古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

明戸諏訪神社

        
                      
            ・所在地 埼玉県深谷市明戸504
            ・ご祭神 建御名方命
            ・社 格 不明
            ・例 祭 春例大祭 415日 秋例大祭 1015日 八坂祭 727
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2100705,139.2956778,16z?hl=ja&entry=ttu

 明戸諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸東」交差点を左折する。埼玉県道127号深谷飯塚線の緩やかな右カーブの道路を300m程進むと右側に明戸諏訪神社が見えてくる。社以外周囲は長閑な田園地帯が広がり、進行方向上やや左側に見えるこんもりとした社叢は、旧県社・楡山神社で、直線距離でも500m位しか離れていない。
 社に隣接する明戸西部自治会館兼社務所の前には、数台分停められる駐車場所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                  明戸諏訪神社正面入り口
               社は小山川右岸の徴高地に鎮座する。
        
                     鳥居正面
 
         社号標石               鳥居に掲げてある社号額
        
           鳥居を過ぎて参道右側には神楽殿と八坂神社あり。
 元々この社は「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。神楽殿の隣に鎮座している八坂神社は本来の地元で祀られていたが、現在は諏訪神社の境内の片隅で末社扱いとなってしまった。
        
                          参道途中右側にあった「諏訪神社」社号標
              嘗て鳥居前に掲げてあったものだろうか。
        
                                         拝 殿
 創建は、慶長十六年(1611)諏訪大明神を厚く信仰する上野国高岡村の田村外記・亀井宇丹の両名が、信濃国諏訪大社より神霊並びに神巻を拝受して当地に移住し、これを祀る祠を建立したことによると伝えられる。『風土記稿』によると、別当は当地の真言宗阿弥陀寺である。 開山は伝慶で、寛永六年(1629)の草創である。
 主祭神は、建御名方命で、かつては本殿に諏訪大明神の本地仏である普賢菩薩を祀っていたという。
 
        社殿左側に鎮座する境内社(写真左、右)どちらも詳細不明。
 
  社殿右側に鎮座する境内社 稲荷神社     稲荷神社正面に掲げてある「改修記念碑」

 明戸諏訪神社が鎮座する「明戸」地名は、熊谷市にも同名で「川原明戸」として存在している。熊谷市のホームページ(「熊谷市Web博物館」)では、熊谷に残る地名について紹介し、その由来について解説されている。
        
                            県道沿いに鎮座している明戸諏訪神社

 この「明戸」地名由来として、“川原明戸”と書いて“カワラクト”と呼ぶ。“明戸”は、昔“悪戸”と書いた。“アクト”は“アクタ”(圷)から出た言葉で、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたのであろう。その後、堤防の技術が進み人工の排水が行われ、耕作が出来、人々が住みつき、村を形成するようになった。そうなると悪字を用いる必要もなく、好字であり、しかも開発の意味もある“明”を用い“明戸”としたのであろう。〔埼玉県地名誌〕
 深谷市・明戸地区も熊谷市の川原明戸地区と同様な地形的な特性を持つ場所であったと考えられる。

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戸森雷電神社

         
              ・所在地 埼玉県深谷市戸森149 
              ・ご祭神 別雷大神
              ・社 格 旧戸守郷鎮守 旧村社
              例祭等 祈年祭 224 例祭 328日 新嘗祭 124
              *祭日は「大里郡神社誌」を参照。
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2108341,139.2760379,16z?hl=ja&entry=ttu  
 戸森雷電神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、埼玉県道14号伊勢崎深谷線と交差する「大寄」交差点を左折し、南へ少し下ると、すぐ左手側に雷電神社が見えて来る。雷電神社に隣接した社務所が道路沿いにあり、駐車スペースもある為、そこに車を停めて参拝を行う。

 隣接する雷電寺は、不動明王を本尊とする雷電寺は雲龍山観音院雷電寺と称し京都の総本山智積院末で真言宗智山派に所属し、創建は今から六百六拾六年前の正慶二年(1333)に雷房長傳と伝えられているが、新編武藏風土記には慶長年間(1596-1615)に僧印山とある。また同風土記には延宝七己未年(1678)僧慶算中興とも記載されている。            
       
