内安全・養蚕繁昌等のご利益があると言われています」
初午祭は旧暦2月の初午に近い日曜日に行われ、繭の形をした御札や篠竹に繭玉の団子をつけたものが配られます。養蚕繁昌の
伊奈利神社願いの表れです。稲荷大神様が稲荷山に鎮座座されたのが初午の日だったと伝えられ、盛大に行われています」
 と記載されている。
 原島地区は養蚕の盛んな地でもあり、当地に隣接する社務所兼前原島自治会館は、元来稚蚕共同飼育所として昭和39年に建てられたものと建設記念碑には述べられている。

 一昔前の日本では養蚕が盛んで農家では現金収入が得られる副業として養蚕していた家があり、それゆえ蚕神の信仰があった。筆者の本家である深谷市横瀬地区でも数十年前は養蚕を行っていたと、実母から聞かされていた。昔の農家では屋根裏に蚕小屋を作って養蚕が行われていたが、ネズミによって蚕の卵や幼虫、さなぎ等が食べられてしまう被害が少なくなかったことからネズミの天敵である猫を飼って対策をしていたようだ。こうしたことから猫は蚕神の神使とされ、猫の絵が描かれた御札や絵馬を頒布する神社や狛犬ならぬ狛猫のある神社が現代にも残っている。
一方、蛇はというと白蛇は弁財天の神使として知られ、そして弁財天の神使である蛇がネズミを食べることから弁財天もまた養蚕の守護神とされているそうである。原島伊奈利神社に隣接する社務所県集会所の奥には厳島神社(辨財天)が鎮座しているが、その鎮座理由も養蚕と関係があるのだろうか。
                            

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広瀬浅間神社及び広瀬山王社

【広瀬浅間神社】
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市広瀬115
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 広瀬浅間神社は、熊谷市小島にある「熊谷さくら運動公園」を起点にすると所在地までの説明が行いやすい。この運動公園北側に接している「さくら運動公園通り」という名称の道路を熊谷市方向に進み、左手に熊谷工業高校が見える中、直進する。手押しボタンの信号がある先の十字路を右折し、すぐ斜めにある道を左折してそのまま直進すると広瀬浅間神社がほぼ正面に見えてくる。
 
広瀬浅間神社に接する広瀬東西集会所が南側にあり、そこには1台分駐車で来るスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
        
               道路沿いに鎮座する
広瀬浅間神社
                 社号標柱には「村社 富士浅間社境内」と刻印されている。
 熊谷市広瀬地区は、秩父鉄道「広瀬野鳥の森」周辺が行政地区となっており、国道140号北側に鎮座アするこの地域は、その北東部端部となっている。当初筆者がこの社を参拝する時、この地区名からおおよその位置を想定してから、パソコンで位置確認するが、全く違う位置に鎮座しているので、びっくりした思い出がある。やはり事前の位置確認は必要だ。
 一般住宅が周囲に立ち並び、また社に隣接した東側には工場がある。こじんまりとした社という印象。
        
            鳥居と正面参道。その先には社殿が鎮座する。
 広瀬の地名由来について、『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、久安元乙丑年(一一四五)大和国広瀬郷河野村の広瀬郷右衛門という人が当地に移り住んだ。折しも長雨で荒川が増水し、広い瀬となっていたので、出身地をしのんで名付けたとある。
 熊谷市のホームページ等で現在解説する地名由来としては、「瀬とは、川の流れが浅くて早いところの意味であるから、広瀬とは、川の流れが(ここでは荒川をさす)広く、浅く、はやいところのこと」との事だ。熊谷市広瀬地区は標高36m程度の沖積平野が広がるなだらかな地域でもある。「広瀬」の「広」は「平」とも読める為、地形上の名前としては適当であろう。
        
                       拝 殿
 『風土記稿』には「浅間社 村の鎮守、村持、下同、山王社 天神社」と村内三社の記載がある。また『明細帳』には、大正二年に村社である浅間社に、山王社と天神社を合祀した記事が見られる。『大麻生郷土史稿』に載る宝暦十一年(一七六一)七月二十六日名主市太夫の「村名・社寺・百姓書上げ」には、この村内三社の創建を次のように記している。
 浅間社は、承久元己卯年(一二一九)六月、駿河国より富士浅間大神を遷す。元文三戊午年(一七三八)地頭より富士浅間免の地、中田五畝二十二歩を寄附される。氏子は宿新田東で、別当は南光院である。
 