                 「雷電神社」社号標柱
       
              一の鳥居と「正一位雷電宮」石碑



「正一位」とは律令制度下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、本来は官人の地位を表す等級として一位から初位の位階があった。その後奈良時代中期以降、この位階が拡大解釈され、人に対してではなく、神・もしくは神社にも授位されるようになった。これは「神階」と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものであった。 


実はこの正一位の位を持っている神社は全部で22社あり、
・松尾大社・上賀茂神社・下鴨神社・春日大社、・石上神宮・枚岡神社・香取神宮・鹿島神宮・日吉大社
等である。
 特に稲荷神社では総本社の伏見稲荷大社が建久512月(11951月)の後鳥羽天皇の行幸に際して「本社勧請の神体には『正一位』の神階を書加えて授くべき」旨が勅許されたとされており、勧請を受けた全国の稲荷神社もこれを根拠に正一位を名乗るようになり「正一位」は稲荷神社の異称のようになった。
 因みに戸森雷電神社の総本社である賀茂別雷神は大同2年(807年)最高位である正一位の神階を受けている。それ故に、その分社である雷電神社の社号標にも「正一位」と表記されているというわけだ。
                                    (Wikipedia)等参照
 

            参道                   二の鳥居
        
                     拝 殿
 当雷電神社は賀茂別雷神社の御分社なり 往昔医道の達人道三に依り勧請す 今尚尊海師の作れる雷電勧請の縁由及三國雷電略記の二巻保存す 享保十七年七月二十七日に時の神祇管領に依り当社に正一位雷電宮として奉授せられたと宗源宣旨に記載されてあり 本年十月吉日氏子総代各位京都吉田神社に参詣しこれを確認す 依って石に刻し後世に伝う 
 昭和六十二年十二月二十八日建 雷電神社宮司神島大謹書
                                      境内碑より引用

 
 拝殿には渋沢栄一の揮毫した扁額が掲げられている(写真左)。扁額は横文字で「雷電神社」と書かれてあり、縦書きで「正三位 勲一等 子爵 渋沢栄一書」とある。本殿(写真右)には雷電像を安置している。昔は「雷災除け」の神札を授与していた。落雷を除き、もろもろの崇りを避けるというので信仰されたという。
*「令和三年十一月発行 大寄公民館だより」一文を参照
       
             社殿の左側奥にあるご神木(写真左・右)
 
 ご神木に並ぶように鎮座する境内社・石祠群(写真左)。また石祠群の右先にある石祠(写真右)。石祠には特に記されていないため、詳細不明。手前に身禄霊神と小御嶽大神の石碑あり。
 
                             社殿の奥に並ぶ境内社(写真左・右)
 琴平神社、天手長雄神社、八坂神社、稲荷神社   摩多羅神、摩利支天か。少し見ずらい。
 
         
拝殿手前、右側にある御嶽塚       拝殿手前左側に並んである石碑等
        
                              当日は雨の中での参拝。
          そんな天候の中でも社には趣もあり、落ち着いて散策を終えることができた。

              


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上敷免諏訪神社

 山内上杉憲顕の六男である上杉憲英は、庁鼻和(埼玉県深谷市)に庁鼻和(こばなわ)城 を築き、分家して庁鼻和上杉氏を名乗った。その後憲英のひ孫である房憲が深谷城を築き深谷上杉氏を名乗った。
 深谷上杉氏には、深谷三宿老や深谷上杉四天王と呼ばれる家臣たちがいた。岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人を通常「三宿老」、これに上原出羽守を入れると「四天王」という。
 重臣筆頭の岡谷香丹・加賀守清英親子は文武両道に秀でた良将だったようだ。自身の本拠地は延徳三年(1491年)父岡谷香丹築城した武蔵国榛澤郡上敷免の「皿沼城」にあって、利根川を渡って攻めてくる北の古河公方足利成氏や新田金山城の由良氏からの押さえをしながら、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請して、上野台八幡神社を創建させたりしていている。また天文十八年(1549年)清英は萬誉玄仙和尚を招いて清心寺を開基した。清心寺には源平一の谷の戦いで岡部六弥太に討たれ、岡部六弥太が建てた平忠度(ただのり)の五輪塔墓がある。後に上杉謙信も清英の武勇に感銘を受け後奈良天皇から賜った箱根権現像を送ったという逸話が残っている。
       
             ・所在地 埼玉県深谷市上敷免940
             ・ご祭神 建御名方神命
             ・社 格 旧上敷免村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 224日 例祭 415日 新嘗祭 125
             *祭日は「大里郡神社誌」を参照。
 地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2107926,139.2907058,17z?hl=ja&entry=ttu 
 上敷免諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸(東)」交差点で左折、埼玉県道127号深谷飯塚線に合流してすぐの先の5差路で埼玉県道275号由良深谷線と合流するので、17号バイパスと並行する形で、西方向に進む。一面のどかな田園風景が広がる中、道なりに真っ直ぐに進み、途中「あかね通り」の歩道・自転車道があり、そこを注意しながら進むと、正面に上敷免諏訪神社が見えてくる。
 信号のある交差点の右側はすむかいに社が鎮座しているが、社に隣接した北側にある空間が駐車場となっていて、そこに車を停めて参拝を行った。
 因みに上敷免諏訪神社が鎮座する交差点を更に西方向に進み、唐澤川に到達する手前右側には「皿沼城跡」の案内板があり、室町時代に深谷上杉氏の筆頭家老である岡谷加賀守香丹の築いた城である事と、今回紹介する社も、皿沼城築城に際して城の鎮守として延徳3(1491)に創建したと伝えられている。その後皿沼城は天文21年(1552)に廃城になったが、いつしか泉光寺持ちとして、地元の方々から上敷免の鎮守として祀られるようになったと謂われている。
       
                 上敷免諏訪神社 正面
              
                    社号標石
       
     鳥居から正面参道を撮影。参道はその後直角に曲がり、南向きの社殿に向かう。
        
    鳥居のすぐ先には樹齢300年以上と推定されるご神木の大欅あり(写真左・右)。
       
                  こじんまりとした拝殿
 上敷免諏訪神社には由来等木下案内板はない。そこで西側近郊にある「皿沼城」の案内板を参照としたい。皿沼城も上敷免諏訪神社も同時期に岡谷加賀守香丹の築いた城であり、社でもある。
 
          唐澤川土手上にある「皿沼城」の案内板(写真左・右)       
○皿沼城
 深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。 
                                      案内板より引用

 
 社殿の右側には稲荷社と推定される社(写真左)。深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました際に、伏見神社を城内に祀ったという。また稲荷社の右側奥には、御嶽山大神・三笠山大神・八海山大神の石碑、囧御先大神・大山祇大神の各石祠(写真右)が並ぶ塚もある。
       
         鳥居付近から撮影。このアングルでは欅が社の中心に見える。

「埼玉の神社」には上敷免諏訪神社を創建した岡谷氏について以下の記載がある。
「深谷城上杉氏の重臣であり、鎮守府将軍源経基の子孫と伝える岡谷加賀守香丹が、延徳三年(一四九一)当地に皿沼城を築いて住んだ時、城の鎮守として、岡谷氏の旧地である上野国岡谷(現群馬県沼田市岡谷町) から、諏訪大明神を勧請したものである。この諏訪大明神は、古い時代に、信濃国岡谷(現長野県岡谷市)から上野国岡谷に移り住んだ人が、信濃国の一之宮である諏訪大社を祀ったものと考えられる」

また神社に設置されていた「諏訪神社のいわれ」によると
「鎮座地の地名である上敷免は雑色免の転訛という。雑色免とは古代、種々の技術に従う人をいい、雑色免は、荘園において雑色の報酬として給付された免税地である」
という。