        社殿の手前左側には広瀬浅間神社 富士塚がある(写真左・右)
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。 富士塚の一角には石祠と天手長男神社の石標あり。
        
                                       
秋山寿蔵碑
 秋山忠右衛門(17921882)は広瀬郷に生まれた教育者で、熊谷の寺小屋「玄染堂」にて学を修め、後に広瀬郷の名主となる。以後、地方自治に尽くし、その功績により年寄役を任じられ、苗字帯刀を許される。私塾を開き、門人360余名を数える。広瀬の浅間神社境内に、文久元年(1861)秋山忠右衛門が71歳の時に門人により建立された秋山寿蔵碑がある。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照


【広瀬山王社】
        
              ・所在地 熊谷市広瀬字山王宮塚
              ・ご祭神 大山咋神(推定)
              ・社 格 不明
              ・例 祭 不明
 広瀬山王社は広瀬洗顔神社から一旦国道140号バイパスをひろせ野鳥の森駅方向に西行する。「ひろせ野鳥の森駅入口」交差点のすぐ先にある「運動公園前」交差点を右折し、最初のT字路を左に曲がると、すぐに左右に曲がる路地にぶつかるので、そこは右に曲がる。舗装されているとはいえ道は細く、車両の交差時には注意が必要。左回りのイメージで進むと、こんもりとした社叢というより古墳のような林が見えてくる。因みにグーグル等道路地図には「日吉山王宮」などと記されていることもある。
 周辺には駐車スペースは全くないので、北側に運動公園の駐車場があり、そこに停めてから徒歩で現場まで行く。
        
                   広瀬山王社遠景
 広瀬山王社は「広瀬古墳群」の一つで、25mの円墳である「広瀬4号墳」とも呼ばれている。
広瀬古墳群と宮塚古墳
 広瀬古墳群は、広瀬地区の妻沼低地、荒川左岸の自然堤防上に所在する古墳時代後期(終末期を含む)に造られた古墳群です。古墳群は大きく二群に分けられ、現在11基が確認されており、墳丘を残す古墳も多く見られます。
 東の浅間神社の社が墳丘にのる古墳を含む2基と、西の宮塚古墳及びその周囲8基の古墳で構成される群に分かれますが、前者は東に占地する石原古墳群に続く古墳群としても見ることができます。
 宮塚古墳は、全国的にも珍しい墳形の上円下方墳であり、一辺1724mの方台の上に、直径8.510mの饅頭のような円形の墳丘がのる形で、その特異性から昭和31年に国指定史跡に指定されました。また、この古墳には埴輪の樹立が見られず、墳形の特徴からも古墳時代の終末期(飛鳥時代)の7世紀末~8世紀初頭頃に築造されたと考えられ、数ある熊谷の古墳の中でも最終段階の古墳と考えられています。上円部には河原石が散乱していることから葺石が葺かれていたと考えられるほか、その規模の小ささから横穴式石室ではなく、火葬骨を入れた蔵骨器を安置した石櫃のような埋葬施設が想定され、併せて、墳墓の規制がなされた大化2年(646)に制定されたいわゆる「大化の薄葬令」以降という時期であることも考えると大変興味深いものです。
「くまがやねっと情報局」より引用
 
     広瀬山王社入口にある鳥居        左回りに上がると社殿に到着する。
 
        墳頂に鎮座する社殿         階段には至る所に川石等置かれている。
                        古墳築造時はどういう形態だったのだろう。

 山王社は、山王宮塚という所に文亀元辛酉年(一五〇一)近江国滋賀郡坂本より遷す。氏子は高橋廓である。当初宮塚古墳に鎮座していたが、大正2年に広瀬浅間神社に合祀されている。当社は合祀された後に新たに祀り直したものと思われる。

 ところで広瀬山王社から100m程西側には国指定史跡である「宮塚古墳」があり、南南西方向200m弱には「広瀬2号墳」も見える。
  
         宮塚古墳                  広瀬2号墳             

       

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大麻生赤城神社

            所在地 埼玉県熊谷市大麻生字下郷1098
            ・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
            ・社 格 旧村社 大麻生下郷鎮守
            ・例 祭 祈年祭 2月19日 例祭 4月19日 新嘗祭 12月16日
            *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。 
 大麻生赤城神社は埼玉県道47号深谷東松山線と国道140号秩父往還道が交わるT字路を左折する。埼玉県道47号深谷東松山線は荒川の北面左岸で「押切橋」陸橋となる為、陸橋手前の信号を斜め左側方向に曲がらなければ、国道140号秩父往還道にぶつからないので、そこは注意が必要だ。
 国道140号秩父往還道を広瀬方面に進み、大栄神社を左側に見ながら、尚も道なりに直進すると、「赤城山 正光禅寺」が左手に見え、その手前に隣接する大麻生赤城神社の鳥居が見えてくる。
 