 深谷市は「瓦」「煉瓦」の街とも言われている。奈良時代、聖武天皇の時代から造られてきた「深谷瓦」は品質が優れていることから、県内はもとより、関東一円で広く利用されてきた。というのも、利根川と小山川の氾濫土が豊富に堆積していて、瓦製造に必要な原料である良質な粘土には事足らなかった為、古くから瓦などを焼く職人集団が、租税を免除されてこの地に沢山住んでいたのではなかろうか。
 同時に、深谷瓦の生み出した土は煉瓦(レンガ)にも適していて、明治時代からは煉瓦製造にも手掛け、深谷で製造された煉瓦は、東京駅、日本銀行旧館、東京大学、赤坂離宮など有名建築に使用されていた。

 明治20(1887)10月に日本煉瓦製造会社の工場が上敷免地域に設立されたことは、明治・大正期の実業家である「渋沢栄一」の意向(生まれ故郷に工場を誘致したい)も否定できないが、最終決定には、当時のドイツ人の煉瓦技師であるチ-ゼが、現地踏査と土質調査を基に決定したことである。

 埼玉県民でも読めない地名のひとつに数えられる「上敷免」という地名だが、そこにはそれだけの歴史的な深さのある由緒ある地名なのである。

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高畑鷲宮神社

  當社(高畑鷲宮神社)の創建年代は不詳。武蔵国埼玉郡鷲宮村鷲宮神社の御分配といい、鷲宮は土師宮の転語で、土師部に属する一族はその由来は全社共通の伝えでもあるという。この地域には古墳時代後期の集落跡が確認されているのも、土師に関係している地域だからであろうか。
 またこの地は元藤田の庄に属し、岡部郷の地頭である岡部六彌太忠澄の領地が高畑地域もあり、鬼門よけの祈願所として創建したという。
 社及びご祭神に関係ある地名も「鷲宮・岡部田・手洗橋・船橋・鳥居畑・御供田・燈籠面」等あり、「鷲宮」は神域周辺の地名で、「岡部田・御供田」は岡部六彌太忠澄の遺名であったという。鷲宮神社の氏子等らは、古来から「鶏」を食べず、愛護する信仰があり、他町村に嫁ぐ女子までもが、この信仰を頑なに守ったという。また鎮守の忌み嫌うとして、お茶やきびを耕作しなかったという。       
                      
              ・所在地 埼玉県深谷市高畑1
              ・ご祭神 武夷鳥命 天穗日命 日本武尊
              ・社 格 旧高畑村鎮守 旧村社
              ・例祭等 例祭 411日 初酉祭 11月上酉の日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.218886,139.2827665,17z?hl=ja&entry=ttu
 高畑
鷲宮神社は国道17号バイパスを本庄方面に向かい、「深谷警察署前」交差点で右折。次の「高畑」交差点を左折すると、すぐ右側に「円能寺」が見えてくるので、お寺の駐車場手前の細い十字路を右折して道なりに真っ直ぐ進むと、正面に高畑鷲宮神社の鳥居が見えてくる。この社の住所は高畑1。いわばこの地区の中心地に位置する社ともいえる。
 一の鳥居の先は参道となるわけだが、世界かんがい施設遺産として登録された「備前渠用水路」が東西に流れていて、このかんがい施設に架かる「宮橋」と呼ばれる神橋を渡って境内に入る。駐車スペースはその境内に入り、社務所周辺に数台停めることができる場所があるが、そこは神様の神聖なる場所でもあり、慮って一の鳥居前の路肩に駐車して参拝を行った。
 因みに筆者の一族が眠る菩提寺はこの円能寺で、筆者自身その一族の末に当たる。姓は「吉田」でこの一族はこの地域に多く存在する。現在実父はこのお寺に眠り、月命日には多少日にちは前後するが、必ず参拝に赴いている。故にこの地域の地理にも多少は明るい。
       
                高畑鷲宮神社 一の鳥居
            
           一の鳥居手前左側にある「備前渠用水路」の看板
○世界かんがい施設遺産に「備前渠用水路」が登録されました。
「備前渠用水路」が令和2128日にWeb会議で開催された国際かんがい排水委員会(ICID)国際執行理事会において、備前渠用水路が「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
 備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市、を流れ、利根川右岸の水田にかんがい用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。
1604年に江戸幕府代官頭の伊奈備前守忠次により、1年間という期間で開削された埼玉県で最古級の用水路で、伊奈備前守の官名から「備前堀」の愛称で親しまれています(中略)
 用水路の開削から約400年を経過した現在も同じ流路で素掘水路区間が多く残っており、開削当時の面影を今に伝える歴史的にも貴重な用水路となっています。また地下水の涵養、農村景観の維持、生態系の保全、洪水の防止などの多面的機能を有しています(以下略)
主な概要
取水源…利根川
●幹線水路延長…約23km
受益面積…1,400ha

取水量(最大)…9,185㎥/秒
設備概要…取入水門、第3
樋門、矢島堰                    案内板より引用
 
                  橋から眺める備前渠用水路の風景(写真左・右)
 備前渠用水路は埼玉県では「見沼代用水」に続いて2施設目の「世界かんがい施設遺産」となる。この「
世界かんがい施設遺産」を南北に横切るように鷲宮神社が鎮座しているが、鷲宮堰という取水堰があり、そのすぐ東側に鷲宮神社の神橋である「宮橋」があり、その参道の先に社殿がある。
       
                 参道先にある二の鳥居
       
                    拝 殿
 現在この地区は「高畑」と表記されているが、この社にある灯篭には「高畠」と彫られている。嘗ては「高畠」地名だったのだろうか。
 地形的に見るとこの社は、「備前渠用水路」と小山川に挟まれる狭い場所に鎮座している。
       
               拝殿上部に掲げてある社号額
       
              拝殿手前左側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
                   拝殿左側に鎮座する境内社(写真左。右)
 
 御嶽塚(写真左)。
塚の中心には御嶽山座王大権現・三笠山刀利天・八海山大頭羅神王があり、祀られている。石祠は三峯神社(写真右)。左側の建物には神輿と小さな木造の祠が納められている。

 ところで
高畑鷲宮神社近郊には「高畑遺跡」が存在し、古墳時代後期の集落跡が確認されている。高畑遺跡は、標高は約35m、遺跡の範囲は約59万㎡と推定され、1次調査では、古墳時代~中世にかけての溝5条、河川跡等が確認されている。また、下水道工事時に、地下1m以上の深さから、古墳時代後期の土師器が出土している。高畑遺跡第2次発掘調査は、平成181121日~平成19年1月12日にかけて行なわれ、全体の調査面積は約900㎡であり、竪穴建物跡16棟、全て総柱式の掘立柱建物跡5棟、円形周溝遺構2基、土坑1基、溝2条等が確認された。遺構は67世紀のものがほとんどで、この時期の大規模集落の一端が垣間見えた感がある。南東部から、倉庫と考えられる総柱式掘立柱建物跡が複数確認されたことから、この遺跡が居宅的要素を持っていることが想定される。
 古墳時代後期
になると、上敷免遺跡を始めとする唐沢川東岸で集落が大規模化しており、唐沢川西岸との対比が顕著である。7世紀になると、上敷免遺跡及びその周辺で大規模化した集落のほとんどは縮小していき、それより東部の宮ヶ谷戸遺跡、東川端遺跡、清水上遺跡等、後に幡羅郡家が造営される場所の近辺にある集落の規模が拡大する。そうした集落の動きがある前後の時期に、高畑遺跡の集落が充実していくことが確認されたことは、律令期に至るまでの開発と集落の動きを考える上で、重要な成果と言えよう。
       
                高畑鷺宮神社 境内の様子

 高畑鷲宮神社とは全く関係のない話となっているが、地域の歴史は深堀すれば面白いことが沢山ある。筆者にとって、社の散策はこのような地域歴史探求の意味合いも深いのだ。
     

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四方田産泰神社(金佐奈神社)