駐車場は正光禅寺の駐車スペースを利用して、そこに停めて参拝を行う。
 
 国道沿いに鎮座する社で、社号標柱(写真左)が見え、その奥に鳥居(同右)が見える。
 参拝後に知ったことだが、大麻生赤城神社境内には、大麻生村の道路元標が設置されていたとの事。因みに道路元標とは、道路の起終点を示す標識で、明治44年(1911)に、現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、大正8年(1919)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていたという。
 
                        大黒天の石碑とその前にある杉(写真左・右)
                 大黒天の石碑右側には庚申塔が並ぶ。
 しめ縄の類であろうが、紙垂がない。風や雨によって落ちたものだろうか。因みにしめ縄に紙垂を飾る場合、何枚飾るのが良いのか以前調べてみたところ、通常4枚ほどだが、決して決まった枚数はないとの回答が多かったと記憶している。
        
               参道。神橋も途中に見える。
 大麻生の地名由来としては、「アソ」とは水の浅いところを指し、湿地の意味があり、荒川流域の低湿地から、この地名が生まれたと推測されている。「アソ」を漢字で「麻生」と書くのは当て字で、麻(アサ)が生えていたことに由来する地名ではないと考えられている。また大麻生は「オオアソ」と呼ぶ場合が多く、地元では「オアソ」とも呼んでいるようだ。
        
                                        拝 殿
○赤城神社(熊谷市大麻生一〇九八(大麻生字下郷))
 当社の創建は、棟札によると、寛文十三年(一六七三)に正光寺の僧風山(同寺四世の清厳文益和尚と推定)により行われたという。これにちなむ口碑に、僧風山が巡錫の途中、下野国河内郡(現宇都宮市)の二荒権現に詣で、その分霊を受けて寺の守護神として一社を営んだのが当社の始まりであるとの伝えがあるが、赤城神社と二荒権現とのかかわりについては明らかでない。『新編武蔵風土記稿』によると正光寺は禅宗臨済派、幡羅郡國済寺村の國済寺の末寺と記されている。当社は正光寺に隣接して建てられており、村の鎮守として祀られるようになってからも正光寺が神仏分離まで当社の祭祀をつかさどっていた。
 江戸時代の大麻生村は、上郷、中郷、下郷の三地区からなっており、それぞれに鎮守とする社が祀られていた。これらは、明治に入るといずれも村社となったため、大麻生の村内には村社が三社もできてしまった。そこで、政府の合祀政策に従って一村一社とすべく、各社の世話人が協議した結果、下郷の鎮守であり、大麻生全域に檀家を持つ正光寺と縁の深い当社に村内のすべての神社を統合することが決議された。しかし、結果的には上郷・中郷の住民の十分な理解を得ることができず、氏子区域内の藤木稲荷神社・天神社・五幣稲荷神社・大久保稲荷神社の四社を合祀したにとどまった。
 祭神は大己貴命と豊城入彦命で、本殿内には、創建時の棟札と天明二年(一七八二)の神祇管領調製の霊璽などが納められている。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
       社号を記した扁額                本 殿
       
                社殿の奥に聳え立つご神木

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川原明戸諏訪神社

 川原明戸の「明戸」は旧来、「悪戸」と記された。「アクト」は「アクタ」から出た言葉で、上流から流出した土砂(芥:アクタ)が堆積した場所、川沿いの平地の意味。この土地が荒川の水害が度々起こり、湿地が広がり、耕地に適さず、江戸時代中期には、「悪戸」と記された
 地名辞典等によると、「悪戸」は、「アク」が、アクト・アクツ・アクタ・アクバ等に同類の意味があり、低湿地・耕作に適さない土地ということから、悪い土地の意味を持つようだ。この場合の悪い土地とは、作物の稔りが良くないということであろうが、この様な所は、動植物の憩うオアシスとなり、山林は保水涵養林となる。「アク」はこのように水をも指し、そして「アク」の語自体が、「アクア」(ラテン語、またヴェネツィア語、エミリア・ロマーニャ語、ロンバルド語)から来ており、「アカ」(閼伽)も宗教こそ違え、同じ意味を持っているという。古い時代に、西側の世界から日本へ入った言葉のひとつと考えられている。
 「悪」という言語は、総じてあまり良い意味には使われていないが、決して否定的な意味しかないわけではない。「悪」は「突出した」という意味合を持ち、剽悍さや力強さを表す言葉としても使用された。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味でもある。
 地名に使用された「悪」と水を意味する「アク」の言語が同様のいい方をするとはおもしろい取り合わせであろう
 神仏や自然に対する素朴な畏れや崇拝を我々の先祖は後世に残すため地名に記したモニュメントように思えてならない。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市川原明戸177
             ・ご祭神 建御名方命(推定)
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
             *社格は「大里郡神社誌」を参照。
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1466143,139.3046361,16z?entry=ttu