 産泰神社は群馬県前橋市に鎮座する、木花佐久夜比売命を主祭神とし安産・子育の神様であり、また美しい姿から女性の守護神として多くの崇敬を集めていて、県外からも多くの祈願者が訪れる神社である。近年ではパワースポットとしても注目されていて、妊婦の方をはじめ赤ちゃん連れのご家族などお参りに来られる方でにぎわっているという。いわば産泰神社は、誠に日本の国柄らしい安産・子育て・女性守護の神社でもある。
 産泰神社ホームページには「社歴」についてこのような記載がある。
「前橋市の東部、おだやかな田園地帯のこんもりとした小山に鎮座する産泰神社は、古くより神社名が示す通り安産・子育ての守護神として県内はもとより関東一円から参拝者が訪れます。社伝古志故事録は小田原北条氏の乱に焼滅し定かではありませんが、日本武尊の東征の折り此地に勧請せしといい又、履中天皇元年鎮座ともいわれています。 本殿の裏に約十三万年前に赤城山の「石山なだれ」により出現したといわれる磐座があり、原始古代から信仰の土地であったことが推測されます。現在の社殿は、権現造りで本殿・幣殿・拝殿・神門の四棟及び境内地が、十八世紀中期から十九世紀初頭の本県の神社建築様式の指標となる貴重な遺構であるとの理由で群馬県の重要文化財に指定されています。」
 産泰神社は古代巨石崇拝に基づく信仰形態がかなり古いにも関わらず、主祭神が木花佐久夜比売命であることにより、妊婦の方やお宮参りの方など女性の参拝者が多い神社でもあり、境内も含め女性が安心できる気配りと、荘厳ながら優しい雰囲気が漂う社でもある。
       
             ・所在地 埼玉県本庄市四方田289
             ・ご祭神 素盞鳴尊 天照大神 木乃花咲耶媛
             ・社 格 旧四方田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 220日 大祭 44
                  八坂祭 715日 秋祭 1019日 新嘗祭 1215
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.222422,139.1668236,17z?hl=ja&entry=ttu 
 四方田産泰神社(金佐奈神社)は、東富田熊野十二神社沿いの道路を西方向に進み、突き当たりのT字路を左折し、最初の「四方田住宅入口」交差点を真っ直ぐに進む。交差点先の新幹線の高架橋を過ぎると、すぐ正面左側に四方田産泰神社の鎮座するこんもりとした社叢が見える。
 但し困ったことに、適当な駐車スペースが見当たらなかった為、神社手前の小さな公園脇の一般の方々に迷惑をかけない場所に車をと待て、急ぎ参拝を行った。
*字数の関係で、社の表記は今後「
四方田産泰神社」とする。
              
                
四方田産泰神社 社号標石
       
           参道
から社殿方向を望む。手前には神橋あり。
 
 社号標石から鳥居までは細い道乍ら舗装されている一般道となっているが、鳥居(写真左)から先は四方田産泰神社の広大な境内となる。鳥居には「産泰神社 金佐奈神社」並んで描かれている。また鳥居を越えてすぐ左側には案内板(写真右)がある。

産泰神社    所在地 本庄市大字四方田二八九
 産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元二年(一三三七)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納し深く感謝したという。
 元禄年間(一六八八~一七〇四)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代代神主をつとめている。
 なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年四月四日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。なお、当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。
 
昭和六十年三月   埼玉県   本庄市                  案内板から引用
        
 境内には松尾芭蕉の句碑があり(写真左)、
「しぐるるや 田のあら株の くろむほど」と刻まれている。碑の裏には慶應元年の建立と刻まれている。
 また参道左側には神楽殿あり(写真右)
神楽殿の手前には「金鑽神楽杉田組」(無形民俗文化財)と記されている標柱があり、春の例祭には、杉田組による金鑽神楽が奉奏される。
 神楽とは神を祀るために演じられる神事芸能・舞楽である。神楽は宮中の御神楽と、民間の里神楽に分けられ、里神楽は、狭義では関東の民間の神楽を指すとされ、神社・地域ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽はほぼ『金鑚神楽』である。『金鑚神楽』は児玉郡、大里郡を中心に13座が組織され、市域では本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西)、杉田組(四方田)、根岸組(小平)、太駄組(太駄)がある。
       
                    拝 殿
 
    「産泰神社」と掲げている額            拝殿には奉納額あり
 安産、子宝祈願に御利益があるとされる本庄市四方田の産泰神社では4月に、春季例大祭が開かれ、安産を願う人、子宝に恵まれたい人、子や孫が生まれて健やかな成長を祈る人たちで賑わう。例大祭は、底がない柄杓か、底がある柄杓を社殿に奉納する珍しい習わし。明治時代初期から定着し、例年多くの参拝者を集めている。桜も満開時期となり、華やいだ雰囲気で行われる。底がないひしゃくには安産の願い、底があるひしゃくには赤ちゃんを授かりたい願いと、無事に生まれた感謝の気持ちが込められているという。
       
                拝殿の左側にある
案内板
○金佐奈神社 御由緒   本庄市四方田二八八ーニ
□御縁起(歴史
)四方田は、武蔵七党の児玉党に属した四方田氏の本貫地であった。地内の「堀の内」には同氏の居館であったと伝えられる館跡があり、当社の境内はこの館跡の東端に当たる。こうした立地からも、当社の創建には四方田氏が深くかかわっていることが推測できる。
『児玉郡誌』によれば、当社は、四方田五郎左衛門資綱がこの地に城砦を築いた際に、その守護神として勧請したものであるという。また、同書は更に、延元二年(一三三七)に北畠顕家が薊山合戦の時、当社に戦勝を祈願して勝利を収めることができたので、奉賽として兜を奉納したことや、元禄年間(一六八八~ 一七〇四)以来、地元の杉田家が代々神職として奉仕してきたことを記してい る。『風土記稿』四方田村の項に「金鑚神社 吉田家の配下、杉田摂津の持、村の鎮守なり」とあるのも、杉田家による祭祀が確固たるものであったことを示しており、同家には元禄十一年(一六九八)以降の裁許状六通の写しがある。 ちなみに、明治以降も、神職は杉田家が伊勢守・嘉内・力衛・右一・泉司・孝好と代々継いで、現在に至っている。
 なお、当社は、一般に「産泰様」として知られているが、これは当社が産泰神社との合殿になっており、後述するように産泰神社の信仰が盛んであったことによるものである。そのため大正十年ごろ「金佐奈産泰神社」と社名を変更しようとしたが、実現には至らなかった。
                                      案内板より引用
      
     広い境内の一角に境内社
稲荷社と猿田彦大神の石祠が鎮座する(写真左)。
               社殿右側には御神木(同右)

 四方田氏(よもだし、よもたし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国
最北端域全域で割拠した武蔵七党の児玉党を構成する一族である。武蔵児玉郡四方田邑の発祥。庄氏より分派した氏族で、庄二郎弘高(児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の次男)が四方田に住み、四方田二郎弘高を名乗ったことから始まる。Wikipediaより引用)
武蔵七党系図
「庄権守弘高―庄三郎左衛門弘長(四方田左近将監)、弟本庄四郎弘季(号四方田、号牧西)、弟五郎弘綱、弟四方田七郎高綱」
 産泰神社・金佐奈神社案内板に記されている四方田五郎左衛門資綱は「吾妻鑑」にも登場している。
吾妻鑑卷三十二「嘉禎四年二月二十二日」
 今日は前駈(前触れ役)を用いず、右馬権頭北條政村が御車の前で先導役に任じた。行列は 先ず右馬権頭北條政村。次いで御車(八葉)宇田左衛門尉 四方田五郎左衛門尉資綱 小宮五郎左衛門尉 本間次郎左衛門尉信忠 左衛門三郎平盛時 富所左衛門尉 若兒玉小次郎 小河三郎兵衛尉直行 参河三郎左衛門尉 飯富源内長能
 以上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に列歩す。(吾妻鑑より引用)
 
           社殿奥に鎮座する境内社・末社群(写真左・右)

 本庄市内には、旧児玉町を含め計11社の分社が存在していて、神流川扇状地には嘗て九郷用水が開削され、その要所には金鑽神社の分社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の1つである児玉党の勢力範囲と一致するといわれ、同党からの金鑽神社崇敬の様子が伺える。


                   

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