 川原明戸諏訪神社は、国道140号秩父往還道を深谷市花園、寄居町方向に進み、「熊谷特別支援学校」の看板がある信号を左折する。秩父鉄道が並列するように通っているため、左折する際には一時停止は忘れずにお願いしたい。そのまま道なりに進むと変則的な十字路があるので、そのまま荒川河川敷方向に進む。左側に奈良用水が流れており、そのまま進むと右側方向に浄土宗明道寺が見え、その並びに川原明戸諏訪神社が鎮座している。
 明道寺の専用駐車場を利用して、参拝を行う。
        
                       川原明戸諏訪神社 道路を隔てた場所から撮影
      江戸時代での神仏習合の名残りがこの場所にはあるのではないかと感じた。
        
                     明道寺との境界に立っている社号標柱
 境内周辺は綺麗に手入れがされていて、雨の中での訪問となったが、気持ちよく参拝が行えた。
               
                     参 道
 
 鳥居(写真左)を越えてすぐ左側に手水舎がある(写真右)。この手水舎はこの規模の社では考えられない位の精巧な彫刻が施されている。
 
 川原明戸地区には、江戸時代宮大工家として「飯田家」が住居を構えていた。飯田仙之助・岩次郎をはじめとする川原明戸で技の鍛錬を極めた飯田家は、江戸時代中期の上州・花輪村の名彫刻師である石原吟八郎の流れを汲む宮大工家であり、諏訪神社本殿を含む各所に精巧な彫刻技術の遺産を目にすることができる。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
        
                                拝 殿
 明治時代中期に川原明戸地区の八幡社や頭殿神社などを合祀したもので、養蚕の盛んな地であった大麻生地区での信仰文化と関わりがある。諏訪神の使いである白蛇が蚕に危害を加える鼠を除けるという信仰と、機織に関わる「女諏訪様」の信仰である。諏訪様には男女があり、荒川を挟んだ旧江南町上新田の諏訪神社は男で猟をつかさどり、当社が女で機織を守るという対比が伝承されている。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
 
 
 川原明戸地区に在籍していた飯田家関連の人物は多数存在している。宮大工等の彫刻師に直接関与している人物のみならず、大工関連、また奉納関連の人物が、この狭い区域にこれだけの人物が幕末から明治時代前半という限られた時期に輩出していることに正直驚きを禁じ得ない。
押切村八幡社 安永七年棟札 棟梁飯田甚八清正
上州榛名神社 寛政十一年奉納 武州大里郡河原明戸村 飯田恒八
赤浜村八幡宮 文化十四年棟札 大工川原明戸村飯田和市
松山町箭弓稲荷社 天保六年棟札 棟梁大里郡河原明戸村飯田和泉藤原金軌・後見飯田和泉淀  
章・彫工飯田仙之助(此年六十七歳没)
瀬山村八幡社 天保十三年奉額 河原明戸村・飯田真次郎・飯田竹松・飯田勇吉・飯田忠吉・飯田岩次郎・飯田作兵衛
瀬山村諏訪社 安政六年水鉢 飯田作兵衛・飯田喜兵衛・飯田馬太郎・飯田善右衛門・飯田忠吉・飯田次兵衛・飯田平五郎・飯田与兵衛広鏡・飯田鷲太郎宗直・棟梁飯田和泉・彫物師飯田岩次郎
白川家門人帳 慶応元年 河原明戸村大工源太郎事・飯田和泉
長瀞宝登山神社 明治七年棟札 川原明戸村彫工飯田岩治郎
        
                             社殿左側に鎮座する天手長男神社
        
 社殿右側に鎮座する境内社。
額は二つ掛けられており、一つには「稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社・御嶽神社」、もう一つには「頭殿神社」と書かれている。
      
     稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社     頭殿神社と書かれている額
           御嶽神社の額

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると、河原明戸村・小字「殿ノ内」の地名由来として、武蔵七党のひとつである私市党の一族である河原太郎が昔住んでいた所で、この河原太郎という人物は太郎高直といい、埼玉郡河原村の出身という。
【新編武蔵風土記稿】河原明戸村条
「小名殿ノ内あり、此所は往昔河原太郎が住せし所と云。河原は武蔵七党私市党の人にて、太郎高直と呼べり、此人のことは埼玉郡南河原村に出したれば彼村について見ゆべし」

【河原高直】(11541184)は、平安時代後期の武士で、通称は太郎
・系譜
 彥坐主王-(中略)-私市黑山-(中略)-則家-河原成方-成直-高直/盛直と續く私市黨庶流。
 久寿元年生まれで、源頼朝の家臣で武蔵七党のひとつ私市(きさい)党に属した。寿永3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従う。兄弟で平氏の陣にせまったが, 平家方きっての強弓の使い手である備中国住人直名辺五郎の矢に射られ,同年27日兄弟共に討ち死にした。享年31歳。
        
                   社殿からの風景 
 河原氏は武蔵七党私市党の出身とされ、私市則房の子成方は北埼玉郡や大里郡を転々としたのち、北埼玉郡河原村に住むことになり河原権守を称したのが河原氏の始まりとされる。
 また南河原地区に鎮座する河原神社は嘗て勝呂大明神といった。
【増補忍名所図会】
勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり
 源平盛衰記には「武蔵国住人篠党河原太郎高直・同二郎盛直、生田庄を給ふ」と記載があり、これから推察すると、河原太郎高直・同二郎盛直兄弟の本当の故郷は、一の谷決戦場所であった摂津国の生田地区であったと思われる。
        
                               鳥居から東側の風景を眺める。

 筆者が想像するに、河原氏の先祖は摂津国・生田庄付近の出であったのだろう。神職もしくは社務に従事する社人だったかもしれない。その後東国に移住をすることになり、武蔵国勝呂郷(坂戸市)塚越村住吉神社に移ることになるが、そもそも摂津国の一之宮は旧官幣大社である住吉大社である。住吉神社は航海守護神としての信仰があり、移住する際も船を利用したとも想像できる。そして河原兄弟の祖父あたりの代(河原成方)に埼玉郡河原村へ到着し、そこの有力一族である私市党に属し、それまでの苗字から「河原氏」を名乗ったと考えられる。
 不思議なことに河原氏は
私市党に属しながら、「源姓」を称していた。本来の苗字は源姓なのだ。河原兄弟がなくなった後代にその一族が書き記した「河原氏由来記」には「居士は姓河原、其先源氏、今は今村を以て姓と為す。世々南河原村之長也、天正元年二月吉日・今村源左衛門居士」とあり、本来の苗字は今村であったと書いている。現在でも南河原地区には今村姓は数十戸存在しているが、河原姓はいない。

 河原太郎高直と川原明戸の接点はどこにあったのだろうか。古代氏族系譜集成に「成木権大夫直幹―熊谷兵衛太郎直季(又成木大夫、住大里郡熊谷村)―河原二郎三郎直光(一説私市大夫直常子)―河原小二郎直広(住大里郡河原村)―河原太郎大夫忠広―河原太郎高直(又有直、寿永摂州生田合戦討死)―小太郎重直(弟成木小次郎重宗、其弟河原守直)―又太郎直重―兵衛尉景直(弘安乱・城入道退治時討死。弟宮内丞長基)、高直の弟河原次郎盛直(一に忠家、摂州生田合戦討死)―忠政(一に忠教)」と見える。
 ここでは河原太郎高直の2代前の河原小二郎直広は大里郡河原村に住んでいると記されている。古文書では人物名等若干の相違は出てくるので、ある程度は仕方のないことだが、高直の2代前に大里郡河原村に住んでいる事は共通しているので、そこは重要である。
 勝手な解釈としてあらかじめお断りするが、河原太郎高直の領地は南河原村であっただろうが、その飛び地として川原明戸も含まれていたのではなかろうか。想像を逞しくして、2代前の当主が川原明戸に辿りついた時期、高直兄弟も幼少時期として同行していて、暫く滞在していたかもしれない。

 

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